アクセスありがとうございます。
相模歳三です。
いよいよ新年度が始まり、社会では新生活が始まっていますね。
さて、今回は僕が先日訪問した奈良県・飛鳥地方についてです!
(地理院地図アプリの画像を元に作成)
奈良県といえば、東大寺や奈良公園が有名な奈良市の方を思い浮かべる方が多いと思います。
しかし、飛鳥地方は数々の歴史の変革の舞台となり、今日の日本の原点とも言えるのです。
でも、奈良市の方は東大寺の大仏もあるし、世界的に有名なお寺もいっぱいある。それに比べたら、飛鳥ってそんなにすごいの
と思われるかも知れませんが...
・日本で初めての本格的なお寺は飛鳥地方の「飛鳥寺」
・聖徳太子が生まれたのも飛鳥地方の「橘寺」
・中大兄皇子らが蘇我氏を滅ぼした乙巳の変が起きたのも「飛鳥宮」
➥ちなみに、中大兄皇子と中臣鎌足が出会った地も近くにあります
・初代天皇の神武天皇が即位した場所も飛鳥地方の「橿原神宮」
···と、飛鳥で歴史が動いた例を挙げるとキリがありません
今回は、そんな歴史が動いた舞台を四方八方から掘り下げてみます!!
そもそも...
駅名は「飛鳥」、でも村名は「明日香」。どちらもよく目にしますが、違いはあるのでしょうか?
ざっと解説すると、まずこのあたりを表す「アスカ」にあてられた漢字は「明日香」「安宿」など様々でした。
その中でも「明日香」は漢字のイメージ的に縁起が良いと考えられ、よく用いられるようになりました。
その中で、「飛鳥」という漢字は和歌における枕詞(=和歌において、ある特定の言葉を導き出すための言葉)として用いられるようになります。例えば...
『飛鳥(とぶとり)の 明日香の里を 置きいなば
君があたりは 見えずかもあらむ』
(元明天皇)
のように、明日香の前に置く言葉として「飛鳥」は定着し、いつしか「飛鳥」を以て「あすか」と読むようになりました。
その後713年に大和政権が制定した『好字二字令』により、地名を二文字に改めなければならなくなり、「飛鳥」が主流になりました。
では、ここからが本題。飛鳥にある歴史の舞台を見ていきましょう!
①橘寺(最初の地図における右下の卍①)
ここには、元々29代欽明天皇(在位539-571)
の別宮(=別荘)「橘宮」がありました。
ちなみに、この欽明天皇の代に朝鮮半島南西部の国・百済
伝えられた年は、聖徳太子の伝記である『上宮聖徳法王帝説』や奈良の元興寺の由来を書いた『元興寺縁起』によれば538年、
大和政権公式の外国向け歴史書である『日本書紀』によれば552年で、前者の方が有力です。
「ここに(552)、ごさんぱい(538)」と覚えればよいでしょう。
ただし、その昔に朝鮮から日本へ渡来してきた"渡来人"の中にも仏教徒がいたため、民衆にはそれ以前に広まっていた可能性もあります。
※司馬達等(しばたっと)は、仏教徒の渡来人として有名。後で出てきます
話を戻して...
その欽明天皇の孫にあたるのがかの有名な聖徳太子。
そのため、聖徳太子は現在は橘寺があるこの地にに生まれました。
太子は熱心に仏教を信仰し、ある時に太子にとって叔母にあたる当時の33代推古天皇(在位593-628)
聖徳太子の仏教への功績は、以前本ブログの「鎌倉新仏教」の回で紹介した浄土真宗の開祖・親鸞聖人が、"日本のお釈迦様"として尊ばれたほど。
実際、聖徳太子が制定した『十七条の憲法』の第二条には
『篤く三宝を敬え。それは仏、法、僧である。
すなわち総ての生物の終わり帰するところであり、
すべての国の頂点の教義である。』
と、仏教における三宝(=仏様・お経・お坊さん)の重要性が示されています。
僕が訪れた時は菜の花と桜が満開でした。
境内の周りにはたくさんの菜の花が。
②岡寺(最初の地図における右下の卍②)
663年に、天武天皇の子である草壁皇子が住んでいた「岡宮」を、当時の仏教指導者・義淵
により仏教道場に改めたことを起源としています。
本堂には日本最古で最大の塑像(=木の芯に年度を塗り固めた像)である如意輪観音像が安置されています。
上の写真だと見づらいので、パンフレットの写真を添付します🔻
境内には三重塔や
③石舞台古墳(最初の地図における右下の☆)
が眠っているとも。
この古墳が作られた当初はよく見る古墳と同じように土がかぶさっていましたが、
(笹山晴生ほか12名『詳説日本史 改訂版』p.23 山川出版社) ※イメージ
🔺7代孝霊天皇の娘の墓とも卑弥呼の墓とも言われている箸墓古墳
しかし、かつて馬子が行ったことに反発した後世の人々が土を取り除いてしまったとも考えられています。
馬子は何をしたのでしょう?
