ゴールデンウィーク明け初日の放課後。杠千宥は考え事をしながら、とぼとぼと家路につこうとしていた。
…お母さんに、女性になろうとしていること、知られちゃった。格好だけじゃなく、ホルモンまで。
もちろん、いずれ訪れることだったのはわかってる。だけど、もっと心の準備が欲しかった。この調子でいつか父親にまで知られたら…。千宥は数日前の「その時」以来、こうやって震えることがある。
救いなのは、母はこのことを、全否定しなかったことだ。もちろん、戸惑いもあっただろうし、本当は真っ当に育ってほしかったろうと思う。当事者であれど、わかる。せっかく五体満足で生まれたのに、自ら体を壊すような真似をしたり、このご時世、これについては色々な考えもあるが、子供を作れないような体になることは、親としては承服しがたいものだろう。でも、それ以上に自分自身がその体で生きることは、耐え難い。そう思って、今から三年半前、自ら踏み出したことだ。その選択は後悔していない。後悔しなかったからこそ、「男になるのを止める」段階から「女になる」段階へと進んだ。おかげさまで、今は毎日が楽しい。もちろん全員ではないが、周囲の友人知人は理解してくれている。だけど、今後、乗り越えないといけない壁はまだいくつかある。千宥の中では「中ボス」が二名、「ラスボス」が一名だととらえている。……「ラスボス」のことは、正直、考えるだけで時として吐き気にすら襲われる。でも、中ボスも、千宥の胃を重くするには充分であった。つい数日前、中ボスの片翼が陥落した。もう片翼……それは、男だった時から自分のことを恋い慕ってきた新宮領美佳だ。今、彼女は「女装」していることはもう知っている。その時点で、当然ながら彼女はずいぶんと悩みぬいた。正直、千宥はこの時点で、向こうから破局を切り出してくれた方が楽だった。ちなみに、こちらから言っても無駄である。中学の時は、正直年に一回も会えなかったが、その折に、話を試みたことがある。
「正直、これ親が決めた関係だよね。こちらとしては本気になれないから、もうやめよう。許嫁なんて、こんなの、時代じゃないよ」
しかし、美佳の答えには徒労感を覚えた。
「千宥さん。そんな、許嫁なんて、きっかけにすぎないわ。あなたのお父様と私の父とで決まったことかもしれない。でも、私は本気。これは変わらないの。何年かけても、私が千宥さんを本気にしてみせるわ」
まるで話にならなかった。そして、女装発覚から一月後、彼女の答えは、「女性の姿の千宥さんを愛すると決めた」だった。
今思い出してもため息しか出ない。そして、挙句の果てには、わざわざ幼稚園から十年以上通ったお嬢様学校を後にして、この春若栄久高校に転校してきたというのだ。どういう意図かは今でも千宥は十分に理解していない。尋ねても、「千宥さんと一緒にいたいの」とか「私が支えてあげる、それだけよ」としか返ってこない。…わざわざ、そこまでするか?千宥は金にものを言わせて仕掛けてきたその行動が理解できなかった。
「はあ…」
またため息である。
「千宥、おつかれさま」
後ろから声をかけられた。ふりむくと、朝長むつみであった。古波蔵茉衣子もいる。
「どうした、千宥。ため息つくと魂抜けるぞ」
古波蔵茉衣子であった。入学時からの友達で、同じアネックス久世というアパートに暮らす。二年連続で同じクラスだ。大柄で「圧」が強く、実際に強引な面もあるが、千宥によくしてくれて、「大親友」を自称してくれる。なんだかんだ言って、一番頼りにしている親友だ。
「茉衣子ちゃん。それを言うなら幸せが逃げるでしょ」
「お前、ホントに魂抜けそうな顔してるぞ?」
「…大丈夫、気のせいだよ」
「お前が大丈夫って言った時、大丈夫だったためしがねえんだよな」
うぐっ。図星である。茉衣子には、隠し事ができない。
「何かあったの?」
むつみも心配そうだ。むつみはこの春クラス替えで別のクラスにはなったが、ただ一人知り合いもいない中栄久に入学した時に、一番初めに声をかけてくれた、「一番古い」友人である。そして、半年前、千宥や茉衣子と同じアネックスに越してきて以降は、その仲間意識も強まってきたところだ。
「そうだなあ…」
