「千宥、おつかれさま」
後ろから声をかけられた。ふりむくと、朝長むつみであった。古波蔵茉衣子もいる。
「どうした、千宥。ため息つくと魂抜けるぞ」
古波蔵茉衣子であった。入学時からの友達で、同じアネックス久世というアパートに暮らす。二年連続で同じクラスだ。大柄で「圧」が強く、実際に強引な面もあるが、千宥によくしてくれて、「大親友」を自称してくれる。なんだかんだ言って、一番頼りにしている親友だ。
「茉衣子ちゃん。それを言うなら幸せが逃げるでしょ」
「お前、ホントに魂抜けそうな顔してるぞ?」
「…大丈夫、気のせいだよ」
「お前が大丈夫って言った時、大丈夫だったためしがねえんだよな」
うぐっ。図星である。茉衣子には、隠し事ができない。
「何かあったの?」
むつみも心配そうだ。むつみはこの春クラス替えで別のクラスにはなったが、ただ一人知り合いもいない中栄久に入学した時に、一番初めに声をかけてくれた、「一番古い」友人である。そして、半年前、千宥や茉衣子と同じアネックスに越してきて以降は、その仲間意識も強まってきたところだ。
「そうだなあ…」
思えば、このアネックスに暮らす仲間はいつの間にかチームアネックスと称するようになったが、女性ホルモンを始めてカミングアウトしたのが、同居人で従姉の田中丸鈴蘭を除けば、チームアネックスなのだ。茉衣子は色々大袈裟に考えがちなのが玉に瑕だが、やはり、相談するとしたらここからだろう。
「実はこのゴールデンウィーク中にね、お母さんにバレちゃった」
言っちゃった。しかし、この二人が聞いてくれたことで、肩の荷が数グラムだけでも降りた気がした。
「千鶴さんに?おお、マジかよ」
茉衣子は眉をひそめた。
「どこまでバレたの?」
むつみも心配そうに眼鏡をずり上げる。
「…全部かな。来たらもう即部屋着を見られたし」
「あのジェラピケのか?」
「そうそう」
「お前…。いちばん可愛いやつじゃねえか」
茉衣子が重い声で軽いことを言い始めたので、千宥は少々脱力する。
「そんな問題じゃないでしょ」
むつみは順当にそれを突っ込む。
「それにね、結局は色々あって、ホルモンのことも知られた」
「そうなんだ…」
むつみは驚いた表情だ。
「で?千鶴さん、なんつった?」
「えっと…」
千宥は一生懸命言葉を探す。
「もううちの子じゃねえってか?見損なったぞ、千鶴さん!」

「み、美佳ちゃん……」
声が小さくなる。自分でも情けないと思うくらい、頼りない声だった。
美佳は少し息を切らしていた。さっき、担任の榊原妙子に職員室に呼ばれていたようだったので、それでだろう。いつもより遅れて校舎を出てきたらしく、鞄の肩紐を片手で押さえながら、こちらへ歩み寄ってくる。表情には、はっきりと心配が浮かんでいた。
「千宥さん、顔色が悪いわ。何かあったの?」
何かあった。ありすぎるほど、あった。
お母さんに知られた。女の姿を見られた。いや、服や髪と言った「姿」だけでなく、身体の変化も、もうごまかせなくなった。でも、姿はいいにしても、身体のことをを美佳に言うことはできない。
今ここで。坂の途中で。茉衣子とむつみがいる前で。何の準備もなく。そんなことが、できるわけがない。
「……なんでもないよ」
結局、口から出たのは、いつもの言葉だった。
言った瞬間、茉衣子が横で露骨にため息をついた。無理あんだろ。目がそう言っている。しかし、美佳を相手に、余計なことを言うわけにもいかず、それとなく示すにとどめた。千宥は肩をすくめる。
むつみも困ったように千宥を見ていた。責めるような目ではない。けれど、むつみの目も茉衣子の目と同じことを言っているような気がした。
美佳も、すぐには納得しなかった。当然だ。ついさっきまで、千宥は茉衣子とむつみに相談していた。しかも、たぶん美佳が近づいてきた瞬間、三人ともかなり分かりやすく固まった。
それで「なんでもない」は、さすがに通らない。
「……私が来ない方がよかった話?」
美佳が静かに言った。
その言葉に、千宥の胸がずきりと痛んだ。
違う。そうじゃない。
美佳が悪いわけではない。美佳が来たから困っているわけでもない。
