登場人物

ぼく ……………………本書の主人公
三好 真奈美 …………ティーンエイジャー
きよちゃん ……………黄のぼり荘の大家
仲野 恵美……………黄のぼり荘の住人
橋田 好介……………弁護士
久米 …………………ぼくの上司になる男
黄色い熊 ……………ぼくの友達

 

 

 

 

 

                                これはぼくと黄のぼり荘の物語

 

 

             1

 

 

 

 その夜、キャサリンは美咲に抱かれていた。

 美咲の肌はあわく消えてしまいそうなほど、ほのかに息づき、キャサリンのがんとしてゆずらない白さとはかけ離れたものだった。その強さとは無縁の白が、豊かで優雅な白をまるまると支配している。ぴんと張ったレザーのソファから投げだされた脚のしたには、エナメルのハイヒールが無造作に倒れて、転がっている。アンクルストラップの、ヒールがべらぼうに高い先鋭な靴は遠目からみても恐ろしく挑発的な様相をしていた。

 ぼくは店の奥で伝票と睨めっこしている八雲さんの姿を認めると、彼のもとに歩み寄った。“たんぽぽ(綿)店長”が彼の愛称で、ほっそりとした長身の身体とふわふわにカールしたくせっ毛がその由来なのだけどぼくは八雲さん、と呼んだ

「あれ、どうするんですか」開店準備をしなければいけなかった。このまま客を迎え入れるには、サービスが過ぎる。

 八雲さんは、美咲のことは起こしてやらなきゃならないしキャサリンについても彼女がいるべき場所へ帰すべきだろう、と応じた。そんなことはハナからわかっていたけど口に出すことは控えておいた。彼が伝票を整理する手を止めないところをみると、つまり頼んだよということなのだろう。もしくは、これも開店準備のオプションのひとつなのだと説明したのかもしれない。

 ぼくはおとなしくキャサリンの救出に向かった。その前にグラスいっぱいの水を持っていくことも忘れなかった。美咲に近づいてみると案の定、甘い香りとアルコールの匂いが、彼女の曲線と輪郭をすべるように包み込んでいた。キャサリンは美咲の魅惑的な圧力によってゆがめられ、美咲の眠りを文字通り“支えて”いる。

 天使の眠りについている女性(もしくは酔いどれ女)を健康的なボディタッチで起こしても非難されないだけの容姿は持ち合わせているぼくだけど、その対応には思案した。―なぜかって?ぼくは人畜無害なボーイで、美咲は酔うとネコにじゃら棒のキャバクラ嬢で、キャサリンはキャサリン――夜の世界でいうところのクッション兼キャスト――ということをふまえれば最善の案ではなかったから。

 とはいえ、起こさないわけにもいかない。仕方なく彼女の名を呼んだ。

「生きてます?」それからぼくは尋ねた。

 彼女は答えるかわりに狭いソファの上で窮屈に寝返りをうった。華奢な両腕で器用にキャサリンを抱えたままに。

 その拍子に美咲の透けるように白い脚がエナメルの、ヴィヴィエのヒールを蹴り上げて乾いた音をたてた。彼女の耳はこの周波数を待っていたらしい。

「ねえ」美咲は半分眠ったまま言った。「たばこ吸いたい」

「タール強いですよ」

「それでいい」

 煙草をねだるのは泥酔した日だけだった。ぼくはガンマンばりに素早く差しだしたつもりだったのに美咲はまた動かなくなっていて、しばらくの間ぼくも固まった。そうすることが当然のように思えた。そんなに長くは、かからなかった。おそらく美咲の耳は起きていて、ぼくが静止しているのを察知したのか、煙草を催促した。

 煙草をねだるのは男にだけだと、ぼくらは知っている。つまりは甘えたいのだ。普段はまったく手のかからないキャストなだけに無下にもできない。

 ぼくは口の端で煙草に火を点けてから、彼女にくわえさせてやった。灰皿を用意する。それからテーブルの上のグラスにコースターで蓋をした。この時点でキャサリンのことはすっかり忘れていたぼくだけど、ことのほか簡単にキャサリンを返してもらった。「そうだったね――以前、別のキャサリンが煙草でひどい怪我を負って以来、抱き煙草は禁止だ」任務は完了。