思えば、このアネックスに暮らす仲間はいつの間にかチームアネックスと称するようになったが、女性ホルモンを始めてカミングアウトしたのが、同居人で従姉の田中丸鈴蘭を除けば、チームアネックスなのだ。茉衣子は色々大袈裟に考えがちなのが玉に瑕だが、やはり、相談するとしたらここからだろう。
「実はこのゴールデンウィーク中にね、お母さんにバレちゃった」
言っちゃった。しかし、この二人が聞いてくれたことで、肩の荷が数グラムだけでも降りた気がした。
「千鶴さんに?おお、マジかよ」
茉衣子は眉をひそめた。
「どこまでバレたの?」
むつみも心配そうに眼鏡をずり上げる。
「…全部かな。来たらもう即部屋着を見られたし」
「あのジェラピケのか?」
「そうそう」
「お前…。いちばん可愛いやつじゃねえか」
茉衣子が重い声で軽いことを言い始めたので、千宥は少々脱力する。
「そんな問題じゃないでしょ」
むつみは順当にそれを突っ込む。
「それにね、結局は色々あって、ホルモンのことも知られた」
「そうなんだ…」
むつみは驚いた表情だ。
「で?千鶴さん、なんつった?」
「えっと…」
千宥は一生懸命言葉を探す。
「もううちの子じゃねえってか?見損なったぞ、千鶴さん!」
「ち、違うの。そうじゃないの。えっと、どう言ったらいいのかな」
茉衣子が怒り始めたので、千宥は慌てた。心配してくれるのは非常にありがたいが、時折早とちりが過ぎることがあるのが茉衣子なのだ。
「服とか髪だけじゃないよね?って言われたの。ドキってしちゃって。もう、ごまかせないって思って、言った」
「ホルモンしてるって?」
「うん」
茉衣子の問いに、短くうなずいた。数秒の間、沈黙が流れた。
「それで、千鶴さん、何て言ったの?」
今度はむつみが問うた。
「えっと、気持ちはわかるけど、黙って進めないでほしかったって。辛いのはわかるけど、すごくリスクのあることだから。病院探そうって」
「でも、診断はお父さんをどうにかしないと無理なんだよね」
「それは言った。…でも、それでも、体がどうかなってないかとかからでもいいから、診てもらおうって」
「そっか…」
「許してもらえたのか」
茉衣子の声が、さっきより若干軽くなった。
「全部じゃないと思う。一緒に抱えるって感じだった」
「いいじゃんか。否定されなかったのはでけえじゃん」
「そうだね…」
千宥は力なく笑う。
「で、他に何か話はしたん?」
「あとは……次は二生の話になって、私のことはそこからはうやむやになったから」
「二生、なんかしたの?」
むつみが眉をひそめた。千宥の妹の二生は、千宥の様子を毎日父親に連絡し報告するように義務付けられているのだ。
「いや…、うーん。お父さんとの関係でごたついてるのは二生もそうっていうか。私ほど重くないし、それも私が発端ではあるんだけど」
「千宥、もうお前は私のせいでとか言うな。言っちゃわりいけど、それはお前の父ちゃんが『毒』なだけだろ」
茉衣子がぴしゃりと言った。しかし、千宥はそれ自体は否定しようもないことだ。
「うん、それはそう」
また一瞬の沈黙。
「で、どうすんだよお前」
「わかんないよ。どうしたらいいか…」
千宥はうつむいたまま首を横に振った。重くなる空気。しかし、次の瞬間だった。
「千宥さん!どうしたの?」
重い空気を切り裂くように呼びかけられた。三人は同時に振り向いた。美佳。今の千宥にとっての目下の悩みの種。「もう片方の中ボス」攻略の余波に飲まれつつあったが、本当に不安なのはこちらの中ボスだった。その本人が、今まさに目の前にいる。千宥は、喉の奥がきゅっと縮むのを感じた。
「み、美佳ちゃん……」
声が小さくなる。自分でも情けないと思うくらい、頼りない声だった。
美佳は少し息を切らしていた。さっき、担任の榊原妙子に職員室に呼ばれていたようだったので、それでだろう。いつもより遅れて校舎を出てきたらしく、鞄の肩紐を片手で押さえながら、こちらへ歩み寄ってくる。表情には、はっきりと心配が浮かんでいた。
「千宥さん、顔色が悪いわ。何かあったの?」
何かあった。ありすぎるほど、あった。
お母さんに知られた。女の姿を見られた。いや、服や髪と言った「姿」だけでなく、身体の変化も、もうごまかせなくなった。でも、姿はいいにしても、身体のことをを美佳に言うことはできない。
今ここで。坂の途中で。茉衣子とむつみがいる前で。何の準備もなく。そんなことが、できるわけがない。
