どうやらニンゲンは、どういうニンゲン・ものごと・できごと・そしき・ジケンと出会ったり、かかわったりするかによって、じぶんの「じんせい・運・うんめい」というものが、おおきく左右され、えいきょうをうけ、きめられてしまうようである。
そして、そういうじぶん以外のそんざいとの出会い、かかわりあいこそが、まさに「縁」といえそうである。
ということであれば、むかしからいわれている、「じんせいは縁だ」というコトバは、しんじつであり、ホントウのことといえるのかもしれない。
縁とは、じぶん以外のそんざいとの出会い、かかわりあいのことをいう。そして、その縁をつうじて、じぶんにたいして、イロイロなものごと・できごと・ジケンなどが、やってくるカタチでなる。
ならば、じぶんが出会い、かかわったあいて・対象が、つまり、縁によってむすばれ、かかわったあいて・対象によって、「どういうタイプ・しゅるいのものごと・できごと・ジケンが、じぶんにたいしてやってくるのか」ということが、きまってしまうカタチになる。
どうやら縁次第で、じぶんがけいけんし、たいけんすべきことが、ほとんどきまってしまうようである。
ということであれば、しぜんと、ワルイ縁である「悪縁」がおおければおおいほど、じぶんにたいして、キケン・もんだい・トラブル・モメごとが、たくさんやってくることになる。
そして、コレとはぎゃくに、良い縁である「良縁」がおおければおおいほど、じぶんにたいして、プラスの良いこと、メリット、チャンスなどがやってくるかとおもわれる。
こういう視点・発想・かんがえかた・スタンスに立つのであれば、しぜんと、「悪縁はみつけ次第、すばやくけずり、つぶし、消去しなければならない。できることならば、さいしょから会わず、かかわらないようにしたい」と、かんがえるようになる。
そして、「良縁があれば、なるべくおおく会ったり、かかわるようにしたい。良縁となるニンゲン・あいてとは、なるべくおおく出会えるようにしたい」と、かんがえるようになる。
こういうことをかんがえていると、ソレはもしかしたら、「じぶんの意思・のうりょく・チカラで、じぶんのミライ・うんめい・じんせいを切りひらいていく」というよりは、むしろ、「たくさんの良い出会いをけいけんし、ソレによって、じぶんのミライ・うんめい・じんせいが、良い方向にながれていくようにしたい」というカタチになりそうである。
こういう視点・発想・かんがえかた・スタンスにたいしては、「じぶんの意思・のうりょく・チカラで、なにかをやろうとしていない。他力本願だ。たにんを当てにしている」というイミのひはんを、言ってくるニンゲンもいそうである。
だがしかし、「じんせいは縁」というコトバのとおり、ニンゲンのじんせい・うんめい・ミライというものは、いつ、どこで、ダレと、なにと出会うかによって、おおきく左右され、えいきょうをうけてしまう。
ということであれば、すべてのことを、じぶんの意思・のうりょく・チカラでおこない、じぶんのミライ・うんめい・じんせいを切りひらいていく。という視点・発想・かんがえかた・スタンスが、かならずしも、ただしいとはかぎらないのかもしれない。
むしろ、「じぶんの意思・のうりょく・チカラで、じぶんのミライ・うんめい・じんせいを切りひらいていくよりも、良い出会いをたくさんくりかえし、けいけんすることのによって、じぶんのミライ・うんめい・じんせいを、良い方向・ながれにしていこう」という視点・発想・かんがえかた・スタンスのほうが、ラクであり、ムリがすくないのかもしれない。