 まだボーイという仕事に出会う前、ぼくの世界は見覚えのある景色で飽和気味だった。それまでにも泥酔女の介抱は幾度となくあった。無機質な繊維のかたまりに名前をつけてやることも、そうだな、しばしばあった。それが“夜”というだけで、世界はずいぶん明るくなった。ときには、まともな職に就くようにと忠告をくれる友人もいた。彼らはぼくがいつかとんでもないろくでなしになって、名刺を二つ折りにしてしまうのではないかと危惧している。愚問だね。ボーイにろくでなしが多いのは如何ともしがたいけど、どこの会社にだってクズはいる。誰にでもできる娯楽業だという向きもあるが、誰にでも門をひらく、わけ隔てないぼくの愛すべき仕事だ。そもそも努力や能力のパラメーターに社会貢献度を加えて職種の質を推し量ることは、プライベートパーティーの招待客を精選する際には役立つが、あいにくぼくはパーティーを開かない。ここは毎晩宴騒ぎだけれど。

「ボウイさん、これ」美咲はそう言うと、両手の爪を合わせてカリカリと鳴らした。冷たいおしぼり――つめしぼを要求するときのハンドサインだ。

「お待ちを。でもどうしてこんな時間に酔っ払いがいるんだい」

「テキーラよ」

「テキーラ?」

「そう、死ぬほど飲んだの。イエガーも二、三杯」

「それで倒れているわけだ」

 美咲は首を振った。「まだ、飲めるもん」

 ご勘弁を。ぼくは余計な注文を受ける前に話を終わらせて、さっさとキッチンに向かう。持っていたキャサリンは美咲の手の届かないところへ置いた。あとで二階のVIPルームに帰してやらねばいけない。キッチンではドリンク類で不足しそうなものがあればメモを取る。前日に洗い残したグラスは後回しにしてもかまわないだろう。冷蔵庫からおしぼりを取り出して、ぼくは踵をかえした。ルーティーンは滅茶苦茶。ルーティーンがあるなら、だけど。

 カウンターの出勤表に目を通すが、当然美咲はお休み。平日のわりに出勤の女の子が多い。しほか、リナ、さら、唯、紗季、そら、ノア、景子、えむ、せりな、なつ、いちか、カズハ、みう……etc。それからぼくはユキの欄に視線を落としたところで、パッと花が咲く!――L同伴となっている。ユキがロングの同伴を取る客はひとりしかいない。間違いない、あの男が来る。色とりどりの蝶が舞う前頭葉のファンタジーエリアで、ぼくはレゲエに揺られて黄色い熊とクールなハンドシェイクを交わした。熊はロボットダンスも追加する。開店準備の遅れなど、もはやぼくの敵じゃない。

 振り向くと、美咲はソファから起き上がってグラスに口をつけていた。裸足のまま膝をかかえて、紫煙をくゆらせている。タロットは好みじゃないけれど、どこか神々しいカードのように彼女も毅然とした面持ちで、なにかを告げているようだった。とても素敵な夜になる、ぼくは根拠もなくそう思った。

 

 

 目当ての久米は夜も更けるころに現れた。VIPに通す。毛足の短いウールの絨毯にダークブラウンを基調とした装飾具、特に膝高のローテーブルは好色ジジイたちに極めて好評。理由を訊くなんて野暮だね。久米は少なくともそんなことで鼻の下を伸ばしたりしない。

 年の頃は三十代前半。いつでも洒落たスーツでやってきて、外資系のやり手を思わせるルックス。今日もイタリアの香りがする――それを伝えると「このピンストライプや革靴が、か?」と気さくに笑って、キャサリンの横に腰を下ろした。

 肝心のユキは今頃きらびやかなドレスに身体を通している最中だ。普段ならユキの到着までぼくが席を離れなくて済むように別のボーイが久米の代名詞といえるワインをひとつ運んでくるが、それも来ない。それもそのはず、インカムの向こうで温厚な八雲さんがひっきりなしに吠えている。忙しいのだ。

