知り慣れたはずの海町を、視点をかえて歩いてみたら、もうひとつの葉山が見える。

「きょう逗子の駅で天皇陛下を見たよ!!」と興奮ぎみで話したのは大正生まれの母だった。それは昭和40年中頃のこと。当時、天皇が葉山の御用邸へ出かけるのは、原宿駅からお召し列車で逗子へ。その駅頭からは御料車で葉山の一色に向かうと聞いていた。

 母が駅で出待ちしていたのか、ただの偶然だったのかは分からない。

 母が昭和天皇に拝謁するのは2度目だったが、敗戦をはさんで逗子で天皇と再会したときの気分はどんなものだったろう。

  逗子駅から一色の葉山御用邸*に向かう道は二つある。海岸をたどる海回りと、トンネルを抜ける山回りは現在の行幸路となり皇族はこの道を使うらしい。

 

 そして、僕は見どころの多い海回りのバスを選ぶ。J R逗子駅から次の京急逗子葉山駅で、一気に女性客が増えた。2年前に駅名に葉山が付いたように、京急電鉄の「葉山女子旅きっぷ」が人気になっていて、平日でも姿が絶えない。

 

▲千貫松と森戸岩層

 

 旗立山を下ると、向かいに料亭「日影茶屋」が健在で、あの『美は乱調にあり』(瀬戸内寂聴)の「日陰茶屋事件」の現場がここだった。3キロ余り先にはすでに天皇の御用邸があり、著名な無政府主義者の醜聞事件はどう伝わったものか。

 

1970年公開のセンセーショナルな話題作『エロス+虐殺』

大正のアナーキスト大杉栄が三角関係のもつれから刺された事件。

大正時代と現代(昭和40年代)のそれぞれの風俗と人物たちを、松竹ヌーベルヴァーグの吉田喜重監督が前衛的な手法で描いた愛と憎しみのドラマ。出演は細川俊之、岡田茉莉子

 

 

【サヨ】

中川道夫さんって写真家ね。68年から70年代、ちょうどつげ義春さんのアングラ時代。サヨが『紅い花』で初デビューしたわ。

【さぶ】

甲府の深沢久雄くんが企画編集発刊していたつげ義春研究誌『点燈舎通信』の表紙を、同氏の写真が飾ったこともあった。『上海紀聞』だね。

 

 

 

▶つげ義春研究誌『点燈舎通信』(表紙写真は『上海紀聞』から)

 

【サヨ】

今回の題名の「中平卓馬」さんとは、どういう関係?

【さぶ】

中平さんと道夫さんは、同じ逗子に住んでいてご近所。道夫氏は写真家をめざしていて、アシスタントになった。当時、新左翼系の文化人や全共闘系学生から圧倒的支持されていた『朝日ジャーナル』誌上で「都市」をテーマに中平氏が写真連載していた。いわゆる「ブ「レ・ボケ」写真だね。道夫氏もそれに加わった。

 

▼1973年「朝日ジャーナル」中平卓馬+中川道夫撮影「都市」シリーズ

 


 

 

 

当時を回顧して、こんなことを綴っている。

70年秋、一冊の写真誌を手にした。「季刊写真映像」6号。特集が「風景」だった。高梨豊や中平卓馬の写真にショックをうけた。写真が好きでカメラ雑誌は見ていたが、こんな類の映像は初めてだった。これは何処だ?!荒れてヒリヒリした希望のない路上や車窓からのシーン。

風景についての座談会があり、これまで「見ることによって隔絶した世界が」いつか「風景が均一質に見え」風景から「視線を投げ返され」背後に潜んだ権力、その「敵の視線

にどうやって耐え、切り裂き逆転してゆくのか」と中平や足立生生らが延々と語っている。日本の「熱い季節」は終息にむかい、それを嘲笑うかのような冷めた街頭の光景が立ちはだかっていた。(『GRAPHICATION‐「風景から都市へ」中川道夫)

▶1973年新宿(左)、1971年横須賀・どぶ板通り(右)(『GRAPHICATION』中川道夫)

 

【さぶ】中平卓馬唯一無二のアシスタントが、中川道夫。「激動の時代」盟友の森山大道に「弟子」はいても、中平卓馬に弟子はいない、といわれるが、いるとすれば中川道夫以外いない。

 

 

 

「……今や、人間たちは去り風景だけが残ったという意味における〈風景〉もまた消失してしまったのである。人びとは去り、風景もまた去った。風景が消失したあとに、しからば、何がの残ったのか。映画『バニッシング・ポイント』においては、それはパトカーであり、ブルドーザーの巨大な鉄の爪であり、ヘリコプターであった。つまりは〈権力〉であった。風景は死滅し、そして〈死滅せざる国家〉が残ったのである。……」 (『風景の死滅』松田政男/表紙写真・中平卓馬)


 

 

 

 

【サヨ】

中川道夫さんって写真家ね。68年から70年代、ちょうどつげ義春さんのアングラ時代。サヨが『紅い花』で初デビューしたわ。

【さぶ】

甲府の深沢久雄くんが企画編集発刊していたつげ義春研究誌『点燈舎通信』の表紙を、同氏の写真が飾ったこともあった。『上海紀聞』だね。

 

 

 

▶つげ義春研究誌『点燈舎通信』(表紙写真は『上海紀聞』から)

 

【サヨ】

今回の題名の「中平卓馬」さんとは、どういう関係?

【さぶ】

中平さんと道夫さんは、同じ逗子に住んでいてご近所。道夫氏は写真家をめざしていて、アシスタントになった。当時、新左翼系の文化人や全共闘系学生から圧倒的支持されていた『朝日ジャーナル』誌上で「都市」をテーマに中平氏が写真連載していた。いわゆる「ブ「レ・ボケ」写真だね。道夫氏もそれに加わった。

 

▼1973年「朝日ジャーナル」中平卓馬+中川道夫撮影「都市」シリーズ

 


 

 

 

当時を回顧して、こんなことを綴っている。

70年秋、一冊の写真誌を手にした。「季刊写真映像」6号。特集が「風景」だった。高梨豊や中平卓馬の写真にショックをうけた。写真が好きでカメラ雑誌は見ていたが、こんな類の映像は初めてだった。これは何処だ?!荒れてヒリヒリした希望のない路上や車窓からのシーン。

風景についての座談会があり、これまで「見ることによって隔絶した世界が」いつか「風景が均一質に見え」風景から「視線を投げ返され」背後に潜んだ権力、その「敵の視線

にどうやって耐え、切り裂き逆転してゆくのか」と中平や足立生生らが延々と語っている。日本の「熱い季節」は終息にむかい、それを嘲笑うかのような冷めた街頭の光景が立ちはだかっていた。(『GRAPHICATION‐「風景から都市へ」中川道夫)

▶1973年新宿(左)、1971年横須賀・どぶ板通り(右)(『GRAPHICATION』中川道夫)

 

【さぶ】中平卓馬唯一無二のアシスタントが、中川道夫。「激動の時代」盟友の森山大道に「弟子」はいても、中平卓馬に弟子はいない、といわれるが、いるとすれば中川道夫以外いない。

 

 

 

「……今や、人間たちは去り風景だけが残ったという意味における〈風景〉もまた消失してしまったのである。人びとは去り、風景もまた去った。風景が消失したあとに、しからば、何がの残ったのか。映画『バニッシング・ポイント』においては、それはパトカーであり、ブルドーザーの巨大な鉄の爪であり、ヘリコプターであった。つまりは〈権力〉であった。風景は死滅し、そして〈死滅せざる国家〉が残ったのである。……」 (『風景の死滅』松田政男/表紙写真・中平卓馬)