こんにちは。相模原市シティーセールスサポーターの保田健太です。今回『第4回SYDきらめきメッセージ全国コンクール』に挑戦しました。このコンクールは、小学生から25歳までの3592名が応募し、
2次審査を通過した15名が全国大会で朗読を行いました。
その結果、僕の作品が文部科学大臣賞を受賞しました。
この作品は、壁を乗り越え前進する時の自分の中の奇跡と、
そこから生まれた気づきや思いを明日に繋げていく内容です。
そこに健常者と障害者の違いはありません。この作品が多くの方に読まれ、少しでも社会の役に立てば幸いです。
『進化することを楽しみに』
人間は、弱いけれど強くなれる。そして、誰もがプラスに転じる潜在能力を持っている。それを引き出すのは、感じる心とチャレンジする姿勢だ。だから、困難は強くなる為のチャンスなのだ。私は迷路の
ように現れる壁と向き合い、そう自分に言い聞かせ生きて来た。
平成六年、私は待望の男の子として誕生した。だが、全身に運動
神経の麻痺があり、医師から絶望的な宣告をされた。具体的には、人間が成長と共に自然に出来るようになる日常生活の全てを、訓練で身に付けていくしかないということだ。私の体は、まるでコンセントを差していない電化製品のようだった。
それでも0歳から毎日続けた訓練が功を奏し、次々に奇跡が起きた。四歳で言葉を発した。スプーンやフォークで食べられるように
なった。六歳には介助箸も使えるようになった。幼児期はけいれんを起こし、何度も命の危機に直面した。その度『命にありがとう。』と
感謝し『笑顔で乗り越えよう。』と誓った。
それから私は普通校に通ったが、左手がゆっくり使える程度だったので作業には苦しんだ。神経の麻痺というのは限りなく厄介者だ。座った状態で手を使うにも、体幹で体を支えバランスを保ち、肩甲骨から腕の筋肉を全て使う。もちろん、足の支えも必要で、常に全身の訓練が必要になる。私は家での訓練だけでなく、ジムや水泳にも
積極的に取り組んだ。
その中で一番苦労したのは文字を書くことだ。一日三時間の
練習で、二センチのマスに書けるようになるまで十年かかった。
それまでは大きな解答用紙でテストを受けていた。中二の時
『保田君も漢検受けてみよう。』と先生に勧められた。私は友達と
同じ経験が出来ると思い、もの凄く嬉しかった。まずは十級から
受験し、四級まではスムーズに合格した。
だが、三級は甘くなかった。解答欄も小さく文字の画数も多い。
私の弱点は、止め・はね・はらいなどだ。微調整が上手く出来ず、
隣の文字と接触してしまう。私は悔しくて激しく障害を憎んだ。
そんな時、母はいつも甲子園のDVDをかける。私の特効薬だからだ。三日目くらいに、逆転に次ぐ逆転の壮絶な試合を見た。私には、
まだまだ出来ることがあると反省し、毎日三百回の腹筋を始めた。
だが、二度目も自己採点より二十点低く、五点足りず不合格
だった。その夜、私は豆だらけの手を見つめ鉛筆を振り上げた。
振り下ろした瞬間、驚いた。鉛筆が刺さっていたのは母の手だった。母は静かに『悔しいよね。でも、三級までは絶対に合格すると
始めたんだから、もう一回頑張ろう。』と言った。
それから一ヶ月が過ぎた。私は甲子園の大逆転の試合を見ていた。球児の言葉に胸が熱くなった。『諦めないことの大切さと、どんな状況でも楽しむことを意識して戦いました。苦しいことを乗り切れた
ことが一生の宝物です。』自分の向かい方次第で人は輝ける。
私も宝物が欲しくなった。そして、人間の強さと可能性を信じることにした。私は腹筋を五百回に増やし、手の感覚訓練も強化した。
三度目の挑戦でついに合格した。私は天にも昇る心地でガッツポーズをした。諦めずに努力を続けたから、この喜びがある。
人それぞれに壁があり内容は違う。でも、努力する姿勢が壁を
突き破ることに変わりはない。
現在、私は二十四歳。就職には至っていないが、市のサポーターを務めボランティア活動に精を出している。私が公の場に出ることで、誰かの役に立てばと思っているからだ。
私は高校野球から学び考えた。限界は初めから存在しているものではなく、あると思い込んでいるだけかもしれない。自らの弱い心が作り出した、自分にしか見えない壁ではないかと。だから、目標を
掲げ行動し、それを一つひとつ達成しながら未知への挑戦を
続けよう!自分を信じ、仲間を信じ、新たな出会いを大切にして。
今日は再び来ないから、更なる飛躍の為、勇気を胸に一歩踏み
出そう!進化することを楽しみに。前へ。明日へと。
ご清聴ありがとうございました。
相模原市シティーセールスサポーター保田健太