「繁盛しているね」久米が気遣ったように言った。

「おかげさまで。お飲み物を用意してきます、しばらくお待ちください」

「ああ、頼む。焦らなくていいよ」

 ぼくは頷いた。「では、失礼します」

 “オーパス・ワン”このワインに罪はないけれど、ぼくはその響きに禁断の果実のような、はたまたすべてを呑みこんでしまうおまじないのような危うさを覚える。薬瓶に似たフォルムのボトルは黒魔術を想起させるし、ラベルに描かれたふたりのラフタッチな横顔は、そこはかとなく不安定に浮かんでいる。そこへきて、ルビーばりに輝かんばかりのうっとりとする赤。赤が白よりもどこか潜在的に危険を孕んでいることはぬぐえない。上等のボルドーは映画のワンシーンで含蓄を示唆する。注がれることのない空白の分だけ想像をかきたて気をもませる。

 こうした印象が、ぼくにとってはそのまま久米のシンボルとなっている。いや、相互に影響を及ぼしていると言ってもいいかもしれない。お酒の印象なんて、いつだれが飲むかに大きく依存するものなのだからオーパス・ワンが久米によって謎めいた、秘密めいたものになってしまったのだろう。

 久米について知っていることといえば、彼の仕事が社会逸脱的な部類に属するかもしれない、ということ。ぼくが知りえたのは「きれいな色はしていない」久米のそのひとことだったが、ぼくの思考中枢部は総合的な判断を下した。善か悪でいえば悪。裏の人間。でなきゃ、ドブさらい界の権威? 黄金でもかっさらうなら話は別だが、まったくありえない。保守的な立場をとるなら彼を恐れるべきだけど、いったい彼のなにを恐れればいいのだろうか。ぼくが思うに、魅力的な悪党は苦難を乗り越えていく力強いヒーローと同じくらい欠かせないものだ。

 

 指三本分のワイングラスとオーパス・ワンを運んでまもなく、ユキが珊瑚色のマーメイドドレスを纏って姿をみせた。フィリピーナとのハーフで瞳は大きく、くちびるは艶めいて反抗的。なにより、きめ細かい小麦色の肌が彼女の美しさと、パワーを、物語っていた。いっぽうで、めためたに酔うと決まって泣き上戸になり、そんなとき久米はぼくを呼んで一杯やるのが恒例となっている。

 

 

 

 

 

 

 それからふたりは給仕の礼を言ってから乾杯した。ぼくのお役目は一旦終了。フロアを降りる。けれどぼくの目的はまだ、達成されちゃいない。今日のチャンスを逃すなんてできなかった。水商売の次回は、とりわけ保証がなくアテにできない。だから、今度来たときは指名するよ、なんて言っちゃっているそこのおっちゃんは信用ならない。ちなみに女の娘を酔わせようとドリンクをいくら飲ませたところで、彼女がさっきから飲んでいるウーロン割はアルコールゼロだ。どうしてもニャンニャンしたいのならウーロンハイを注文させるといい。閑話休題。

 さて、世の中には知らなくてもいいことが山ほど溢れている。それはたいてい人生の役に立たないことで、常識と格式を重んじる大多数の人にとっては――耳に栓をするほどではないにせよ――関心のないことだ。けしてだれにも踏み荒らされることのない新雪の積もる場所を心にとめておいても春になれば霊力を失うように何も残してはくれず、残してくれなかったことさえ瞬く間に忘れていく。なのにぼくはそんなことにばかり惹かれる質だった。なにも得なかったかどうかは死ぬときにでも――暇があれば――大天使ミカエルに訊ねればいい。

 前置きが長くなった。早い話が、ぼくはまだ見ぬ未知を求めて転職を考えていた。一緒に仕事をするか? 久米にそう誘われたのが何月前だったか、例のごとくオーパス・ワンを頂戴しているときだった。真に受けることもできたが、それはたいていボーイに対する親密の証をフランクに表現した冗談ないし賛辞として受け取るのが一般的で、じっさい久米も答えを期待している様子はなかった。だからぼくらの間でそれについて交わされたのは二言三言で、その後は引き続きワインを空けながら一段と楽しい夜を過ごした。

