江ノ島 弁財天さんの旦那さん
龍口明神社(りゅうこうみょうじんじゃ)
御由緒
欽明十三年(五五二年)、村人達は山となった五頭龍大神を祀るために龍口山の龍の口に当たるところに社を建て、子死方明神や白髭明神と言いました。これが龍口明神社の発祥と伝えられています。
養老七年(七ニ三年)三月より九月まで江の島岩窟中にて、泰澄大師が神行修行中夢枕に現れた神々を彫刻し、弁財天は江島明神へ、玉依姫命(長さ五寸(約15cm))と五頭龍大神(同一尺(約30cm))の御木像を白鬚明神へ納めたといわれています(これが御神体です)。この時、龍口明神社と名付けられたと伝えられています。
また、弘安五年(一ニ八ニ年)に一遍が龍の口にて念仏勧化を行った様子が、国宝『一遍聖絵』に描かれ、北条時政は江の島に参籠して、奇瑞を蒙り、龍の三つ鱗を授けられ、それを家紋としました(当社・江島神社の社紋も三つ鱗)。
いつの頃より六十年毎に還暦巳年祭が行われるようになり、近年では昭和四年・平成元年に賑々しく斎行されました。また、平成十三年には御鎮座千四百五十年祭が斎行され、この時と還暦巳年祭に限り五頭龍大神の御神体が御開帳され江島弁財天と共に江島神社中津宮に安置されます。
龍口明神社は昭和五十三年、龍の胴に当たる現在の地に御遷座され、日本三大弁財天として名高い江島神社と夫婦神社として人々に崇敬されています。
遷宮
鎌倉時代には龍口山にほど近いところが刑場として使用された時期もあり、村人たちは祟りを恐れていたといいます。
また、昭和二十二年(一九四七年)には、龍口山が片瀬村(現藤沢市片瀬)に編入されて以降、境内地のみ津村の飛び地として扱われ、大正十ニ年 (一九ニ三年)には、関東大震災により全壊、昭和八年 (一九三三年)に龍口の在のままで改築しました。
太平洋戦争後のめざましい復興により、交通事情も悪くなり、神輿渡御も難しく、氏子の里へ昭和五三年(一九七八年)に村人達の総意により江の島を遠望し、龍の胴にあたる現在の地へと移転しました。
なお移転後の現在も、旧境内は鎌倉市津1番地として飛び地のまま残っており、社殿・鳥居なども、移転前の姿で残されています。
境内社
経六稲荷社があり、毎年二月には初午祭が斎行されます。また、右手には石塔が6基(うち4基は庚申塔)あり、これらの石塔はもともと神奈川県道304号腰越大船線沿いにありましたが、道路拡張に伴いこちらに移されました。
【玉依姫命】たまよりひめのみこと
御祭神
御祭神
玉依姫命は神武天皇の母君、海神族の祖先で、龍神として崇められたと伝えられる。
海神(わたつみ)族の乙姫様で、姉君の豊玉姫命と彦火火出見命(山幸彦)との御子である鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を育てられた神で、龍神を束ねていると言われています。
又、潮の満ち干きを司り、出産や育児等の御守護もされています。玉依姫命は後に鵜茅葺不合命と結婚されて、その御子の一人が初代天皇の神武帝になられ、日本の「母神様」でもあります。
その御神徳は縁結び・子授け・安産です。
【五頭龍大神】ごずりゅうおおかみ
五頭龍大神は、武相鎌倉と江の島に伝わる「五頭龍と弁財天」の伝説に登場する 一身五頭の龍神です。
その昔、武蔵国と相模国の国境付近の長大な湖に五頭龍が棲んでいました。国土を荒らし、暴悪を働き、人々を苦しめ、遂には津村の湊に出て子供を食べるようになりました。
そんなある時、天地雷鳴し大地震が国土を揺るがし、江の島が湧き出し、空から十五童子従えた弁財天が降臨されました。
弁財天の美しさにひかれ、思いをよせた
五頭龍であったが、弁財天に戒められ、その後は行いを改めよく人々を助け慈悲の徳を施すようになりました。
その後、弁財天と誓いを(結婚)をして山と化し、
人々を災害から守り、国家安泰の神「五頭龍大神」となりました。
その御神徳は国家安泰・心願成就・交通安全・縁結び等です。
-御利益-
身体健全、招福除災、八方塞除、良縁円満、
家内安全、心願成就、万物感謝 等
地図
交通のご案内
電車・バスをご利用の方
【電車】
湘南モノレール西鎌倉駅より徒歩約5分。
【バス】
西鎌倉駅前の「津村」から、江ノ電バス新鎌倉山循環(コミュニティバス)に乗車、
「龍口明神社前」で下車徒歩0分。
お車・バイクをご利用の方
下記の地図をご参考にお越しくださいませ。
新鎌倉山住宅地の急傾斜の途中にある、大きな鳥居が目印です。
駐車場は、
神社に隣接した駐車場をご利用いただけます。 (無料)
新鎌倉山住宅地の急傾斜の途中にある、大きな鳥居が目印です。
お問い合わせ
#龍口明神社社務所 (9:00~15:00)
〒248-0033 神奈川県鎌倉市腰越1548-4
電車:西鎌倉駅より徒歩約5分
電話電話:0467(32)0833
#江ノ島弁財天さんと鎌倉の龍口明神社(りゅうこうみょうじんじゃ)は #夫婦の龍🐉