*Puzzle*


-パズル-







昨日、初めて色のないパズルゲームをやってみた




地味にハマる!



色がない分、形だけで当てはめて行くから、慣れないうちはやりずらい


けど、楽しい。



パズルのピースって絶対に同じ形がないのは分かってるけど、
改めてやってみて、凄いなって思ってしまった。


同じものがないって知ってるのに

なぜだろうか、それを目の前にしていない時は同じだと思ってしまう。

と云うか、パズルのピースを一括りで認識するから

目の前にない時は、何百ピースのパズルでも一つだと思い込む。

一枚の形になったパズルも、それが完成系なら一枚の絵になる。

誰も、何百ピースの集合体だと考えない。

元はバラバラのピースなのに。

まぁ、“パズル”って云う名称が、ピースの状態も一枚の形になった状態も、どちらも称しているからかも知れないけど。


ピースの一つ一つを見てると、真っ白だからだとは思うけど、人の形に見えたり

昔のインベーダーゲームだっけか、それに出てくるキャラクターにみえたり

だんだん、パズルの感覚が違うものの様に思えてきて

真っ白な画面でも一枚の絵に見えて、なんだか新しい遊びを知った気分。



彩りのない、形だけでの判断にはすごく惑わされる。

些細な違いではまらなかったり、はまったと思っていたのが実は違っていたとか

それ以前に、ピースを探すのに時間がかかる。

PCの画面の中に約200個ものピースが散らばっていると、在る筈のピースすら見つけられなくて

けど、最後にはちゃんと全部が当てはまる。

それがまたおもしろい所でもあったりして

パズルなんて久しぶりにやったけど、真っ白なパズルならまたやりたいかも。


*Cycle*

-循環-









先月の頭に受けた講習での話。

職業教育についての講義で、教師云々が主な内容だったんだけど
その中で印象的だった言葉について、自分なりの解釈と云うか、そこから飛躍した考え。

実力があって情熱がある教員
実力があって情熱がない教員
実力もなくて情熱もない教員
実力がなくて情熱がある教員

(元々どこかからの抜粋らしく、この言葉の前後を読めばもっと明確に捉える事が出来たのかも知れないけど、そこまでは覚えておらなんだ)


実力と情熱、この二つが全てだとは思わないけど、的は得ていると思った。

そしてこの並び順に順位をつけると、それが教員として良いだろうと思われるタイプなんだとか。


確かに実力と情熱を兼ね備えた教員は少し古臭い様にも思えるが、実際に居たとすればきっと生徒から慕われ好かれていると思う。

以下の三例を見ても、情熱よりも実力だと思うし、実力よりも情熱(気持ち)ばかりが先走っている教員よりは、どちらもない教員の方が、教育を考えた場合には適しているのだと思う。


まぁあくまでも個人的観点からみた見解であって、誰もがそれとは限らないのだろうけど。

そんな事に頭を巡らせていた時、今抱えていると云うか半ば諦めかけていた問題が頭に浮かんで、何の解決にもならないのだろうけど、二つの事が繋がった。



問題と云うのは、教師ではなく後輩のことで

今年入ったばかりの一年生らが気持ちだけで先走ってしまい、実力が追い付かない状態で

けれど、気持ちが大きすぎるために他者の忠告を受け入れることが出来なくなっていた。


要するに、思い描くことに実力がついていっていないと云うことなんだけども

上記した四つのうちの一番最後に書いた


“実力がなくて情熱がある教員”

と同じくして

“実力がなくて情熱がある生徒”

だと思った。


別に卑下しているわけではなくて、誰もが最初から出来るような事ではないし、口で言うほど華やかでもない世界だから、思いこんでしまうのも無理はないと思う。


それに出来ないからと言ってやらせないのは、正しいこととも思わない。

出来ないからこそ、やらせて出来るようにさせて行くものだと思うし、出来ないからと言って他かがやってしまうのは、学校(もしくはモノを教える側)の立場からしたら、間違っていることだと思う。