6世紀に仏教が伝わると、大和政権では仏教を受け入れる"崇仏派"と仏教は受け入れず日本古来の神道を尊重する"排仏派"に分かれました。
当時政権で有力だったのは蘇我氏・物部氏・大伴氏などですが、天皇や蘇我氏は崇仏派、物部氏は排仏派となり、互いに対立しました。蘇我氏の筆頭は蘇我稲目。対して物部氏の筆頭は物部尾輿。
対立はその子の代に引き継がれます。
※大伴氏は、これより少し前に朝鮮半島南部「伽耶諸国」にある日本の支部のようなものが百済のものになったことが失政とされ、失脚しました。
両者は激しく対立し、585年には物部尾輿の子である物部守屋
が蘇我稲目の子である蘇我馬子の寺を焼き払うとさらに対立が激化しました、
しかし、天皇は仏教を信仰したため、蘇我氏は天皇を味方につけることとなると、物部氏は孤立していきました。聖徳太子も崇仏派に参加しました。
さらに馬子は娘を天皇にに嫁がせるなどして皇族との血の繋がりも強固なものにしました。
ここまでするのも、物部氏が政権内で軍事担当だったため、いきなり戦いを仕掛けず、じわじわと孤立させていったのです。
そして587年、守屋はこのままでは勝てないと思い大阪の館に戻り武装。馬子はこれを天皇に対する反乱とし、物部氏を攻め滅ぼしました
この時、聖徳太子が四天王の像(持国天・増長天・広目天・多聞天)を作り
『もしこの戦に勝利したなら、必ず四天王を安置する寺院を建てる』
と祈ると、物部守屋が射落とされたといわれています。
その後聖徳太子は宣言通り、館の跡地に四天王寺を建立しました。
見事宿敵を打ち破った馬子は、その娘婿に当たる泊瀬部皇子を崇峻天皇として即位させました。
しかし、馬子は崇峻天皇が権力を持ちすぎているとして自分を嫌っていると思い込み、天皇を暗殺してしまいます。
そんな混乱の中即位したのが、馬子と血の繋がりがある推古天皇。
以後、幼少か女性の天皇が即位した場合、その補佐役として摂政が置かれました。
その後、聖徳太子が飛鳥の西にある斑鳩の地に都を置くと馬子からやや独立したように思われます。
④飛鳥寺(最初の地図における卍③)
作ったのは司馬達等(覚えてますか?)の孫に当たる鞍作鳥と伝わっています。
しかし、中世にかけて寺は荒廃してしまいました。
飛鳥大仏も、元々は金ピカだったのに加え、現存しているのは赤線で囲った部分のみとなっています。

(詳説日本史図録編集委員会(編)『山川 詳説日本史図録』p.38 山川出版社)
本堂ではお寺の方のご丁寧なガイドがありました。
お顔の右半分は厳しい顔、左半分は優しい顔をしていること、
体は正面ではなく、聖徳太子が生まれた橘寺(前に出てきましたね)を向いていることなど、お寺の方にしかわからないようなことばかりでした。
⑤橿原神宮(最初の地図における⛩②)
日本神話によれば、最初は神武天皇は九州の宮崎にいました。
しかし、45歳のときに東征を開始。中国地方から和歌山を経て大和にたどり着きます。その時に大和までの道を案内したのが八咫烏でした。
🔺Wikipediaより
以後、八咫烏はめでたい鳥として重宝されましており、サッカー日本代表のマスコットにもなっています。
今回はここまで。
最後までご覧いただきありがとうございました。
次回もお楽しみに!




































