ずいぶん放置していました。
最近はSNSが多いです。
62年、一緒に暮らしていた、叔母さんが亡くなりました。5月8日のことです。
90歳でした。
まだらにボケて、それでも楽しく、ふたりで暮らしていましたが、3月に来客の見送りに立ったとき、滑って尻もちをつき、大腿骨骨折して、入院、手術。
その後リハビリしていましたが、4月の終わりに誤嚥して、誤嚥性肺炎で亡くなりました。
感染対策で、付き添いなどなく、あまり終わりは会えませんでした。
家をもらったので、私は変わらず家にいます。
細谷佳正さんが周作さんを演じられた、「この世界の片隅に」を観てきました。
たくさん映画は観るけれど、久しぶりに感想など。
日常が丁寧に描かれていた。
戦時中の、普通の人の暮し。
日常の暮らしには、ドラマみたいなことはほとんど起こらないけど、一つ一つがドラマでもある。
すずさんは昭和10年生まれの私の母よりも、10歳くらいお姉さんかな。
母方の祖母が、広島の高田郡の出身で、戦争中は大阪から広島に疎開をしていた。
現在の言い方で言うなら、祖母の家のあった井原村は、広島市安佐北区。
芸備線の志和口と井原市の間。
昨年、103歳で亡くなった祖母が「原爆の落ちた日は、早く起きて、朝には広島市内にいた」と言っていた。
祖父母と下の叔父は、広島市内で被爆。祖父は火傷を負い、祖母は建物の下敷きになれど、叔父共々助かったようです。
ばあちゃんが亡くなる前は、もうボケてしまって、昔の話をよくしていました。
「船着き場に行く」
「船賃の銭をおくれ」
「軍港へ行く」
「軍港へお父さんを迎えに行く」
「早よ逃げんさい」
船着き場というのは、宇品(うじな)というところ。
鉄鋼関係の仕事をしていた祖父は、呉。
祖母の言う、「軍港」は、「呉」でした。
「あの雲はなんやろうね」と、山の向こうにきのこ雲を観たのは、朝礼の最中だった、私の母と叔父と伯母。
「なんか光ったね」「光った」と、山の向こうに原爆が落ちた時に、子供の母たちは言ったかもしれない。
そういう風景があったんだろうなと。
日常の中に、ひたひたと、戦争が入り込んできたんだろうなと、思う。
手先の器用だった、祖母や母。
確実に血を受け継ぐ、私。
私は自分の「絵を描く手を失わないようにしよう」と、思う。
知らないうちに何かが、暮しを脅かす前に、大事な暮らしを、大事にしよう、と、思う。
たくさんの人が、この映画を観てくれますように。
今年は夏から、たくさんの映画を観ました。
議論の盛り上がる映画も、心情のきらめきを感じる映画も、語り合いたくなる映画も、あった。
この映画は、そういう映画とは違って、観た人に、「私も観たよ」と、伝えたくなる映画でした。
「観てほしいな」と、そっと伝えたくなる映画。
だまって、肩をたたきたくなるような。
そっと、手をつなぎたくなるような。
大阪で4館とか、少ないでしょ。
上映館を、もっとです。
もっと、もっとです。
クラウドファンディングで、映画に携わってきた人々に、感謝。
昨日、観られたことに感謝。