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south korean

1993年~1996年度までのリアルな韓国留学話を一部フィックションを交え物語形式で記載しております。

物語の中、もしくは韓国の事に質問がありましたら、わかる範囲内でお答えもします。(時間があれば)

悪魔での自己満足の世界になりますのでご注意下さい。

前回もやはり 誤字、脱字が多いですな!すいません。


それでは二日目の話に入りたいと思います。

色々ちょっかいを出して来る奴が途切れたのは消灯時間10時過ぎになってからでした。ここからが一番伝えたいとゆうか、信じられない事態なのです。ひっぱらいで言います。入団テスト生が216名、五賢中学サッカ-部が確か1軍を抜いて400名近い人数がいて、勿論テスト生には寝る場所がありません。グラウンドにブル-シ-トを引き、(一個中隊に2枚)皆で星空を見ながら添い寝なのです。勿論、シャワ-もあるわけでは無く、水道の蛇口で洗うぐらいでした。だから臭い臭い、最悪の状況でした。200近くがイビキをかくと皆の音程が微妙に違う為、たまにメロディ-チックになる時がある。(これトリビアに出したいネタだね!)と僕は明け方まで眠る事が出来ずにずっと星空を眺めていました。翌朝、5時起床で朝ごはんが終わると8時過ぎでした。全人約600名以上が朝飯なので、時間がかかる、かかる。よく、大家族だと朝のトイレラッシュがあるのをみますが600人ぐらいいると、ラッシュとは言わないです。大以外皆、裏山で済ませます。中には大も裏山でしている奴も居たと思います。僕も2年生夏の合宿時はお世話になった記憶があります。二日目はA~F中隊までが体力テストになります。体力テストは極端で裏山を9時間ぶっ通しで走るだけ!これは五賢中学伝統行事で毎年、入団テスト時、合宿時は走ります。しかも、平坦な道ではありません。山といっても峰と言った方が正しいのかな?(違いはわかりませんが)獣道で斜面が斜めになっていまして、一週何キロかはわかりませんが、3年間の中で僕のベストタイムが48分ぐらいかかりました。(途中で歩いてないです。)道が斜めに傾いているので200M間隔で先輩達が立ち、こけて下に転がって行く人をフォロ-するようになっておりました。一様獣道ですが先代達が走った場所が草や木が倒れていて、道になっておりました。最初は体力が有るのでその道を走れましたが段々体力が無くなると、重力には逆らえず下の方に下の方に行ってしまい、気づくと獣道を走るはめになりました。200m間隔で先輩達が居るので歩いていると怒られたり、チッェク表で減点されたりするので、たまらなく死にたい気分になったのを覚えております。僕は何週したか覚えてないが2回吐きました。中には泣き出す奴もいて、鳴き声が聞こえてくるとお先輩達がおかあさんと叫べっと言って来るのです。中隊皆がお母さんと叫びながら泣きながら、吐きながら、走っている姿は今思うと面白いと思う。でもその時は必死でしたし、足に擦り傷等が出来ているのにも気がつかないぐらいでした。初めて韓国で入団テストする事を選んだ事を後悔しました。この時、後悔の意味を体で体験しました。昨日のG~J中隊までの奴らが死にかかっているのが納得できました。どのくらい走ったかわかりませんが、終了のアナンスが流れ皆その場に寝転んでしまいました。でも、先輩達は待ってくれず、人数点呼の命令が出て、グラウンドに集合させられたのを切っ掛けに夕食タイム!食べられるか!と僕は日本語で叫びました。当時の僕はなんて国だ!と腹を立ててました。皆も体力が限界にきて、イライラしているのが分かるぐらいでした。夕食も取らずに自由時間がきて、A~F中隊の皆は誰一人話す奴もいなく、眠りについておりました。その中で一番元気な奴がキマニ君でした。本当に体力バカでそいつだけ同じ小学校の奴と話ているのは分かりました。9時前ぐらいに入団テスト結果が発表になりました。合格者は150名と母から聞いていたのですが151名明らかに僕の枠ですわ!当時、は合格したので嬉しかったが、今考えると日本人が初めてなので、合格にさせてもらったのではないかと思います。現状韓国の子の実力を見ましたが僕が日本で学校のクラブレベルでしかない僕の実力とサッカ-に対する執念。全然、負けていたと思います。彼らは小学生時代から勉強をあきらめて、プロを目指している集団。今、考えると頭が下がります。落ちた者はその場で帰る事になります。F中隊の中では僕一人が合格。皆と別れの時、僕に握手する者、抱きつく者がいて言葉は分からないが僕は泣きながら、彼らを見送りました。本当に悲しかったし、名前も知らない奴もいましたが親友になれた気がしたのを覚えております。

終わり


次回、入団記念式! 

