2日連続で、鈴鹿市内を走りました。
19㎞走(5分55秒/㎞)。
[写真は、三重県鈴鹿市末広南の走路]
(2024.10.6撮影)
三重県松阪市のフットサルチーム「ヴェルデラッソ松阪」(2010年創立)のランニングクラブ(2014年創立)の練習会に参加してきました。参加8名。月1回の練習会ですが、私個人は6月22日以来の参加でした。
斎宮調整池(一周3.5㎞弱)を4周+αしました。全体の練習会が終了したのち、50代の男性ランナー氏と(以前から練習会ではご一緒させて頂いていましたが)初めて懇談しました。学生時代に陸上競技・長距離を全国レベルで極めた方であることが判明しました。これまでの練習会での走りを拝見して、「かなりできる人だな。」と感じていましたので、その素性がわかって納得しました。
「今、なぜランニングを習慣にしているのですか?」の問いに対して、即座に「健康のため。」という答えが返ってきました。市民大会や競技会には一切出場されないとのことで、「何を目標にされているのですか?」と数回にわたって尋ねましたが、これについては中々理解できない部分がありました。
でも、かなりモチベーションをもらいました。
懇談後に、今度は一人で、湖周コースを走りました。
当月3回目の2部練習でした。
いったん帰宅して昼食を摂り、歯医者での治療後、再びその周辺で走り足しました。
■10~13時台に、16㎞走(5分30秒/㎞)
■17~18時台に、09㎞走(5分56秒/㎞)
[写真は、三重県多気郡明和町の斎宮調整池]
(2024.9.28撮影)
この日は、2部練習でした。
2本目は四日市市に移動して、初めて北勢中央公園を走りました。
■11~12時台に、9㎞走(5分45秒/㎞)
■16~17時台に、8㎞走(5分43秒/㎞)
野球場、テニスコート、自然林、芝生広場等を備えた運動公園でした。
特に決められたランニングコースはありませんでした(距離表示なし)が、園外に少し出ても走れる道があるので、園内・園外を混成しながら走りました。
アップダウンは、それなりにあります。
トイレは、各所にありました。東ゲート、西ゲート、南ゲート、北ゲートのうち、南ゲートを出たところにコンビニがありました。
非日常感を楽しむには、有意義でした。
[写真は、三重県四日市市の北勢中央公園]
(2024.9.16撮影)
この日の最後の訪問地です。
平安時代末期の、後白河法皇の近臣・信西(藤原通憲/1106~1159年)が「平治の乱」(1159年)に敗れ、最期を遂げた地です。現場は京都府南部の綴喜郡宇治田原町で、滋賀県(甲賀市・大津市)に隣接しています。
最大の軍事貴族であった平清盛が熊野詣で京都を離れ、軍事的空白が生じたタイミングで、同じ後白河法皇の近臣・藤原信頼と結んだ源義朝により、京都三条の院御所を襲撃される直前に脱出した信西でしたが、領地のある宇治田原に逃れたところを捕えられて斬首されました。享年55。最期は自ら郎党に命じて穴を深く掘らせ、竹筒で空気穴をつけて土中に埋めた箱の中に隠れていたところ、追手に発見されてしまったとされています。
2012年のNHK大河ドラマ『平清盛』におけるその場面が忘れられず、いつかこの場所を訪れたいと思っていました。
かの作品では、信西を阿部サダヲ氏、源義朝を玉木宏氏、平清盛を松山ケンイチ氏が演じていました。源氏軍が迫ってくる絶望的状況の中で、穴から出てくることを求められた信西が、熊野詣から急遽戻ってきた平清盛の顔を確認して安堵した次の瞬間に、それが自らが願望していた儚い夢であったことが判明し、源氏軍に囲まれて絶望するという演出でした。映像作品ならではの演出ですよね。
現場にたどり着いたのが夕方で、気温が下がってきていたので、周辺を少しランニングしようかと思いましたが、この日のここまでの行程でかなり疲労してしまっていて、無理でした。むしろ宇治田原町内の他所にて、車内で仮眠をとるほどでした。
朝から夕まで、自らの好奇心に応じて京都を縦横無尽に移動できて幸せでした。時間はかかりましたが、このような形で備忘録も完成することができて、安堵しています。
[写真は、京都府綴喜郡宇治田原町の信西入道塚]
(2024.9.15撮影)
雲ヶ畑から「持越峠」を越えて、真弓に達しました。
大学生時代(1990年代)に訪れた際は、持越峠は未舗装路でしたが、現在は当たり前のように舗装されていました。
賀茂川の水源地である雲ヶ畑では、長い間、京都御所にも配する水を汚さないように生活してきたと言います。
昭和30年代(1955~1964年)までは、死者の埋葬に際して、亡骸をこの地から持越峠を経て真弓集落まで運び、そこで埋葬の段取りを済ませていました。
京都市立中川小学校真弓分校の跡地に立ち寄りました。
おそらく、大学生時代以来の再訪でした。集落の一角にある非常にこじんまりとした学校跡です。校舎前のモニュメントのプレートに「大魚となりて帰り来よ」と書かれた詩が、頭にずっと残っていました。今回、改めて現認したところ、昭和51年(1976年)3月に京都市教育委員会の指導部長・池田誠一郎氏から贈られたものであることが確認できました。
廃校(休校)時期が、判然としません。
おそらく1991年前後ではないかと思われますが、後刻、WEB上で探しても、うまく探し当てられませんでした。ウィキペディアの「京都府小学校の廃校一覧」にも、掲載がありませんでした。「そんなことって、ある?」という気持ちです。ごく小規模の分校だったからでしょうか?
