たいていは、いつも行く古本屋さん2軒と、ブックオフと、もちろんちゃんとした郊外の大きな


本屋さん、パルコの中にあったリブロもなくなって、紀伊国屋はあるけど普通の本屋と変りなし。


檸檬を置いてだまってかえりたくなるような、何かをかきたてられるような本屋さんはない。



 雑誌が売れるのかな?女子用と男子用に分けてあって次々と新しい雑誌が刊行されている。


行くたんびに、新しい雑誌が並んでる。男子用のラインの方が好き。ファションも、趣味も。


子供のころから本屋さんが好き、親戚に本屋さんがいて、付録をいっぱいもらってた。

 
 なかなか、字が読めない子供だったので、本といっても絵が付いてないと無理。


一回読んでもらったら、ちょっとちがう自分好みの物語を、創作して近所の人に聞かせていた。


豆腐屋のおばあちゃんは忙しいのに「それから?」って合いの手を入れてくれた。


在日韓国人の畳屋のおじちゃんは、桃太郎や白雪姫の物語自体をはなっから知らない。



 ベストセラーのコーナーも小説じゃない、実用書とか、育児書とかなんだかHow-to本の山


100歳越えたおばあちゃんの、「がんばらなくていい、泣いたっていいのよ」みたいな詩集が


やけに売れてるみたいだし、その横には「ニーチェの言葉」・・・?


話題の小説も、なんだか味気ない感じ。高いし、やけに。


だからほとんどは返品らしい、聞くところによると。


 本読まない人って若い人かと思ったら、けっこう「本は読みなさいよ」と言われて大きくなった


世代の人達も本離れしてるよう、新聞も販売店がなくなってる、何年も先の予約を取るしか新規の


お客は難しいらしい、新聞がおもしろくなくなったことも原因の一つだと思うけど。


とにかく、ニュースが嫌。おぞましいのばかり。政治経済も嫌。もちろん関心はおおいにあり。


一応、日本で生きてかなきゃいけないんだから。立ち位置くらいは知っておかないと。


 夏休みの前になると、新潮社や講談社が読みたい、読まないといけない本100冊とかで


並んでるのが、試験に出てくる明治・大正・昭和の近代文学の名前。


森鴎外、夏目漱石、谷崎潤一郎、武者小路実篤、志賀直哉、島崎藤村、宮沢賢治、芥川龍之介


川端康成、高村光太郎、中原中也、えーとそれから、それから・・・


もちろん、翻訳物もそれぞれ並んでる。今すぐに名前が出てこないなぁー


でも、


 小説です。学生時代に読んでそのまま、もちろん名前と本の題を一致させる試験での暗記のみ


でスルーされた人もいます、ワタシも偏った読み方をしていて、スルーした本ばかり。


象の頭の毛3本分ほど読んだかなってくらいで、なんか変なたとえだなー。


ちょっと情けない、「声に出して読みたい日本語」なんてこれまた、安易な実用本。


 先ほど上げた文豪達の小説を読めば、美しい、一つ一つが宝石のような言葉が作家達の


それぞれの感性で並べられ、紡ぎ出された物語はこの世の話とはかけ離れた夢物語、いいえ


そうではない。事実は小説より奇なり。


新聞の三面記事には、まるで小説の中での出来事のような事実が生々しく書かれている。

 



 さてさて、本のページをめくる・・・小説の物語を読みすすめる楽しみ、喜び、


 あれあれ、解らない漢字や文字が並んでいる、そんなのとばしてすすめよう、話がおもしろい


 笑っていたと思ったら、なんだか涙が出てきたぞ、なんだこの作家は右派か左派か?


 どっちだっていい、作家の意図するところは、言いたいことは、


 物語の主人公の口を借りて、作家は自分を生きている。作家として生きてるのではなく


 ある時は、腕はたつが、不器用な生き方しか出来ない宮大工であったり、


 ある時は未熟な医学生であったり、作家の性とは反対の、夫に不満のある中年の主婦であったり

 
 時には猫になったりする。


 全ては、作家のイマジネーションのなせる業である。

 
 しかし


 このイマジネーションは作家だけのものではない、読者は読者でイマジネーションの帆を

 
 いっぱいに張って、表紙をめくり船出をしている。一人旅だ、孤独な一人旅だ。


 誰にもじゃまされない、舵の取り方もしらないが、自由で贅沢な一人旅。



 こうしてワタシは小説を読むというイマジネーションを大きく豊かに育てていった。


 だから、ワタシは子供を産んで育てなくても、十分子育ての辛さや喜びも想像できる


 浮気する男の気持ちだってわかるし、一人の生徒を贔屓したい先生の心も読めるし、


 ブログにうそを書いてる人もわかる。





 その作家は1995年1月阪神淡路大震災にあい、大きな怒りと喪失感の中から人は


どう生きていけばいいのか、形のあるものを追い、求め、手にすること以外の幸福は、


あるのだろうか?あるとすればどんなものだろうか?


50歳の男二人のそれぞれの穴を埋めるための、人生再生の壮大な旅が始まる。


はたして彼らの穴が埋まることができるのだろうか?


とっぴな旅の行き先や、登場人物のめぐり合いの不自然さを棚に置いて素直な気持ちで読みすすめる


ためには、読み手のイマジネーションがいる。普段イマジネーションを稼動させてない人には


無理かもしれない。先日この本を10年ほど前読んでいながら内容を完全に忘れてしまい、


真っ白な頭で読んで、作家の時代批判、社会告発の背骨が全くワタシのそれと同じことに改めて


気付いた次第。ちょっと嬉しい気持ちになったが、この本では芥川賞は無理だったかもしれない。


 「草原の椅子」うまく感想文を書くつもりだったけど、けっきょく、映画にしても本にしても


感想文がヘタクソだということがわかった。

 
映画の中では左藤浩一と西村雅彦がそれぞれ50歳の穴あき男を演じている。


映画の評判もいいようだ。50歳の男、女、俺は(私は)本当に大人になったんだろうか?


自分に聞いてみて、あやしいぞと思ったら、本を読むべし。



               PS.このブログ50歳限定ではない。