いや、困ってはいる。でも、それは美佳が悪いからではなくて、美佳だから困っているのだ。
それをどう説明すればいいのか、千宥には分からなかった。
「違うの」
千宥は慌てて首を振った。
「美佳ちゃんが悪いとか、そういうことじゃないの」
「じゃあ、どういうこと?」
美佳の声は、落ち着いていた。落ち着こうとしている声だった。
千宥は、その声を知っている。美佳は、感情が揺れた時ほど、きちんとした顔をする。背筋を伸ばして、言葉を選んで、相手に失礼のないようにする。桜純女学院で身につけたものなのか、それとも新宮領家で育つうちに染みついたものなのか、千宥には分からない。
でも、その落ち着きの奥で、美佳が何かを飲み込んでいることだけは分かった。
「えっと……」
千宥は言葉を探した。美佳に知られたくない。でも、美佳を遠ざけたいわけではない。その二つは、千宥の中では両立している。けれど、言葉にすると、とてもひどいことを言っているように聞こえる。
「千宥」
茉衣子が低い声で言った。
「言えねえなら、言えねえって言え。なんでもないで逃げんな」
「……うん」
茉衣子の言い方は乱暴だったが、間違ってはいなかった。千宥は、小さく息を吸った。
「なんでもなくは、ない」
美佳の表情が少しだけ変わった。
「うん」
「でも、今すぐ全部話せることでもなくて」
「私には、聞かせたくない話?」
千宥は、また言葉に詰まった。聞かせたくない。聞いてほしくないわけではない。その違いは、あまりにも細すぎた。
「……美佳ちゃんには、ちゃんと話さないといけないことだと思ってる」
千宥は、ゆっくりと言った。
「でも、今じゃない。今ここで、いきなり言うのは、無理」
言いながら、自分の手が少し震えていることに気づいた。
怖い。お母さんに知られた時とは、また別の怖さだった。
母は、親だ。いつか向き合わなければならない相手だった。怖かったし、今も怖い。けれど、親としての立場があるからこそ、話の方向もある程度は想像できた。
でも、美佳は違う。許嫁。幼い頃から自分を好きだと言い続けてきた相手。男だった頃の千宥に恋をして、その千宥が女の姿になってもなお、好きだと言った人。その美佳に、千宥はまだ、最も大事なところを言えていない。
服だけではない。髪だけではない。呼ばれ方だけでもない。もう、自分の身体そのものに手を入れている。
そのことを言えば、美佳はどうするのだろう。また、「それでも愛すると決めた」と言うのだろうか。それが怖かった。
嬉しいはずなのに、怖い。受け入れてくれることが、怖い。
美佳が自分のために、また何かを飲み込んでしまう気がするから。
「千宥さん」
美佳が、静かに名前を呼んだ。千宥は顔を上げる。
「私は、聞いてはいけない?」
「違う」
千宥は即座に首を振った。
「聞いてほしくないんじゃない。……たぶん、聞いてほしい。でも、怖い」
美佳は何も言わなかった。茉衣子も、むつみも黙っている。千宥は、言葉が崩れないように、ゆっくり続けた。
「美佳ちゃんは、私のこと、何でも受け止めようとするでしょ」
「そんなこと……」
「あるよ」
千宥は、美佳の言葉を遮った。普段なら、こんなふうに強く言えない。けれど、今言わなければ、また流れてしまう気がした。
「女装のこともそうだった。私が女の子の格好をしてるって分かった時、美佳ちゃん、すごく悩んだよね」
美佳のまつげが、ほんの少し伏せられる。
「でも、最後には言ってくれた。女の姿の私を愛すると決めた、って」
茉衣子がわずかに目をそらした。むつみも何も言わない。美佳は、まっすぐに千宥を見ていた。
「私は、それが嬉しくなかったわけじゃないよ」
千宥は言った。
「嬉しかった。美佳ちゃんが離れていかないって思えたから。でも、同時に怖かった」
「怖かった?」
「うん」
千宥はうなずく。
「美佳ちゃんが、私のために自分を曲げてるんじゃないかって。無理して、受け入れようとしてるんじゃないかって」
美佳の表情が、ほんの少し硬くなった。
「私は、自分で選んだわ」
「そう言うと思った」
千宥は苦笑した。
「そう言うと思ったから、言えなかった」