「……なんでもないよ」
結局、口から出たのは、いつもの言葉だった。
言った瞬間、茉衣子が横で露骨にため息をついた。無理あんだろ。目がそう言っている。しかし、美佳を相手に、余計なことを言うわけにもいかず、それとなく示すにとどめた。千宥は肩をすくめる。
むつみも困ったように千宥を見ていた。責めるような目ではない。けれど、むつみの目も茉衣子の目と同じことを言っているような気がした。
美佳も、すぐには納得しなかった。当然だ。ついさっきまで、千宥は茉衣子とむつみに相談していた。しかも、たぶん美佳が近づいてきた瞬間、三人ともかなり分かりやすく固まった。
それで「なんでもない」は、さすがに通らない。
「……私が来ない方がよかった話?」
美佳が静かに言った。
その言葉に、千宥の胸がずきりと痛んだ。
違う。そうじゃない。
美佳が悪いわけではない。美佳が来たから困っているわけでもない。
いや、困ってはいる。でも、それは美佳が悪いからではなくて、美佳だから困っているのだ。
それをどう説明すればいいのか、千宥には分からなかった。
「違うの」
千宥は慌てて首を振った。
「美佳ちゃんが悪いとか、そういうことじゃないの」
「じゃあ、どういうこと?」
美佳の声は、落ち着いていた。落ち着こうとしている声だった。
千宥は、その声を知っている。美佳は、感情が揺れた時ほど、きちんとした顔をする。背筋を伸ばして、言葉を選んで、相手に失礼のないようにする。桜純女学院で身につけたものなのか、それとも新宮領家で育つうちに染みついたものなのか、千宥には分からない。
でも、その落ち着きの奥で、美佳が何かを飲み込んでいることだけは分かった。
「えっと……」
千宥は言葉を探した。美佳に知られたくない。でも、美佳を遠ざけたいわけではない。その二つは、千宥の中では両立している。けれど、言葉にすると、とてもひどいことを言っているように聞こえる。
「千宥」
茉衣子が低い声で言った。
「言えねえなら、言えねえって言え。なんでもないで逃げんな」
「……うん」
茉衣子の言い方は乱暴だったが、間違ってはいなかった。千宥は、小さく息を吸った。
「なんでもなくは、ない」
美佳の表情が少しだけ変わった。
「うん」
「でも、今すぐ全部話せることでもなくて」
「私には、聞かせたくない話?」
千宥は、また言葉に詰まった。聞かせたくない。聞いてほしくないわけではない。その違いは、あまりにも細すぎた。
「……美佳ちゃんには、ちゃんと話さないといけないことだと思ってる」
千宥は、ゆっくりと言った。
「でも、今じゃない。今ここで、いきなり言うのは、無理」
言いながら、自分の手が少し震えていることに気づいた。
怖い。お母さんに知られた時とは、また別の怖さだった。
母は、親だ。いつか向き合わなければならない相手だった。怖かったし、今も怖い。けれど、親としての立場があるからこそ、話の方向もある程度は想像できた。
でも、美佳は違う。許嫁。幼い頃から自分を好きだと言い続けてきた相手。男だった頃の千宥に恋をして、その千宥が女の姿になってもなお、好きだと言った人。その美佳に、千宥はまだ、最も大事なところを言えていない。
服だけではない。髪だけではない。呼ばれ方だけでもない。もう、自分の身体そのものに手を入れている。
そのことを言えば、美佳はどうするのだろう。また、「それでも愛すると決めた」と言うのだろうか。それが怖かった。
嬉しいはずなのに、怖い。受け入れてくれることが、怖い。
美佳が自分のために、また何かを飲み込んでしまう気がするから。
「千宥さん」
美佳が、静かに名前を呼んだ。千宥は顔を上げる。
「私は、聞いてはいけない?」
「違う」
千宥は即座に首を振った。
「聞いてほしくないんじゃない。……たぶん、聞いてほしい。でも、怖い」
美佳は何も言わなかった。茉衣子も、むつみも黙っている。千宥は、言葉が崩れないように、ゆっくり続けた。
「美佳ちゃんは、私のこと、何でも受け止めようとするでしょ」
「そんなこと……」
「あるよ」
千宥は、美佳の言葉を遮った。普段なら、こんなふうに強く言えない。けれど、今言わなければ、また流れてしまう気がした。
「女装のこともそうだった。私が女の子の格好をしてるって分かった時、美佳ちゃん、すごく悩んだよね」
