小説 文禄征韓 松浦法印公
琴里入道
第二十七
敵味方の攻防がしばらく続いていたが、松浦勢の56人はついに敵の大船1隻を乗っ取った。皆、先を争って船に飛び移り、敵36人の首を討ち取ったのである。こうして味方は勢いづいて激しく攻め立てたので、敵兵は恐れて舳先を廻らして逃げ去った。
この戦いで味方は、徒士大曲主水、山田四郎左衛門、中倉甲右衛門を始めとして雑兵13人が潔く戦死した。この時、敵船に装備していたものを分捕ったのは、太鼓、陣鐘、その他数種類の軍器などだった。
こうして法印公は士卒と共に釜山に達し、諸将もろ共名護屋に帰陣した。名護屋では浅野、石田の両奉行が迎え、太閤秀吉公の遺命を宣言すると、一同涙にむせんだ。やがて、石田三成は戦の苦労を休めようとして粗茶を献じたいと言ったところ、加藤清正が進み出て、「石田殿のお志は受けたいけれども、我らは長らく日本の地を離れ、遠き朝鮮に軍を進め、わずかな軍勢で明軍100万余りの大軍を切り乱し、千辛万苦の間を経歴したのは、どうか早く朝鮮を屈服させ、日本に帰国して太閤殿下にただ一言のご褒美に預かろうと楽しみにしていたからである。その甲斐もなくご高恩の殿下はもはやご他界されたとお聞きした。今どうして悠々と休養などしておられようぞ。各々方はともかく、この清正は一時も早く上阪して、亡き主君の尊霊に花と香を供えたいと思うばかりでござる。」と言った。
いざ、御免と言いながら急いで立ち上がると、列座にいた法印公は、「加藤殿の仰せられるところ、ごもっともでござる。」と言って立ち上がった。すると、満座の諸将も皆、立ち上がって大阪へ向かったのである。
やがて、伏見に詣で、秀頼公へ拝謁し、大老たちに殿下薨去の御弔辞を申し述べたところ、内大臣家康卿は遺命を伝え、御遺物を渡した。こうして諸将は京都の阿弥陀ヶ峰にある豊臣神廟に拝謁し、各々花や香を供えた。その後各自の邸宅に帰って、休養したのだった。
やがて翌年3月には、大老と奉行が征韓の功を議論し、島津、加藤、小西の諸将を始め、それぞれに賞与が与えられた。小西軍の武将でも大村丹後守、宗対馬守らは感状を賜った。ところが、法印公は在韓7年、どの戦いでも勝利したにもかかわらず、行長は終始和睦主義の人間だったので議論が常に一致せず、行長を諫めたこともしばしばだったので、行長は法印公を忌み嫌い、また法印公の武功を妬ましく思っていたので、あらぬことか、法印公には感状が与えられなかった。誠に遺憾なことであった。
法印公が平戸を出陣した際は、松浦勢は3千人だったけれども、戦死したり病死したりして兵を追加して派遣した。また、朝鮮に渡ることを望んだ人々が追々渡って行ったが、ご帰陣の際は義兵たちを合わせると既に7,200人余りが朝鮮に渡ったのだった。しかし、3千人と指示されたので、表向きはそのように扱った。
また松浦勢で討ち取った敵の首級は4,554人であり、味方は戦死や負傷合わせて1,098人だった。
(明治28年3月27日付け鎮西日報)
管理人より
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