前回の記事ははるか昔。
えらい長い間サボってしまいましたが、
なんとか再開しました。
さて前回は、
やりたいことが明確ならば、学部のときから、
日本の大学よりアメリカの大学へ行くことをお勧めする、
ということを書きました。
今日は、その理由の一つとして、
日本の大学入試とそれに至るまでの道のりが、
いかにたくさんのエネルギーを激しく、しかも無駄に奪うか、という、
日本の大学にいく場合、
特に、いわゆる「良い大学」に行こうとする場合に、
しばしば起こってしまう非常にネガティブな一面を、
少し長いですが、やや強調して、書いていこうと思っています。
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私はもともと、
日本の会社の働き方の問題点や解決策を、
集団や組織の心理学の面から研究していました。
たとえば、
日本の会社のシステムが、
どのように
長時間労働やワーカホリック(働き中毒)を生み出すのか?
あるいは、
どういう働き方の仕組みにすれば、
それぞれの才能や適正を生かし、
職業人として生きがいを感じられる人を育てられるのか?
などのテーマについてです。
それに関連した話でもあるのですが、
(就職活動を経験した人は、もちろんご存知でしょうが・・・)
日本では長い間、そして現在もなお、大企業を中心に、
どんな専門知識を学び、どの程度身に着けたか?
ではなく、
(主に「偏差値」を基準にして)どこの大学を卒業したか?
で応募した学生の皆さんをふるいにかけ、
基準に達しない人たちを門前払いにするのがならわしとなっています。
これは企業が、
新人にいろんな仕事を実地で一通り経験させ、
長い時間とたくさんの費用をかけて、
浅く広くなんでもできる人材
(⇒「ジェネラリス」トとか、自嘲気味に「何でも屋」なんて言う人もいます)
に育て、
その代わり一生会社に尽くしてもらおう、
という方針で教育してきたという歴史があるためです。
一般に、
浅く広く何でもできる人材に育てやすいのは、
(何かの専門分野で優れている人よりむしろ)
まんべんなく、平均的に、「何でもそこそこできる」人。
企業の採用者は、
大学に入学する難しさである「偏差値」を、
そういう「何でもそこそこできる」学生かどうか、を判断する時の、
比較的はずれの少ないものさしとして、
長い間にわたり便利に使ってきたわけですね。
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まんべんなく、平均的に、「何でもそこそこできる」人を
選別するために、学生をふるいにかけるシステムは、
ふつうは中学入試、遅くても高校入試の時点からスタート。
進学校への中学受験や高校受験では、
受験科目となる、英・国・数・理・社の主要科目全てにおいて
完璧に近いパフォーマンスが求められ、
一つでも苦手科目があると、
その時点ではじき出される仕組みになっています。
これを何とかするために、進学塾があり、家庭教師がいて、
何も考えず遊びたい年頃に、眠い目をこすりながら、いろんなことを我慢して、
自分の目標を目指し、あるいは親の期待に応えようと、
毎日ボロボロになりながら、たくさんの子供たちが、
無味乾燥な、つるかめ算だの、植木算だのの連続で、
サービス残業上等のサラリーマンのような消耗戦の日々を送ります。
最終的に、進学校といわれる高校に行けなかった人は、
その時点で、
「進学校に行けなかったのだから、自分は勉強では大したことはない・・・。」
「進学校に行けなかったのだから、良い大学にもいけるはずがない・・・。」
「進学校に行けなかったのだから、知的職業では芽が出ないだろう・・・。」
・・・などなど
と(誤って?)思い込んでしまい、
大部分の人が、
大学受験で真剣勝負する前に自分の可能性に見切りをつけてしまいます。
本当に、勘違いや思い違いというのは恐ろしいものです。
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実際には、
少しくらい苦手な科目があっても、
また、それが原因で「すごい」と言われる進学校に行けなくても、
最終的に大学入試で一発逆転し「良い大学」に入ることは普通に可能です。
もっと言うと、
「良い大学」や「一流大学」に入れなくても、
研究者などの知的職業人として、
「良い大学」の出身者と同じ土俵で活躍している人は普通にいます。
(支給される研究費用のハンディキャップは確かにありますが、
その人が研究に必要な知識や能力とほとんど関係のない
受験勉強でほとんど消耗していない分、有利なようにも思います。
さかなクンはその一番極端でわかりやすい例なのかな???)