前回、誤字、脱字が多いとの指摘を受けました。読者の皆様すいません。気をつけて、記入するようにします。


ここで本題にはいります。 入団テスト受ける事が決まり、韓国に滞在しておりました。当時の通訳は母親がしており、説明を聞くと、2泊3日で学校で泊り込みで試験を行うとの事でした。僕は緊張がピ-クに達して夜も眠れず野原で走っていたら、野犬に襲われそうになった事を思い出しました。(これはホンマですよ)メガネともすれ違う事も無く、入団テストの当日がきました。僕を含めて、216名、しかも男ばかりで吐き気がしたのを覚えております。軽いウォ-ミングアップを終えて、直にくじ引きで紅白戦が始まりました、勿論、216名いっせいではありません。僕がいた班は(直訳すると中隊)F中隊でした。皆でJ中隊まであり、各中退20人から23名の希望ポジョン別に分かれてランダムに入っていると思います。要はA~Fまで一日で技術テスト、G~Jまでが体力テストで分かれておりました。一日事に交代する予定です。でも当時、説明してくれてたと思いますが僕は言葉が分からないので全然分からないまま、皆について行く事しか出来ませんでした。紅白戦何試合をしたか覚えておりませんが一日中試合をしたと思います。皆夕方になると、走りすぎて吐く人や、泣き出す人もいました。僕も生まれて初めて死ぬかも・・・と感じた一日でした。後、サッカ-は意思の疎通が需要で試合後、ポジョンンの修正や、相手の癖など、話合うのですが、僕が一言話さないのに気づき僕に多分、文句を言っている奴がおり、僕が日本語で「うるさい」と返すと、相手は初めて聞く外国語にビックリしていたのを今でもハッキリ記憶に残っております。ここで、事件の始まりです。噂は早いもんで、全中隊に日本人が入団テストを受けに来ていると噂は広まり、皆が僕を一目見にきてました。中には喧嘩を売りに来ている奴もいました。僕も紅白戦でクタクタでしたので、一々相手はしていられなかったので、全部、無視!!!昼食をとっていなかった事に夕方気づくぐらいハ-ドでした。あれは夕方5時過ぎに一日の過程が終わり、夕食が出てきました。この夕食にビックリ!!よく、戦争映画ででっかい鍋にス-プがあり、パンと食べるシ-ンがありますが、正にそれです。ス-プの代わりにキムチチゲ、臭いご飯におかずはキムチのみ!!!僕は辛くて食べれなかったです。2時間遅れで体力テストを行っていた、G~J中隊が戻ってきました。皆ボロボロで泣いている奴、怪我している奴と、戦争にでも行って帰ってきたかの様な格好をsておりました。まだ、皆小学6年生ですよ!ここは地獄かと思いました。何故、そんな格好になるのか僕は翌日分かる事になりました。(二日目は第7話で詳しく・・・)ここで先ほど言った事件なんですが、夜8時ぐらいから自由時間なのですがその時に日本人が珍しいのか、皆が僕に寄ってきて、韓国語で何か話しているのです。通訳の母も部外者立ち入り禁止なので、いません。人生初、どのように対応していいのか全く分かりませんでした。体もクタクタなのにここで腕に自信を持っている、キマニ君(あだ名はゴリラなのでゴリラで行きます)ゴリラが僕に喧嘩を売ってきました。言葉は分かりませんが、殺意を感じたので僕も飛び掛って行きました。そのとたん、中隊同士の喧嘩になりました。なんと、よそ者僕を今日一日しか過ごしていないF中隊の皆が止めに入り、僕の見方になってくれたのです。ゴリラの中隊はE中隊!40人近くが喧嘩になると、先輩達、コ-チ、監督が来て、止めに入るのかと思いきや、人間リングを作り出したのです。人間が正方形型に列を作り、その中で僕と、ゴリラのタイマンです。僕はこの状況で半泣きになっていました。でもゴリラは思っていたより強く無く、僕がこかして馬乗りなり死ぬ気で殴りまくると、泣いてしまいました。そこで、監督のストップが入り、僕の腕を掴み勝者日本人みたいに勝利コ-ルをするのです。そこで僕のいたF中隊は皆喜び拍手!僕はなんお拍手やねんと心の中で思いつつ、興奮状態になっていました。その後、人間リングは解散!後で、E中隊の奴に返り討ちにあいましたがゴリラとは何故か仲良くなりました。でも、F中隊の皆が僕を仲間として、認めてくれたのが今思えば本当にうれしい事です。ここでF中隊皆は僕以外試験に落ちますがその中でもリ-ダ-シップを取っていたヒョンチョリ君は第一中学に合格になり、よきライバルとして練習試合等を行うようになるとは当時、考えもしませんでした。

