以前、もう人を愛さない。
   だから愛する。

と、ブログを書いたことがあった。
文章はもっと長かったけど、

思考 に栄養は与えない。
ありのままを愛する。と意味で書いた。


思考が愛されない、を一生懸命探して
そこに留まろうとしていたから、


新たな思考が、愛することを宣言して、
それをブログに綴った。


もう削除してしまったけど、ふとこのブログを書いたこと思い出した。






あ〜、本当に、愛そのものだな〜



ヒトラーが、芸術を愛していたのも、
愛そのものだから。

ここで、ヒトラーの名前を私が出したのも、
悪い人でも真我そのものだと、

「悪い人」と、色眼鏡をしてヒトラーを見てる私が“ここ”にいるだけだ。


私は思考と云う色眼鏡をかけて世界を観ている



色眼鏡の色が濃いときは、あの人は悟っている人、あの人は目覚めている人、と、差を見ている。



色眼鏡を外した世界は一色なのに。


ゆえに誰もが、
色眼鏡をしていることに気づかないだけで
目覚めているし、悟っているとも言えるかもしれない。



色眼鏡をしてることさえ気づかない時代を振り返っても、その瞬間は垣間観ていた。



例えば、テレビを見ていてブレカーが落ちた瞬間、一瞬にして騒音が消えて、一瞬にして静寂が訪れる。
今迄アタマの中がうるさかった分、
“静“が際立ち、
永遠に“ここ“(瞑想)
にいたような感覚になっていた。



これに似たような経験は誰もが体験していると思う。


明け方、カラオケ屋から出てきて、外が静かで、それを感じたとか。

空を眺めて美しいな〜と感じたとか。




色眼鏡が落ちた瞬間を、誰もが垣間観ている。



私は色眼鏡をしていて、
色眼鏡に映る誰かも色眼鏡をしている。 
時々眼鏡を外している人がいて、
その時、私は透明の眼鏡をしている。


そして眼鏡を外す。

外ずていると云う認識は無く

外されている。

最後には色眼鏡をしている人も外す人も居ない。

在る


それに、気づいているか、
気づいていないか、

ただそれだけ。

人との差はそれだけの違いしかなくて

わたしをさすとき、差は無いんたなぁ〜

その時、人はいなくなり、
独り たったひとりだけ。

在るだけが在る

あ〜 色眼鏡をして楽しんでいる私を楽しんでいたんだな〜(✿^‿^)