もう一つは言葉についてだ。言葉そのものに貴賤は無く、他人の付けた付加価値によって、偽物のヒエラルキーを作っている。
 これってものすごく下らないし、言葉が哀れだと思う。
 そしてこの「いいんだぜ」ほどこの二つのテーマを強烈にかつ、簡潔に表しているものは無いと思う。
 うーん、やられた‥。
 とにかく今は亡き中島らもはコピーライターとしてやはりとても有能だったのだなぁと思う今日この頃でございかしこかしこ。

 
 いいんだぜ
 いいんだぜ
 いいんだぜ
 いいんだぜ
 君がドメクラでも
 ドチンバでも
 小児マヒでも
 どんなカタワでも

 いいんだぜ

 君が鬱病で
 分裂で
 脅迫観念症で
 どんなキチガイでも
 いいんだぜ

 君がクラミジアで
 ヘルペスで
 梅毒で
 エイズでも
 おれはやってやるぜ
 なでであげる
 なめてあげる
 ブチ込んでやるぜ

 君がいいヤツで
 だからダメなヤツで
 自分が何をしたいのか
 全然わからなくても

 いいんだぜ

 君が黒んぼでも
 北朝鮮でも
 イラク人でも
 宇宙人でも
 いいんだぜ
 おれはいいんだぜ
 HEY, BROTHER & SISTER
 君はどうだい
 私は本を少しばかり読む。本を少しでも読んでいたら当然好みというのは出てくるもので、私にも懇意にさせていただいている作家‥作家という気取った呼称は嫌いなので物書きの人はたくさんいる。
 その中の一人、英語で言うとone of the my favorite writersつまり只の字数稼ぎであるのでこの部分は飛ばすけれども、に中島らもという人がいる。
 この中島らもという人は大層珍妙な人で本人曰くお母さんa.k.aマーム(a.k.aというのは別名という意味でございかしこかしこ)の乳房に貪りついていた時を覚えているという、故三島由紀夫氏の産道を潜る時を覚えいているという逸話ばりの記憶力の持ち主であるのと同時に大変なロックンロール狂というより弦楽器狂としても有名で、世界中の弦楽器を集めたり、本人自身がバンドを結成したりしている。
 そのバンド自体あまりイカしているものでもなく、たまに著書で書いている歌詞もちょっとダサイのだが、ある曲を聴いて大変感銘を受けた。というよりも「やられた!」という気持ちが沸々と沸き上がってきた。つまり先ほどから指している「いいんだぜ」の発想が大変面白かったのである。



 一聴すると、なんやこの乞食みたいなおっさん。ただ単に放送禁止用語をつらつらと並べて告っとるだけやんか。と思うかもしれないが、そう思ったお前はボンクラ検定準二級で、株式会社ボンクラフーズしか就職先のないたにしだよ。一生豚みたいなカカア相手に大五郎でも飲みながらクダまいとけぇ!
 この歌には二つのテーマがあると自己解釈する。
 一つは究極の愛。たとえドメクラでもドチンバでも小児マヒでもどんなカタワでも鬱病で分裂で脅迫観念症でどんなキチガイでもクラミジアでもヘルペスでも梅毒でもエイズでもいいヤツでもダメなヤツでも自分が何をしたいのか全然わからなくても黒んぼでも北朝鮮でもイラク人でも宇宙人でもいいんだぜ。ぶち込んでやるよ。そうつまり君が君であればいいんだぜ。
 他人にカテゴライズされて、君がどんなにマイノリティであっても、たとえ君のせいで死ぬことになっても、全てを受け入れて愛す、これこそが究極の愛のような気がしてならない。

 もう一つのテーマは明日やっから。
 つくづくそう感じた。
 さっき拙者の電子日記の記事を読み返していたのだが、ひでえ日本語だな。例を挙げるときりがないが、いくつかあげると、

 ~だが、~だが、

 これは美しくない以前に逆説に逆説で答えると日本語として成り立たないではないか。

 腐臭の臭い

 これは恥ずかしいけど、腐臭に臭いを足すことによって、一層臭いの強さを強調している。と言い訳してみる。

 そんなこんなで校正と返済はきちんと‥ね。まあこの記事も校正しないけど。
 このような薄ら寒い電子日記を更新し続けているのはまさしく私がマゾヒストだから為せる技であり、将来この電子日記を消すつもりが無いのも成人して、自分の黒歴史を抉り出して自己嫌悪に陥ろうと思ったという徹底したマゾヒストぶりだと我ながら思う。
 ほんとのところPodcastも消すつもり無いし。黒歴史を量産し続けているわけである。手始めに寒疣の立つようなポエムとやらを書いて行こうか。いや、面倒くさいから明日で良いや。
 ダルデンヌ姉妹もそろそろ書いていかないと。これは完成させたい。愛するサチのために。プッ。
 実のところもう一つこの電子日記を書いている理由がありましてな。自分の今の考え、感性などをメモするみたいにして更新することによって、年が経るにつれ面白い物になるでしょ?
 わざわざ人前で更新してんじゃねえよって話なんだろうが、じゃあわざわざみてんじゃねえよ。ファック。
 ‥調子こきすぎました。
 実はまだあるんです今日のタイトルの理由が。だってそうでしょ?part1だけ見てたらなんでこの子は懺悔なんていっているのかなぁ?今までの腐りきった心に懺悔してるのかなぁ?と思うでしょ?
 私の精神はもう後戻りができない程毒されているので、今更そのような事柄を懺悔するわけがないだろうが痴れ者。
 はいはい前置きはここまででここからが真の本題です。
 銀河鉄道観ましたよ、はい。感動しましたよ、はい。でもその後私あるものを観たのです。
 その名も「salo」これはイタリア映画なので訳すと「ソドムの市」となる。これは説明する必要があるので、概要を貼ろうとしよう。


 『ソドムの市』(そどむのいち、 イタリア語: Salò o le 120 giornate di Sodoma, 「サロ、或いはソドムの120日」の意)は、1975年(昭和50年)製作・映画祭上映、1976年(昭和51年)公開、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督のイタリア・フランス合作映画である。マルキ・ド・サドの『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』(フランス語原題 Les 120 Journées de Sodome, ou l'Ecole du libertinage)を原作としている。スカトロ描写や性器の露出などの場面が非常に多い。ただしそれは単なるパゾリーニの嗜好としてだけではなく、様々な現代社会への批判が込められているという。
 パゾリーニは、原作では18世紀のスイス山奥の城館であった舞台を20世紀のイタリアに置き換え、この物語を現代における権力と個人の関係、消費社会のメタファーに作りかえた。その構成はダンテの 『神曲』 の構成を借りており、「地獄の門」 「変態地獄」 「糞尿地獄」 「血の地獄」の四つの章から成る。
 本作の完成後、パゾリーニ監督はローマのオスティア海岸で謎の多い死を遂げており、この作品が遺作となった。
 ちなみに欧米ではあまりの過激な表現が問題となり上映禁止になった。


 フランスと合作だったんだ‥とまあそんなことはどうでもいいとして、素晴らしい映画でした、はい。
 一物はビンビンでしたよもう。もともと原作の冒頭訳だけは読んだので、いつか観れることを祈っていたのだが、まさかゴダイゴの後に観ることになろうとは‥。
 懺悔します。僕は汚れた人間です。どうぞこの汚い私にあなたの右手に持つ腐りかけのトマトを投げつけてください。