美佳のまつげが、ほんの少し伏せられる。
「でも、最後には言ってくれた。女の姿の私を愛すると決めた、って」
茉衣子がわずかに目をそらした。むつみも何も言わない。美佳は、まっすぐに千宥を見ていた。
「私は、それが嬉しくなかったわけじゃないよ」
千宥は言った。
「嬉しかった。美佳ちゃんが離れていかないって思えたから。でも、同時に怖かった」
「怖かった?」
「うん」
千宥はうなずく。
「美佳ちゃんが、私のために自分を曲げてるんじゃないかって。無理して、受け入れようとしてるんじゃないかって」
美佳の表情が、ほんの少し硬くなった。
「私は、自分で選んだわ」
「そう言うと思った」
千宥は苦笑した。
「そう言うと思ったから、言えなかった」
美佳は黙った。その沈黙が、千宥にはつらかった。美佳が怒っているのか、傷ついているのか、それともただ考えているのか、分からない。けれど、美佳が何かを飲み込んでいることだけは分かった。
「千宥さんは」
しばらくして、美佳が口を開いた。
「私が、無理をしていると思っているの?」
「思っているというか……怖いの」
「私が?」
「うん」
千宥は正直にうなずいた。
「美佳ちゃん、強いから。強いというか、決めたら曲げないから。自分の中で答えを出したら、それを守ろうとするでしょ。でも、それが本当に美佳ちゃんの気持ちなのか、それとも、私を好きでいるために頑張っているだけなのか、私には分からない」
「……それは」
美佳が言いかけて、止まる。千宥は、その続きを待った。美佳はすぐに否定すると思っていた。無理なんかしていない。私は本気。自分で選んだ。そう言うと思っていた。しかし、千宥はもっと「別の感情」がわき起こった。それは、偽りではない自分の本音。しかし、空気を壊すまいと言い出せなかったこと。だけど、「こうなったら言ってしまいたい」と、頭をよぎったことである。
「もっと正直に言うとね…」
「なに?」
美佳は目線を外さなかった。
「私は、正直、それを受け止める自信がないし、やはり、本来は受け止めるべきじゃないと思う」
美佳が真顔のまま固まった。
「どういうこと?」
「だって、こんな姿になっちゃったんだよ。いや、自分でなったんだけど。美佳ちゃんは、本来は男の私を好きになったわけだから、もっといい男の人が現れると思ってる。そして、私はもはやそうはなれない」
言ってしまった。口にした瞬間、千宥は、自分の言葉が美佳の胸にまっすぐ刺さったのを見た気がした。
美佳は何も言わなかった。怒るでも、泣くでもない。ただ、真顔のまま固まっている。その沈黙が、千宥には何より怖かった。
やっぱり、言わなければよかった。そう思った。でも、もう戻せない。
「……千宥さん」
しばらくして、美佳が口を開いた。声は静かだった。静かすぎるくらいだった。
「それは、私のために言っているの?」
「……うん」
千宥は小さくうなずいた。
「美佳ちゃんには、もっと普通に幸せになってほしいっていうか……」
「普通に?」
美佳の声が、ほんの少しだけ硬くなった。千宥はそこで、自分がまた言葉を間違えたのだと気づいた。
「ご、ごめん。そういう意味じゃなくて」
「では、どういう意味?」
美佳は逃がしてくれなかった。その問いは責めるようではなかった。けれど、千宥の曖昧な言葉を、ひとつずつほどいていくようだった。
「……私じゃ、だめだと思うの」
千宥は視線を落とした。
「美佳ちゃんが思ってたような人には、もうなれない。美佳ちゃんが小さい頃から好きだった私は、たぶんもういない。いや、私自身は私なんだけど……でも、違うんだよ。美佳ちゃんが好きになった形とは、もう違う」
胸の奥が苦しくなる。自分で選んだことだ。後悔はしていない。
男としての成長に抗い、拒絶すること。女の子の姿で生きること。その先へ進むこと。
それでも、誰かがかつて好きだった自分を、自分の手で壊してしまったような感覚は、完全には消えてくれなかった。
「だから、美佳ちゃんがそれでもって言うたびに、怖くなる。美佳ちゃんが、私のことを好きでいるために、どんどん無理してるんじゃないかって。私が変わった分を、美佳ちゃんが全部背負おうとしてるんじゃないかって」
美佳は黙って聞いていた。その目が、痛かった。