 異変に気が付いたのはそれから数週間後。ぼくはしきりに悪党のぼくの可能性について熟考を重ねるようになっていた。足をぐるんぐるんに縛りあげて頭から真っ逆さまに落ちていく姿を、幾度となくシミュレーションしたのだ。そしてその不毛なシミュレーションにエンターをかけるときがついにまわってきた。

 延長確認を取りに行った際ユキが化粧直しに席を外したのを見とどけてから、例の会話を覚えているか久米に訊ねてみた。

「覚えている」

 久米の表情からはその話題を温かく迎え入れる気配も、よしとしない気配も見受けられなかったが、彼は紳士の振る舞いとしてぼくにワインと丸椅子を勧めた。

「それで記憶力をテストして終わりか?」

 ぼくは真意を告げたんだ。彼はふんふんと頷いて口の端を撫でた後、ぼくの目を見てじっと黙った。永遠に続くかのような緊迫したときが流れ、久米はようやく口を開いた。

「やめておけ」

 ぼくは面食らった。「なぜです?」

「一度狂った歯車は戻らない。賢明な選択とはいえないな。あのときはつい口がすべった。おまえが良い奴だから誘ってみたくなったんだ」

「なら……」

「勘違いするな、ウチに良い奴なんていない」

 そんなの納得できるだろうか。酒の席だったことや時間が経っていることを差し引いたって、そんなのあんまりだ。

「そういうことなら、久米さんはどうなんです。あなたは悪い人じゃないですよ」

 媚びるつもりは毛頭ない。久米はぼくの言わんとしていることを理解した。

「否定すればおまえも良い奴を否定する。否定しないのなら、おまえが職場に入り込む余地がある」

「かもしれません」

「生意気じゃないか」

「すいません」

「不安じゃないのか、仕事内容も訊かずに」

 問題はそこだった。ダフ屋ほど生易しいものではないだろうが、かといって久米が銀行強盗団のカシラだとは思えない。それにここだけの話、ぼくは闇金だと踏んでいる。スマイルの似合う闇金も悪くないだろ? そもそも――「え? 教えてもらえるものなんですか」考えてもみなかった。機密じゃなかったのか。

「いいや、すまないがそれはムリだ」

「だめですか」

「だめだ」

 やっぱり、そりゃあそうだろう。妙に納得しているぼくをよそに、久米はワインに舌鼓をうっている。つられてぼくもゴクリとやるが、毎度のことなにがそんなにお高いのかはまるでわからない。頭が冴えて最高の切り返しが浮かんでくるでもなし、ここはジャックダニエルと強炭酸が好敵手かもしれない。だが仕方なしにボルドーの愚直なひらめきを吐き出す。

「試用期間を設けてみるのはどうでしょう? 適性をみて判断する、というのは」

「まさか本気じゃないよな。そんなかわいい制度があると思うか」

「ない、でしょうか」

「ない、な」久米は頬を緩め、続けた。「第一おまえにはもっと向いている仕事があるだろう。学歴の無駄遣いもいいところだ」

 賢さとはなんだろうか、たとえばドイツの哲学者カントの表現にならった“コペルニクス的転回”をいうのであれば同意しかねるが、それがつまりはぼくの目指すところなのだろう。

「八雲さんにも同じことを面接のときに言われました。親が泣くぞ、とまで」

「たんぽぽもいいこと言うじゃないか。そういうことだ」

「なのにぼくはいまやボーイを謳歌しています」

 そうでしょう、と言わんばかりのスマイルをぼくは作ってみせた。久米はしつこいアピールにほとほと呆れているようで、一歩間違えば逆鱗に触れるんじゃないかと気が気でなかったがそうはならなかった。時間は有限で、ユキがテーブルに戻ってくるのはごく自然のことなのだから、それはしたがってタイムアップでありゲームオーバー、テンカウント、ジ・エンドなんでもかまわないがぼくは早々にリングから降りる必要があった。ぼくはおそらく心底残念そうな、それでいて苦虫を噛みつぶしたような表情をしていたのだろう。