美佳は黙った。その沈黙が、千宥にはつらかった。美佳が怒っているのか、傷ついているのか、それともただ考えているのか、分からない。けれど、美佳が何かを飲み込んでいることだけは分かった。
「千宥さんは」
しばらくして、美佳が口を開いた。
「私が、無理をしていると思っているの?」
「思っているというか……怖いの」
「私が?」
「うん」
千宥は正直にうなずいた。
「美佳ちゃん、強いから。強いというか、決めたら曲げないから。自分の中で答えを出したら、それを守ろうとするでしょ。でも、それが本当に美佳ちゃんの気持ちなのか、それとも、私を好きでいるために頑張っているだけなのか、私には分からない」
「……それは」
美佳が言いかけて、止まる。千宥は、その続きを待った。美佳はすぐに否定すると思っていた。無理なんかしていない。私は本気。自分で選んだ。そう言うと思っていた。しかし、千宥はもっと「別の感情」がわき起こった。それは、偽りではない自分の本音。しかし、空気を壊すまいと言い出せなかったこと。だけど、「こうなったら言ってしまいたい」と、頭をよぎったことである。
「もっと正直に言うとね…」
「なに?」
美佳は目線を外さなかった。
「私は、正直、それを受け止める自信がないし、やはり、本来は受け止めるべきじゃないと思う」
美佳が真顔のまま固まった。
「どういうこと?」
「だって、こんな姿になっちゃったんだよ。いや、自分でなったんだけど。美佳ちゃんは、本来は男の私を好きになったわけだから、もっといい男の人が現れると思ってる。そして、私はもはやそうはなれない」

「私は、男の人なら誰でもよかったわけではないわ。男の千宥さんという条件だけを好きになったわけでもない」
「……でも、最初はそうだったでしょ」
「最初は、そう見えていたかもしれない」
美佳は言った。
「小さい頃の私は、千宥さんのことを男の子だと思っていた。将来、結婚する相手だと思っていた。それは事実よ」
千宥は唇を噛んだ。
「だったら」
「でも、それだけで十年以上も好きではいられないわ」
千宥は言葉を失った。美佳の目は、揺れていた。けれど、逸らさなかった。
「千宥さんが思っているより、私はずっと長くあなたを見てきたわ。会える回数は少なかった。年に一度も会えない時もあった。でも、会えない間も、私は千宥さんのことを考えていた。手紙を読み返して、昔の写真を見て、次に会ったら何を話そうか考えていた」
美佳の声が、少し震えた。
「それを、男だ男じゃないで終わらせられるのは……嫌」
千宥の胸がずきりと痛んだ。
「ごめん」
「謝ってほしいわけではないわ」
美佳はすぐに言った。
けれど、その声も少し苦しそうだった。
「でも、傷ついた」
千宥は顔を上げられなかった。
傷つけた。美佳のためだと思っていた。いや、本当に美佳のためでもあった。
自分の状況を思えば、しょうがないことだと思う。
しかし、とても心が痛い。美佳に失望されるのが怖かった。美佳が離れていくのが怖かった。今、自分の胸の内を、明かせるギリギリのラインで明かし、早速後悔している自分がいる。…おんなじだ。
千宥は突然昔の記憶がフラッシュバックした。自分を変えるために、敢えて「悪い子」になった、二年前の夏のこと。しかし、そのことで、逆に落ち着きを取り戻した。
今、この瞬間が必要だったと思う日は、きっとくる。よし。とことん正直に話そう。千宥は顔を上げ、一旦深呼吸した。
「美佳ちゃん、あのね…」
「どうして?」
美佳は千宥の言葉を遮った。
「えっ」
「今千宥さんが、どうして急にこんなこと言い出したのか考えていたの」
「それは…」
「だって、もうとっくにわかっていたことじゃない。だから、二回目にここに来た時に、私は言ったはずよ。女性の千宥さんを受け止めるって」
「あれは…」
確かに、女性の姿の千宥を受け止めるとは聞いた。しかし、その先である。
「あれで、話は全部終わったはずでしょう?」
美佳の思いは、それがすべてだということ。しかし、千宥にはまだ言っていない「その先」がある。
「終わりじゃなくてね…」
「まだ何かあるというの?」
ある。もっとどうしようもないものがある。千宥は、押し切ることも引くこともできず、万策尽きたように立ち尽くした。