「私は、そんなの背負わせたくない」
千宥は続けた。
「本当は、美佳ちゃんが私のことなんか諦めて、もっとちゃんと……」
「千宥さん」
美佳が、千宥の言葉を遮った。
静かな声だった。でも、そこには明確な力があった。
「私の気持ちを、私より先に片づけないで」
千宥は息を呑んだ。美佳はまっすぐに千宥を見ていた。
「もっといい男の人がいるかどうかは、私が決めることよ」
「でも」
「でも、ではないわ」
普段の美佳なら、そこで一拍置いただろう。言葉を選び、柔らかく言い換えただろう。けれど今は違った。
千宥は、少しだけ怯んだ。美佳が怒っている。大声を出しているわけではない。表情も大きく崩れてはいない。けれど、その声の奥には、確かに怒りがあった。
「私は、男の人なら誰でもよかったわけではないわ。男の千宥さんという条件だけを好きになったわけでもない」
「……でも、最初はそうだったでしょ」
「最初は、そう見えていたかもしれない」
美佳は言った。
「小さい頃の私は、千宥さんのことを男の子だと思っていた。将来、結婚する相手だと思っていた。それは事実よ」
千宥は唇を噛んだ。
「だったら」
「でも、それだけで十年以上も好きではいられないわ」
千宥は言葉を失った。美佳の目は、揺れていた。けれど、逸らさなかった。
「千宥さんが思っているより、私はずっと長くあなたを見てきたわ。会える回数は少なかった。年に一度も会えない時もあった。でも、会えない間も、私は千宥さんのことを考えていた。手紙を読み返して、昔の写真を見て、次に会ったら何を話そうか考えていた」
美佳の声が、少し震えた。
「それを、男だ男じゃないで終わらせられるのは……嫌」
千宥の胸がずきりと痛んだ。
「ごめん」
「謝ってほしいわけではないわ」
美佳はすぐに言った。
けれど、その声も少し苦しそうだった。
「でも、傷ついた」
千宥は顔を上げられなかった。
傷つけた。美佳のためだと思っていた。いや、本当に美佳のためでもあった。
自分の状況を思えば、しょうがないことだと思う。
しかし、とても心が痛い。美佳に失望されるのが怖かった。美佳が離れていくのが怖かった。今、自分の胸の内を、明かせるギリギリのラインで明かし、早速後悔している自分がいる。…おんなじだ。
千宥は突然昔の記憶がフラッシュバックした。自分を変えるために、敢えて「悪い子」になった、二年前の夏のこと。しかし、そのことで、逆に落ち着きを取り戻した。
今、この瞬間が必要だったと思う日は、きっとくる。よし。とことん正直に話そう。千宥は顔を上げ、一旦深呼吸した。
「美佳ちゃん、あのね…」
「どうして?」
美佳は千宥の言葉を遮った。
「えっ」
「今千宥さんが、どうして急にこんなこと言い出したのか考えていたの」
「それは…」
「だって、もうとっくにわかっていたことじゃない。だから、二回目にここに来た時に、私は言ったはずよ。女性の千宥さんを受け止めるって」
「あれは…」
確かに、女性の姿の千宥を受け止めるとは聞いた。しかし、その先である。
「あれで、話は全部終わったはずでしょう?」
美佳の思いは、それがすべてだということ。しかし、千宥にはまだ言っていない「その先」がある。
「終わりじゃなくてね…」
「まだ何かあるというの?」
ある。もっとどうしようもないものがある。千宥は、押し切ることも引くこともできず、万策尽きたように立ち尽くした。
「それは…」
「もういいでしょう、千宥さん。もう半年もたって、これ以上何を悩めというの?もうあなたの子を産むことはとっくに諦めているし、手術は…多分するのよね。それでもいいから、側にいてちょうだい」
千宥は、困ったように首を回した。
「あの、ちょっと待って。いや、うん。話が色々変な方向に行ってるって言うか、色々進み過ぎているというか…。いや待って、なにこれ」
千宥はふと、茉衣子とむつみの方を見た。先ほどから話に入れず黙っていた二人も、目を合わせて、苦笑した。
「千宥、あたしにもわかんねえけど、言われるまでもなく、覚悟はできてるみたいだぞ」
「まあ、知らないんだろうけど、もう最初からそのつもりみたいよ」