「お邪魔だったかしら」

 ボーイよりキャストが邪魔なことなどあろうはずもない。ぼくはワインの礼を言って席を立った。黄色い熊はぼくを慰めようと肩に手をまわしてくれていたが、彼も下を向いていた。が、直後ぼくらは久米の言葉に色めき立った。サイコーに飛び跳ねたい気分だ。

「仕事が終わったら“ステインズ”に来い。場所はわかるな?」

 わかる、わかる。ぼくは目を輝かせながら何度も頷いた。

 

 ステインズは地下にあるセレクションバーで店からそう遠くはない場所にあった。搭乗ゲートのように分厚い扉を引くと独特のピート香が鼻孔をくすぐり、ぼくは目一杯それを吸い込んで息を整えた。天井が低く薄暗い店内の奥で久米と見知らぬ男が話を交わしているのを見つけたが近付いていいものか判断に迷っていると、気付いた久米が手招きをした。

「まずは乾杯しよう、話はそれからだ」

 

 

 

 ここまでがぼくの仕事遍歴を大きく変えてしまった夜だ。誤解はしてほしくないがぼくは荒くれものじゃない。善良な市民といえないまでも、税金はもれなく収めているし違反切符もない。学生時代にはそこそこボランティアにだって励んだ。さらに言うなら今時の若者としては珍しく大家さんとの関係も良好といえるだろう。

 お世辞にもきれいとはいえないボロのアパートは周りから黄のぼり荘と呼ばれている。じつに単純明快、建物の塗装がとにかく黄色い、まあ黄色い。塗装が剥げたり風化したりして全体的にトーンは落ちているはずなのに、底抜けに明るい。大家のきよちゃん曰く「孫がひとりで来ても迷わないようにしたの」だそう。

 昔は、木登りさんのところと呼ばれていたんだと。今にも崩れそうな建物と対照的に立派な庭がこしらえてあるのは亡くなったご主人が庭師だったそうな。きよちゃんは「木登りさん」と口にするたび頬を染めるので、ぼくはそんな彼女のかわいらしさがたまらなく好きだった。ぼくだけじゃない、黄のぼり荘の住人みんなからの人気者だ。小さくて、いつもニコニコ、真っ白な髪の毛がとてもお似合い。毛糸のお召し物がトレードマークってことも忘れちゃならない。それは彼女のやさしさの象徴でもあるのだ。

 平日の昼下がり。きよちゃんからお茶のお誘いがかかるのは決まってこの時分。黄のぼり荘がほとんど空っぽで、凪に包まれる陽気のいい昼下がり。ぼくは錆びた階段のステップを軽快に下りていく。下りたすぐそこがきよちゃんのお部屋。

「ご飯食べてる? 痩せたんじゃないのかい」

「三日前にも同じことを言われたよ」

 ご年配はどうにもまるまる太った若者が好きらしい。お腹はいっぱいだと伝えると冷えたメロンがでてきた。ぼくはここで一、二時間ごろごろしてから帰る。彼女とおしゃべりに興じることもあれば、そのまま寝てしまうこともあったり、いずれにせよぼくはハートフルな時間を過ごすことになる。

 欠かしちゃならないのがご主人へのお線香。黄のぼり荘は信じられないほどに家賃が低くて、築年数を考慮したってToo cheap。それはご主人の意向らしく――わたしは今もそのわがままに付き合っているだけ――なんて話すけど、きよちゃん唯一の愚痴にしてあまりに温かい愚痴だ。黄のぼり荘にどこか時が止まったような印象を覚えるのは外観のせいだけじゃなく、彼女の乙女のような恋心がそうさせるのかもしれない。ぼくはたまに、外壁が黄色いのはお孫さんの為っていうのはたんなる照れ隠しで、じつは黄のぼり荘の言い出しっぺは、きよちゃんなんじゃないかと考えてみたりする。仮にそうだったとしても本人は口を割らないだろうから真相を確かめるすべはないわけだけど、ぼくの説のほうがロマンチックで若い世代から支持を得そうだと

思わないかい?

――ああ、メロンはうまい。いつもどうもありがとう。

「いいのよ」きよちゃんはニヤッとした。「ところでいいことでもあったのかしら?」

 そう。ぼくはすぐ顔に出す。

 

 

最も嘘に遠い青 2