私にススキノの作法のイロハを教えてくれた師匠の「春さん」の話を綴ります。
私がススキノに初めて、お店を出したのは20坪の広さのお店でした。
カウンター席が10席に、お座敷のテーブル席が3つ。1つは個室です。
雑誌に取り上げて貰ったり、取引先の酒屋さんの協力もあり、又、私がOLをしていた大手生命保険会社の方達がお客様を紹介して下さり有り難い事に毎日、忙しくしていました。
開店して1年が過ぎた頃、お店の移転の話が急に持ち上がりました。
最初のお店の場所はススキノの南5条西5丁目のジャスマック三番館ビルの1階でした。
移転先のお店は南5条西4丁目のアルトビル3階。
ある会社で、既に和食のお店を経営されていましたが、持ち主が会社で株式を上場する為に、そのお店を早急に手放したいので居抜きで後を経営する人を探していたらしく、たまたま、その時期に私のお店が繁盛していると聞いたらしく、私に、どうですか?との事でした。
条件は、敷金も前家賃もいらないから一日も早く新規開店出来る事で私には有り難い内容でした。
5丁目より4丁目の方がススキノの中心で人の通りも多くススキノで商売する人には憧れの場所です。
さらにアルトビルはテナントに風俗店が無くビルとしては1級クラスでした。
一度、中を見てから判断して下さいとの事で話を頂いてから直に、そのお店を見に行きました。
エレベーターを降りると正面にお店がありました。
お店の入口まで石砂利が引かれ和風庭園の様なエントランスが続き和紙の灯籠が優しい光を放っていました。
入り口から店内まで高級感がただよう造りでした。
お店の広さは54坪。
広いカウンターの他に完全個室が二部屋。
大きな座敷と中位の座敷があり
満席で約50名のお客様をお迎え出来る店内でした。
家賃は坪単価2万円で108万円。共益費や空調代他を含めると約140万円前後。
固定費だけで最初のお店の約4倍強かかります。
それに従業員も増やさなくてはなりません。
私は、念願だった4丁目に出店出来るチャンスだと受け取り、母に相談して母も協力するから頑張りなさいと言われて、お店を見てから数日後に
「私が経営致します」
と、先方の会社の担当の方にお返事しました。
日本料理店を経営している人はススキノに沢山いる中、私を選んでくれた事に感謝しました。
その時に母から
「〇〇に会わせたい人がいるの。洗い場さんも必要でしょう」
と言われ母の紹介で「春さん」と言う母より年上の女性に会いました。
(確か会った時は70歳位だと記憶しています)
当時、春さんは、よその日本料理店の裏方で働いていました。
昔はススキノに0番地と言う名のビルでカウンター割烹を経営していたそうです。
水商売が長い春さんは粋な感じがして髪はスッキリ短くて眉と口紅だけは、しっかり引いていました。
きっと若い頃は美人でモテたと思う顔立ちにサッパリした性格で私は是非、新しいお店で働いて欲しいと思いました。
春さんは今、働いている職場を変わりたいと思っていた時でタイミングがバッチリ合いました。
板前が1人から5人になり、ホールスタッフの女の子は2名から12名に増えました。
洗い場は春さんと、もう一人の二人体制。
移転して開店準備から私は春さんに様々な事を教わりました。
例えば新しい、かんざしを結い上げた髪にさしたら、美容室を出たら、すぐに髪を振ってでも、そのかんざしを髪から落として、落とした場所で土にかんざしを埋める真似をすると、かんざしが私の厄を持って行ってくれるから。
例えば、嫌なお客様が長いをしたら、ホウキの履く方を上にして白い布を掛けると、お客様は早く帰るから。
例えば1日は絶対にお金を出しては駄目なのよ。出すと、その月は出費が多くなるから。
例えば、暖簾の色は紺は駄目よ。お客様がこん(来ない)
とか。
例えば開店日は火曜日は駄目なのよ。火の車の火だから。
水曜日も駄目なのよ。水に流れるの水だから。
木曜日は、まだ良いの。木に根付くの木だから。
一番良いのは金曜日。金になる金だからね。
等など、水商売アルアル話や花柳界のしきたり等。
私の知らない事を手取り足取り教えてくれました。
さすが、元、カウンター割烹の女将さんです。
私は知らない事を教えてくれる春さんの存在が有り難くて、知らないと恥をかくのは私です。まだ30過ぎたばかりの私は、それでも女将としてお店を守らなくてはなりません。
特に同業者からナメられる訳にはいかないのです。
春さんの教えは私を成長させ、又、周りからの評価に繋がりました。
教えられた事は全部、実行しました。
春さんは一度も結婚した事が無くて、だから子供もいませんでした。
そんな春さんの唯一の楽しみは麻雀と生のドジョウを飲む事でした。ドジョウは体に良いと言って私にも勧めましたが、それだけは出来ませんでした。
ドジョウの成果か?春さんはツヤツヤの肌をしていました。
春さんは、お店の営業時間前に毎日ススキノの銭湯に行き体を綺麗にしてから出勤していました。
私がススキノで20年以上お店を続けてこれたのは、春さんの教えが礎になっています。
80歳になった時、春さんは自分から、お店を辞めると言いました。
「もう、ゆっくりしたいから」
と。
その言葉に私は春さんを引き止める事は出来ませんでした。
最後は盛大な送別会をして春さんを見送りました。
それから数年が経ち春さんは癌で、この世を去りました。
私は春さんには感謝しかありません。
ススキノのネオンの中で結婚もせず生きて来た春さん。
ススキノに骨を埋めた、私は春さんの逝去を知った時、そう思いました。
今でも春さんの教えは私の体の中に、しっかりと染み付いています。
春さんからは沢山の事を教えられ水商売を学ばせて頂きました。
感謝しかありません。
春さん
もう一度、会いたいです。
−話は続きます−