はたから見ている二人の見識は一致した。美佳がどれぐらい把握しているかは不明だが、十一月の「決意表明」の時点で、千宥はトランスをやり切る前提の覚悟だったということだ。千宥は今度は高速で美佳の方を向いた。美佳は、千宥をまっすぐ見ていた。その顔には、怒りとも、呆れとも、悲しみともつかないものが浮かんでいた。
「千宥さん」
「は、はい」
「私を、どれだけ鈍いと思っていたの?」
「……え?」
千宥は間の抜けた声を出した。今、美佳は何と言ったのか。
鈍い。それは、何に対しての話なのか。
「待って、美佳ちゃん」
「待たないわ」
「いや、待って。え、どういうこと?」
美佳は一度だけ息を吐いた。
「あの時から、分かっていたわ」
千宥は固まった。言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。
あの時。女装が知られて、千宥がもうごまかせないと思った時。美佳が長い沈黙の後で、「女性の姿の千宥さんを愛すると決めた」と言った時。その時から。
「……分かってた、って」
千宥の声が掠れた。
「どこまで?」
聞くのが怖かった。でも、聞かずにはいられなかった。美佳は、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「少なくとも、ただ服を着ているだけではないことは」
千宥は息を止めた。茉衣子が小さく「おお……」と漏らし、むつみが軽く目を伏せた。美佳は続けた。
「最初は、確信ではなかったわ。でも、千宥さんの雰囲気も、身体つきも、肌の感じも、昔と違っていた。もちろん、成長したからというのもある。でも、それだけではない気がしたの」
「……」
「最初にここに来たのは、十月。あの時は、まだ気のせいだと思っていたわ」
「気のせい?」
「まあ、あの時は私も桜純にいたし、同世代の男の子と比べる機会なんてほとんどなかったしね。それでも、声が変わっていないこととか、どこか『成長していない』感じはあったわ。むしろ、女の子っぽいとも思った。でも、その時は格好のせいだと思っていたの。…そうよね。初めて女性の姿の千宥さんを見たのだから。インパクトはとても強かったわ。でも…」
美佳はそこで一息ついた。
「次に来た時に、確信に変わったわ。千宥さん、女性になるために何かしてるって。明らかに一か月で、あなたは変わったわ。聞いてないからわからないけど、毎日会っていた茉衣子たちよりはわかっていたと思うわ」
ここで美佳は茉衣子とむつみに向き直った。二人は「なるほど」とばかりに苦笑するしかなかった。この時、千宥は女性ホルモン開始から四か月目。千宥自身の中でも体が大きく変わっていた時期であることは非常によく覚えている。
「ねえ、茉衣子たちが『気づいた』のって、いつ?」
美佳は問いかけた。まだ、この場で誰も「ホルモン」という単語を出した者はいない。だけど、もう前提かのように二人は答えた。
「私たちが聞いたのは三月だから、その時よ」
「あたしも聞いたのはその時だけど、あれ?って思ったのは正月だな」
美佳は笑顔で頷き、千宥に向き直る。
「千宥さん。二人だって…健介くんとか慎吾くん、あと玉井さんもそうなのかしら?ほぼ毎日顔を合わせていたチームアネックスの皆さんが、三月までにぽつぽつ気づいていた。で、四月、半年ぶりに会った私が気づかないと思う?『アハ体験』より簡単よ」
美佳から出てきた意外な比喩に茉衣子とむつみは、不覚にも吹き出してしまった。千宥はというと…、ぐうの音も出なかった。ここまで言われて気づく。…私はバカだ。甘く見ていた、美佳ちゃんのことを。それ以上に、自分が隠せていると思い込んでいたことを。
「あのね…」
千宥は言葉を探すように、弱く声を出し、また黙る。美佳はただ待っていた。
「あー、…慎吾くんの言うとおりになったと思ってたけど」
「何て言われたの?」
「じきにもう隠せなくなるぞって…。そうなるのは覚悟しなきゃいけないって思ってたんだけど。みんなより先に知ってるなんて。それはさすがに…。ねえ、美佳ちゃん」
「なあに?」
「逆に聞いていいかな」
「ええ」
「もう、知っているんでしょう。私が女性ホルモンをしてるってこと。でも、…気づいていたなら、なぜ言わなかったの?」
「それは、確証を得ていなかったからよ。思い込みでそんなことを言うのは当然ながらNGでしょう。逆に考えてみて?私に髭が生えてきて、マッチョになったとして、それを伝えるかしら?」