この分校の本校である「京都市立中川小学校」は、2013年3月に休校になっています。HPはまだ残っていますが、その中に「沿革」や「歴史」などのコーナーがあればよいのですが、ありませんでした。
幸運なことに、旧校舎を清掃している地元の方(女性4名)と懇談する機会に恵まれました。分校時代のことを、色々とお伺いできました。いずれの方も、この集落および分校の出身ではないとのことでしたが、ご子息がこの分校で学んだようでした。
内容の要旨は、以下の通りです。
●この分校での授業は4年生までで、5年生に上がると本校に通った。
●運動会は、全学年で本校で開催していた。
●多いときは一学年10名くらい在籍したが、複式学級での授業だった。
●在籍数が多い時代は、プレハブ校舎を建てて対応していた。
●分校で学んだ最後の世代は、40代に入っている。
●校舎跡は、集落の集会所として活用している。
●現在、この集落には小学生はいない。いる場合は、中川小学校が休校になっているので、同じ北区の衣笠小学校に通学することになっている。
真弓集落は、「北山杉」発祥の地という説があります。
個人的なことですが、私の三重県の自宅の和室に、北山杉の床柱を入れています。国道162号線沿いの「北山杉資料館」で買い入れたものです。もののついでに、そのことも話題にしたら、さらに話が弾みました。話を伺った方の中に、北山杉資料館に勤務していた方がいました。購入した経緯や、対応してもらったスタッフ氏(共通の知人ということになります…)のことなどを話しました。
ただ残念なことに、「北山杉資料館は数年前に閉館した。」という情報を聞きました。思わずその場で、「ええーっ。」と声を上げてしまいました。北山杉をモチーフにした川端康成の小説『古都』の文学碑は、どうなったのだろう…。
「ここから車で10分ほどですよ。」
と教えてもらい、国道162号線に出て、資料館の跡地を車窓から実見してきました。
工事中で、何か新しい施設をつくろうとしている風情でしたが、詳細はわかりません。川端康成の文学碑は、かろうじて残っているように見えました。
月並みな感想ですが、「時間の経過とともに、色々と変わっていくものだなぁ。」と、改めて感じました。時の流れは、何とも残酷ですね。
関係者からのヒアリングは、時間を要してしまう難点(?)がありますが、率直に楽しいですし、活字媒体からだけでは吸収しえない熱量を体感することができます。今回は同行者がなく、比較的時間を自由に使えるシチュエーションでしたので、好奇心のままにこちらからお声掛けをさせてもらいました。感謝。
[写真は、京都市北区の京都市立中川小学校真弓分校の跡地]
(2024.9.15撮影)
ここからは自家用車で、京都郊外をまわりました。
京都での大学生時代(1990年代)に数回訪れたことがある、鴨川(賀茂川)の源流域である北区雲ヶ畑(くもがはた)に、いつか時間に余裕があるときにチャンスがあったら行ってみたいと思っていましたので、賀茂川沿いに府道61号線を北上して、その念願をかなえてきました。
(個人的に、三重県に転じた)2001年7月以来の訪問でした。この間、雲ヶ畑中学校が2011年3月に、雲ヶ畑小学校が2012年3月に廃校になっていました。
惟喬(これたか)親王を祭神とする、惟喬神社に行きました。
惟喬親王(844~897年)は、文徳天皇の第一皇子ですが、第四皇子の惟仁親王(のちの清和天皇)が藤原良房の外孫であることから皇位継承が優先されました。惟喬親王の母が、藤原氏ではなく紀氏の出身であることが影響したのでした。父の文徳天皇は惟仁親王が成人するまでの間、兄の惟喬親王に皇位を継承させる意思を持っていたようですが、実現できませんでした。兄弟で皇位を継承した場合、将来的に両統迭立の可能性が生じることを懸念した結果でした。
大宰権帥や常陸太守、上野太守(「太守」は国司に任命された親王のこと)などの官職を歴任したのち、28歳で病のため出家し、やがて都の北辺で鴨川の源流域である雲ヶ畑の岩屋山金峯寺(志明院)や耕雲寺(高雲禅寺)を宮としました。死期が迫ると、御所の川上にあたる金峯寺を避けて、さらに北にある小野郷、大森へ移って54歳で没しました。
その後半生にて京都北山での生活が長かったからか、木地師の祖とする伝承が全国各地の山間部にあります。
惟喬神社は、志明院と高雲禅寺の中間に立地していますが、こちらは惟喬親王が愛育していた雌鳥が死んだ地に、祠を建てたことが起源とされています。急勾配の斜面に、静かに鎮座していました。
[写真は、京都市北区雲ヶ畑出会町の惟喬神社]
(2024.9.15撮影)
「哲学の道」を外れて150mほど東行すると、「此奥俊寛山荘地」の石碑がありました。個人的に、初見の石碑でした。
俊寛山荘地は、後白河法皇の近臣らが平氏打倒をはかった1177年の「鹿ヶ谷の陰謀」の舞台となった場所で、この石碑からさらに約30分ほど東行した所に立地します。今回は、そこまで足を延ばしませんでした。
ただ前週の勤務校の高校2年生の授業(日本史探究)にて、「鹿ヶ谷の陰謀」が登場したばかりだったので、何とかその旧跡(の一部)に触れたいと思い、探していました。私の中では、授業での「鹿ヶ谷の陰謀」の小ネタは、例年、俊寛の流刑地である鹿児島県の「鬼界ヶ島はどこか?」が専らです。
このあと宿舎の駐車場に戻り、ランニングを終えました。朝食前に約10㎞、朝食後に約8㎞のランでした。
せっかくの機会なので、そのあとは自家用車で、京都郊外をまわりました。
[写真は、京都市左京区の「此奥俊寛山荘地」石碑]
(2024.9.15撮影)