「それは…」
「もういいでしょう、千宥さん。もう半年もたって、これ以上何を悩めというの?もうあなたの子を産むことはとっくに諦めているし、手術は…多分するのよね。それでもいいから、側にいてちょうだい」
千宥は、困ったように首を回した。
「あの、ちょっと待って。いや、うん。話が色々変な方向に行ってるって言うか、色々進み過ぎているというか…。いや待って、なにこれ」

千宥はふと、茉衣子とむつみの方を見た。先ほどから話に入れず黙っていた二人も、目を合わせて、苦笑した。
「千宥、あたしにもわかんねえけど、言われるまでもなく、覚悟はできてるみたいだぞ」
「まあ、知らないんだろうけど、もう最初からそのつもりみたいよ」
はたから見ている二人の見識は一致した。美佳がどれぐらい把握しているかは不明だが、十一月の「決意表明」の時点で、千宥はトランスをやり切る前提の覚悟だったということだ。千宥は今度は高速で美佳の方を向いた。美佳は、千宥をまっすぐ見ていた。その顔には、怒りとも、呆れとも、悲しみともつかないものが浮かんでいた。
「千宥さん」
「は、はい」
「私を、どれだけ鈍いと思っていたの?」
「……え?」
千宥は間の抜けた声を出した。今、美佳は何と言ったのか。
鈍い。それは、何に対しての話なのか。
「待って、美佳ちゃん」
「待たないわ」
「いや、待って。え、どういうこと?」
美佳は一度だけ息を吐いた。
「あの時から、分かっていたわ」
千宥は固まった。言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。
あの時。女装が知られて、千宥がもうごまかせないと思った時。美佳が長い沈黙の後で、「女性の姿の千宥さんを愛すると決めた」と言った時。その時から。
「……分かってた、って」
千宥の声が掠れた。
「どこまで?」
聞くのが怖かった。でも、聞かずにはいられなかった。美佳は、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「少なくとも、ただ服を着ているだけではないことは」
千宥は息を止めた。茉衣子が小さく「おお……」と漏らし、むつみが軽く目を伏せた。美佳は続けた。
「最初は、確信ではなかったわ。でも、千宥さんの雰囲気も、身体つきも、肌の感じも、昔と違っていた。もちろん、成長したからというのもある。でも、それだけではない気がしたの」
「……」
「最初にここに来たのは、十月。あの時は、まだ気のせいだと思っていたわ」
「気のせい?」
「まあ、あの時は私も桜純にいたし、同世代の男の子と比べる機会なんてほとんどなかったしね。それでも、声が変わっていないこととか、どこか『成長していない』感じはあったわ。むしろ、女の子っぽいとも思った。でも、その時は格好のせいだと思っていたの。…そうよね。初めて女性の姿の千宥さんを見たのだから。インパクトはとても強かったわ。でも…」
美佳はそこで一息ついた。
「次に来た時に、確信に変わったわ。千宥さん、女性になるために何かしてるって。明らかに一か月で、あなたは変わったわ。聞いてないからわからないけど、毎日会っていた茉衣子たちよりはわかっていたと思うわ」
ここで美佳は茉衣子とむつみに向き直った。二人は「なるほど」とばかりに苦笑するしかなかった。この時、千宥は女性ホルモン開始から四か月目。千宥自身の中でも体が大きく変わっていた時期であることは非常によく覚えている。
「ねえ、茉衣子たちが『気づいた』のって、いつ?」
美佳は問いかけた。まだ、この場で誰も「ホルモン」という単語を出した者はいない。だけど、もう前提かのように二人は答えた。
「私たちが聞いたのは三月だから、その時よ」
「あたしも聞いたのはその時だけど、あれ?って思ったのは正月だな」
美佳は笑顔で頷き、千宥に向き直る。
「千宥さん。二人だって…健介くんとか慎吾くん、あと玉井さんもそうなのかしら?ほぼ毎日顔を合わせていたチームアネックスの皆さんが、三月までにぽつぽつ気づいていた。で、四月、半年ぶりに会った私が気づかないと思う?『アハ体験』より簡単よ」