例えば、私が卒業した高校は、普通の地方の公立高校です。
県内でも10番目くらいのレベルで、
その地域の住民だけに進学校と認知されていたような学校でした。
ところが、
なんだかんだでふたを開けてみれば、
近所の同級生はみんな個々人でコソコソ必死で勉強し、
早慶や旧帝大に(多数派ではないが)普通に合格してましたし、
その一方で、やりたい研究分野がはっきりしていて、
その学科に行きたいために、
いわゆる駅弁大学と呼ばれていた地元の国立大学に入学し、
今では国際的に活躍する学者になっている同級生もいます。
また、近所の知人で、
うちの高校よりずっと入試がやさしい県立高校を出て、
これまた近所のかなり入試がやさしい私立大学に入ったが、
この男、数学だけはバツグンにできたのでやりたい研究に火がついてからは、
その大学の大学院では飽き足らず、独自で道を求めてその分野の第一人者になり、
旧帝大のとある大学から博士号を授与され、
地元で最先端の研究を生かしたベンチャービジネスを展開し大企業と張り合いつつ、
出身大学の客員教授にもなっているというのもいます。
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このような例があると思えば、
それとは対照的な例もあります。
私が入った大学には付属の中学や高校があり、
それぞれの入試難易度は全国的にトップランクの進学校に
引けを取らないと言ってもいいレベルではないか、と思います。
ある時、その付属校出身の先輩数人に、
「一流企業のサラリーマン以外で、例えば、
何かのエキスパートや研究者になろうとかということは
考えたことはないんですか?」
と、質問したことがありました。
すると、ほとんどの皆さんが、
「東大に入れていない時点で、自分に才能はないとわかるのでね・・・。」
と答えました。
この方たちは大学入試を経験していないので、
そのあたりの引け目も少し感じていたのかもしれませんが、
中学受験や高校受験で、夜も昼もなく、
(たくさんの優秀な子供たちを、単にふるいにかけるためだけに作られた)
つるかめ算や植木算や仕事算・・・・などの問題の数々を、
四谷大塚や日能研で死ぬほどやらされ、
「上には上がいる」
と言うことを、骨の髄まで思い知らされた人たちなのでしょう。
この「上」とか「下」とかいうのは、
大学で勉強する内容とも就きたかった分野での才能とも
ほとんど関係のない変なクイズ大会での優劣に過ぎないのに、
そこでもっと優秀なやつがいたからと言って、
自分の一生を、「こんなもんだ」と決め付けてしまっているように見えました。
全国的にトップレベルの中学や高校に合格しておきながら、結局のところ、
地方で、「進学校に行けなかったから、自分は勉強では大したことはない・・・」
と言っている人たちとなんら変わりはないんじゃあないか、
と思います。
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つまるところが、
まんべんなく、平均的に、「何でもそこそこできる」人
を選別するために受験の選抜システムが利用されてきたおかげで、
苦手科目をゼロにして、全ての科目で高いパフォーマンス発揮することを要求され、
そのために塾や予備校に通い、家庭教師を付け、膨大な時間や精力をつぎ込み、
進学校に行けなかったら、
「進学校に行けなかったから、自分は勉強では大したことはない・・・」
と信じ込んで、行きたい道ややりたいことを諦めてしまう・・・
というのが、
普通の人たちが普通に信じ込まされることであって、
「良い学校」に行こうが行くまいが
自分のやりたかったことを貫いて世界で活躍している人などの、
上に挙げたような、本当に限られた幸運な例を除いて、
日本の受験システムの中で、
「自分はそれでもやりたいんだ!できるんだ!」と信じ、
やりたいことを目指し続けるモチベーションを維持することは、
ほとんど不可能に近いと言っていいほど困難なことだと思います。
日本の場合、大学受験に至るかなり前の時点で、
すでにこれだけエネルギーや時間やお金を無駄に消耗する要素がそろっています。
今の私なら、決して中学受験や高校受験に血道をあげることを勧めません。
もし今、自分がそういう立場だったらどうするかというと・・・
学校では、数学や国語や英語などの基本的な科目はきちんとやりますが、
そのほかの時間は、やりたいことの勉強に100%使うだろうと思います。
やりたいことを職業にするために学ぶ必要があるなら、
そこそこの大学に行ってから、アメリカに行けばいいってわかっているので、
中学受験や高校受験はあまりまじめにやらないと思います・・・。
そんなムダなことで身心を消耗し、燃え尽きたら元も子もありませんので・・・。
次は引き続き、日本の大学受験の激しいムダあるあるを書いてみようと思います。
それでは・・・
楢崎三郎