だから、生徒がやりたいと云うのならやらせるべきだとは思う。


だがしかし、現実問題そうもいかない。

可能なことかどうかは、何年も経験している教師陣や上級生なら分かることで

例えば、何もない状態で空が飛びたいからと言って、十階建の屋上から飛ぼうとしている人を見つけて、飛びなさいと云う人はほとんどいないのと同じで

無理なものは無理だと、知ることも大切なのだと思う。

二つ前でPotentialがどうのこうのと言っておいて、可笑しなことと言われてしまうかもしれないけど

最低限の現実を見据えた上での可能性であって、現実を無視して“可能性”がと云われても、それは単なる我が儘か意固地なっているだけにしか見えないのだ。


もちろん、時には突っ走ってっみるコトも良いことだとは思う。

自分や周りが思う以上に、時として現実は良くも悪くも裏切るから。
だから難しいとも思うし、面白いとも思う。


話がそれてしまった様なので、元に戻すと

他の三つにも、生徒もしくは別の言葉が当てはまると思う。

そして、それが時として一連の流れなのではないかと云う考えが生まれた。


実力はないが情熱がある人は

気持ちが先走ることによって、現実と云う壁に行く手を阻まれ

情熱もなくなってしまう。

けれど、実力も情熱もない状態で惰性でもいいから、続けることが出来たなら

情熱はないが実力が身についてくる。

そして実力が認められるようになれば、自然と情熱も戻ってきて

実力があって情熱がある人になることが出来る


のではないかと云う、一つの考え。

あくまでも個人的見解であることを忘れないでほしいのだけど

ここからすれば、その逆もまた然りで


実力も情熱も兼ね備えた人が

慢心に因るか何に因るかは定かではないけれど、情熱を失えば

実力はあるが情熱のない人になる。

そして、いつしか持っていたはずの実力さえも鈍っていき

実力も情熱もない人になる。

そして実力を失って初めて、危機感や自分の状態に気づき

実力はないが情熱がある人になる。


半ば無理やりな気もしなくはないが、これも一つの過程だと考えればなくもない話だと思う。

それに途中の過程を飛ばすこともあるだろうし、止まってしまうこともあると思う。

だから、これだと断定することは出来ないのだけれど、当てはめて考えることが出来たら

少しは何かが違ってくるのではないかと思う。



そしてもう一つ、ここに付け加えるとるれば
流れの循環。

つまり、四つの循環が一つのサイクルだとして、その一つのサイクルが何度も繰り返される。と云うこと。

単純に考えると、レベルが一つ上がるごとに“実力も情熱もある”だったのが、実力は当たり前のレベル、もしくはそれ以下になることによって、“実力がなくて情熱がある”になり、一連の流れの中の最初に位置づけることが出来る。

もちろん、レベルが一つ上がっているのだから、最初の最初、つまりレベルが上がる前の“実力がなくて情熱がある”とはまた違ったものである。

それを繰り返していくことが成長、または大きな飛躍と言えるんではないか。














なんて、長々と書いてみた。

長くなりすぎて、最後はいくらかはぶいたけど、吐き出してスッキリ!




再三繰り返すようだけど、これはあくまでも個人の考えに因るところであって、もっと別の見方や考えがあると思うのであしからず。


 

何となくなのだけど







我々はどこから来たのか

我々は何者か

我々はどこへ行くのか








某有名画家の画名


遠い異国の地から遠路遥々やって来た時に見に行ったんだけど
何故だかふと頭に浮かんで

何となくなのだけど、書いてみた。




我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか



どこかへ行き着いたとき、己が何者なのかを知り、そこで初めてスタート地点を見ることが出来るんじゃないのかな。



今はまだ、青二才


行き着く先は遥か遠く
今が道の途中なら
唸って後ろを振り返ったり
背伸びをして先を眺めたところで
何が見える訳でもなかろう。

今はただ、見失わないこと!








とか言ってみる。