「…無理です」
完敗だった。ここ数年で、ここまで見事に言い返せなくなったことはなかったかもしれない。けれど、不思議と嫌な気はしなかった。一番大きな胸のつかえが、思いもよらない形で外れてしまったからだろうか。むしろ、少しだけすがすがしかった。
「千宥さんが、言える時に、自分の言葉で言うべきことだと思った。……待っていた、と言えば聞こえはいいけれど、私も怖かったのよ。聞いてしまえば、もう知らないふりはできないから」
美佳の声は、静かだった。怒っているようでもあり、泣きそうなようでもあった。けれど、そのどちらでもないようにも見えた。
千宥は、何も返せなかった。美佳も怖かった。その当たり前のことに、今さら気づく。自分だけが怖いと思っていた。言えない自分だけが、逃げているのだと思っていた。けれど、美佳は美佳で、知らないふりをしながら、ずっとその先を見ていたのだ。
「……ごめん」
千宥は小さく言った。
「謝ることではないわ」
「でも、ごめん。私、美佳ちゃんが何も知らないと思ってた。知らないまま、勝手に受け止めようとしてるんだと思ってた」
「そうね」
美佳は少しだけ目を伏せた。
「それは、少し傷ついたわ」
「うん……」
「でも、私も千宥さんを傷つけていたのかもしれないわね。気づいていたのに、何も言わなかったから」
「それは違うよ」
千宥は反射的に言った。美佳が顔を上げる。
「美佳ちゃんが言わなかったのは、私のためでしょ。私が自分で言えるように、待ってくれてたんでしょ」
「それもあるわ」
「それも?」
「ええ」
美佳は、少し困ったように笑った。
「私が怖かったから、聞けなかったのもある」
千宥は黙った。その正直さが、妙に胸に来た。
美佳は強い。ずっとそう思っていた。どこまでもまっすぐで、何でも受け止めて、千宥のためなら迷わず踏み込んでくる人だと思っていた。
でも、そうではなかった。美佳も怖がる。美佳も迷う。美佳も、知らないふりをする。それは少し寂しくて、でも、少しだけ安心することでもあった。
「……なんかさ」
そこで、茉衣子がぽつりと言った。
「お前ら、互いに相手のこと考えてるつもりで、互いに地雷原の真ん中に立ってたんだな」
「茉衣子、言い方」
むつみが苦笑する。
「いや、でもそうだろ。千宥は、美佳に背負わせたくないって黙る。美佳は、千宥に言わせるべきだって黙る。で、二人して黙った結果、両方しんどくなってんじゃん」
千宥は反論できなかった。
美佳も、少しだけ視線を落とした。
「……その通りね」
「あ、認めるんだ」
茉衣子が目を丸くする。
「認めるわ。たぶん、私は待ち方を間違えたのだと思う」
「待ち方?」
千宥が聞き返す。美佳はうなずいた。
「何も聞かずに待つことが、千宥さんのためだと思っていたわ。でも、それは千宥さんを一人にしてしまうことでもあったのかもしれない」
「美佳ちゃん……」
「だからといって、無理に聞き出せばよかったとも思わない。そこは、今でも分からないわ」
美佳は少しだけ眉を下げた。
「難しいわね」
その言い方が、あまりにも素直だったので、千宥は少しだけ笑いそうになった。
美佳が「難しい」と言う。それだけで、今までより少しだけ近く感じた。
「難しいよ」
千宥は言った。
「私も、どう言えばよかったのか分からない。言わなきゃいけないと思ってた。でも、言ったら美佳ちゃんが傷つくと思ったし、知られたら終わるとも思ってた」
「終わる?」
「うん」
千宥は小さくうなずいた。
「美佳ちゃんの中の私が、終わる気がしてた」
美佳は目を伏せた。
「そんなに脆いものではないわ」
「でも、変わるでしょ」
「それは……変わるわ」
美佳は少し間を置いて答えた。
「知れば、変わる。知らなかった頃には戻れないもの」
千宥の胸が、また少し痛んだ。けれど、美佳は続けた。
「でも、変わることと、終わることは違うと思う」
千宥は何も言えなかった。その言葉を、すぐに信じられるほど強くはなかった。でも、否定することもできなかった。むつみが、静かに口を開いた。
「たぶん、今すぐ結論を出さなくていいんじゃないかな」
三人の視線がむつみに向く。
むつみは、少し考えながら言葉を選んでいるようだった。
