戦争が終わった昭和20年8月15日、私は小学6年を卒業したばかりでした。

今となっては何もかもすべてのことが白い霧に包まれたように思い出せなくなってしまいました。作家の“なかにしれいさん”の赤い月 あちらでの体験を本にもかかれています。映画にも上映され私は両方何度もみましたがあれに近いこともほんとうに起こっていたのです。

夜8時ぐらいになると家の前にソ連兵のトラックが止ると私達の恐怖の時間が始まります。

戸を閉めていても銃で戸をたたきこわして入って来ます。

父はホールドアップさせられ(拳銃もライフル)母はその横にすわらされて私はにげかけたのですが、逃げ遅れ押し入れに首だけつっこんでいたので引きずり出され母の横に座らされました。私はその日に運よくぼうずに髪を切った男の子に変身しました。

7.8人で入って来たのですがあと2.3人は誰か隠れていないかとばかり部屋の中やふろ場などを銃でついたりさしたりしながら歩き回りました。

 

何日も何日もそれが続きトラックの音がすると天井裏に逃げて息をひそめて暮しました。

隣の若い奥さんは六ヶ月ぐらいの赤ん坊を主人に抱かせ奥さんはトラックにのせられましたが夜が明ける前に途中で飛びおりたのでしょう、足は血だらけ洋服もボロボロでした。

引きあげ船を今か今かと待ちわびている間に 自分達の家も中国人が住みはじめ私たち日本人は一軒の家に4~5家族が住み、あちらに移りこちらに移りで日本人同志がかたまって日本からの船を今か今かと待ちわびておりました。

生活のためには中国の市場に出て母は私たちの衣類を私はタバコを仕入れて貰って売りに出ました。

今では想像もできない毎日でした。

終戦から2年目の春、ある日突然近くの小学校に集合せよとの連絡を受け、身一つで集合しました。私達が出るのを待ちきれないように中国人が入って来ました。

トラックにこぼれんばかりにつめこまれ、港に向かう中で私の隣の女性がずっと泣いていました。

どんな事情があったのかそのころは考えも及ばなかったのですが出港が遅れてやきもきしていましたら港のずっと沖の方に止まって入港を待っていた船の(日本船)船尾に先日の女性の身体がひっかかっていたので検死などでおくれたとのことでした。

それを目にした時中学生だった私でもその方の心の叫びが胸に刺さるような出来事でした。

昭和22年3月の始め緑の美しい日本の佐世保に上陸しましたが私の両親を始め同い船に乗ってこの日を迎えた方達は喜びの涙を流していました。

今でもあの時の感激は忘れられません。 そのことも月日の波に押しやられ覚えている方も日々少なくなってしまいました。

 

何十年もたった今ウクライナとロシア、イスラエルとハマスとの戦いの炎がおさまりそうもありません。

内地の方々も戦災その他食糧難、その他大変だったとおもいますが

永い間苦労を重ね築きあげたすべてを失って帰ってきて娘、息子達をがんばって立派にそだてていただいた両親や先輩の努力ご苦労に感謝すると共に自分達の子供や孫に知ってもらう事が大事ではないでしょうか。

“戦争を知らない若い人達に知ってもらうことが体験者の使命のように思える今日この頃です。