「千宥が怖いのも分かるよ。美佳が覚悟していたとしても、それで全部解決するわけじゃないと思う。美佳にも美佳の人生があるし、千宥にも千宥の人生があるし」
千宥はうなずいた。
「でも、美佳が知っていたなら、少なくとも千宥が一人で全部隠して、一人で美佳のために諦めさせる、みたいなことはしなくていいんだと思う」
「……うん」
「美佳も、全部分かってるって言わなくていいと思う。分からないことは分からないでいいし、怖いことは怖いでいいし」
美佳が、小さく息を吐いた。
「そうね」
「それでいいんじゃないかな。いきなり答えを出すんじゃなくて、ここからちゃんと話していく、で」
むつみの言葉は、派手ではなかった。けれど、千宥にはありがたかった。茉衣子が腕を組んだまま、うなずく。
「まあ、そうだな。今日ここで許嫁会議の結論出す必要ねえだろ」
「許嫁会議って何」
千宥は思わず突っ込んだ。
「今やってんのがそれじゃねえの?」
「多分違ってはいない…のかな?」
むつみが少し首をかしげる。
「むつみちゃんまで」
千宥が困った顔をすると、美佳がほんの少しだけ笑った。その笑みを見て、千宥は胸の奥が緩むのを感じた。美佳が笑った。今の話のあとで、笑ってくれた。それだけで、少しだけ救われる。
「でも」
美佳が、改めて千宥を見る。
「千宥さん」
「うん」
「私は、知っていたつもりでいたけれど、知らないこともまだあるのだと思う」
千宥は、うなずいた。
「あると思う」
「なら、少しずつ話して」
「……うん」
「私も、分からないことは分からないと言うわ。怖いことは怖いと言う。受け止めきれないことがあったら、そう言う」
美佳は言葉を選ぶように続けた。
「だから、千宥さんも、私が全部背負うと思って先に遠ざけないで」
千宥は唇を噛んだ。
「うん」
「約束よ」
「……約束、できる範囲で」
「そこは約束してほしいところだけれど」
「ごめん。今の私には、全部約束するのはまだ怖い」
美佳は少しだけ目を見開いた。それから、静かにうなずいた。
「分かったわ。では、できる範囲で」
「うん」
美佳は、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「それでも、前進ね」
千宥は、少し笑った。
「そうなのかな」
「そうよ」
美佳は言い切った。その言い切り方が、やっぱり美佳らしかった。茉衣子が大きく伸びをした。
「よし。じゃ、前進ついでに帰るぞ。坂の途中でこれ以上やる話じゃねえし、そろそろ腹減った」
「茉衣子、台無し」
むつみが苦笑する。
「大事だろ、腹は。千宥だって昼に言ってたじゃねえか。飯食えるなら大丈夫って」
「それ、私が言ったんだっけ……?」
「言った。たぶん」
「たぶんなんだ」
千宥が少し笑うと、茉衣子も笑った。いつもの調子が、少しだけ戻ってくる。けれど、何もなかったことにはならない。ならないまま、戻ってこられる。それが、今はありがたかった。
「また、落ち着いてから、また話せばいいよ。今日はもう、ここまででもかなり話したと思う」
むつみが言った。
「うん」
千宥はうなずいた。美佳も静かにうなずく。
「私も、今日は少し疲れたわ」
「美佳ちゃん、昨日最終便だもんね」
「ええ。それもあるけれど」
美佳は千宥を見た。
「今の話で、かなり」
「ご、ごめん」
「謝らなくていいわ。疲れる話だったというだけよ」
「それはそうだね……」
千宥は苦笑した。四人は坂を下り始めた。
春若の街が、夕方の光の中に広がっている。路面電車の音が遠くでかすかに聞こえ、坂道を下りる生徒たちの声が背後に流れていく。千宥の隣には、美佳がいた。いつもより、少し近い。けれど、触れるほどではない。昔からの距離だった。近いのに、触れない距離。でも今日は、その距離が少しだけ違って感じた。触れないのは、拒んでいるからではない。まだ、お互いにどう触れればいいか分からないからだ。美佳は、何も知らないわけではなかった。千宥も、もう何も言わないままではいられない。
これから話さなければならないことは、まだ残っている。父のこと。母のこと。身体のこと。美佳とのこと。たぶん、怖い。ものすごく怖い。それでも、今すぐ全部を終わらせなくてもいい。今は、四人で帰れる。それだけを頼りにしてもいい。そう思いながら、千宥は坂道を一歩ずつ下りていった。