以上 第6話 おわり 次回入団テスト2日目

最近、親友の結婚式が近いのでバタバタしており、更新が遅れました。
読者の方申し訳ありません。
前回のあらすじ省略します。
小学6年生の2学期になると、私立中学に受検する子や、普通に決まっている中学に入学する人で皆、中学を意識するようになっていきました。学校で教えてくれない事を学べる韓国に僕は興味を惹かれてる部分もありましたし、メガネの事も気になり始めていた。 ショッキングな夏休みでもありましたが、世界は広いな!ガキながら興味を持った自分がいたような気がする。母に韓国にサッカ-留学したいとの自分の意志を伝え、冬休みにもう一度韓国に行き、済洲島の中学を調べていきました。済洲島でサッカ-で有名な五賢中学校に入団テストを受ける事になりました。
中学で何故、入団テスト?と疑問抱く方がいると思うので少し説明に入りたい。
当時の韓国は僕の世代がちょうどベ-ビ-ブ-ム世代になります。
済洲島内で確実に200人が中学浪人になるのです。それと当時、韓国の義務教育は小学校までとなっております。中学からは学費がかかるのです。勿論、私立中学のみしか済洲島ではないので大変!!!金かかるね!
五賢中学も仕組を説明すると大きく分けて3科に分かれえております。
1.普通科
2.スポ-ツ科
3.特殊訓練科(未だに不明な科です。)
普通科勿論受検入試ですし、スポ-ツ科は入団テストがあります。特殊訓練科はよくわかりませんが、軍隊の特殊部隊に入隊する権利を頂ける科と聞いております、韓国の男は兵役が3年強制でありますが、除隊後、職業軍人になる人の為に色んな教育を行う学科です。と以上 3科があるわけです。入団テストは2泊3日で行われました。入団テストとの話題は第6話でしたいと思います。概要を次回に向けて簡単に話します。
入団テストを受ける人数は本土からの希望者も集め記憶が確かだと215名だったと思います。入団合格数は150名約半分近い人数が落とされる難関でした。 以上
次回、6話 入団テストきたして下さいな!!!!

5話書きおえたのに公開出来ずにきえた!!!

バリ凹むわ!!きょうは辞めや!読者の人ごめんなさい。

今回も前回のあらすじはなし!


夏休みも終わる頃、母と日本に戻る飛行機の中で何故日本人が嫌われているのかを聞いた!ここでシッョクと言うか、衝撃が走ったのを今覚えている。ここでハッキリしておきたいが僕は政治評論家でもないし、母から教えてもらった歴史も間違えがあるかもしれない点です。この点に関してのクレ-ム、質問は一切受け付けませんのでご了承ください

ここで本題に戻る。大阪に帰るのはうれしかったが空港にの中に入るとメガネの事が気になっているのも事実だった!飛行機に中で席に就くと淡々とはなしてもらった。まず、韓国といゆ国は50年間自分の国が無くなり、日本の支配下になったのは有名(?)な話だ。そこは戦争で負けた国と勝った国の違いでもあると思う。そこまでは子供ながらそう感じたのだ!

支配下の中、やはり人間てものはやさしい人間もいながら、悪い人間もいるように韓国人を奴隷のように扱う日本人の話を聞いた。爺ちゃんの家の隣に住むムンさん一家の話をしょう。

ムンさん家族は7人家族で漁師一家だ!済州島は支配時そんなに拘束を受けていないが、日本人警察が出来た時に小学校も国民学校と名前が変更になり、韓国語の使用が一切禁止になったと言う。いつも通り田舎なのでのんびり生活をしていると、いきなり日本人の警官があらわれ、腰には日本刀さし、村人を集め集会を開き、天皇●●万歳と言う言葉を教え込まれ、明日より一切の韓国語を禁止し、名前も日本名で名乗る事になった。ムンさんの長男(名前は忘れた)が理解が出来ず、警官に歯向かうと、拘束されて、公開処刑をされたと聞いた。勿論、母は生まれていないので見てない。ここで、戦争に負けたと実感し始めた村人達は自分の家族を守る為、陸地(本土)方に逃げた人や、船を出し、南の島に逃亡をはかった、家族もいたようだ!僕のお爺ちゃんを中心に、済州島で地域に別れ、朝鮮青年団が出来(当時はまだ、大韓民国ではない)、抵抗して捕まり、公開処刑、ひどい時には一家虐殺もあったと聞いている。僕のお爺ちゃんは運がよく、日本人の漁船の船長に拾われて、その方がとても優しい方で日本の九州と済州島を往復して魚漁を行う所に掃除係りとして、雇われた、正確には買われた。給料が出るわけでも無く、命の保障もないし、雑用を行えば3食にありつける状況だとの事だ!でも、その当時にしては運が良い方だとお爺ちゃん本人から聞いた事がある。ただで日本にも行けるし、ご飯も食べれるし。それで僕のお爺ちゃんは日本語が達者だ!日本の国を見れて、日本が今の韓国よりも良い生活をしているのを目の当たりにし、日本に行けば良い生活が出来ると勝手に思い込んだようだ!(この考えが後に母にふりかざるとは考えもしなかった)話はムンさんに戻ります

長男が死亡して、長女、次男が反逆者のレッテルを貼られて、長女は当時の交番で拷問を受けて帰って来ると、廃人同然で妊娠6,7カ月目でお腹が大きくなって帰ってきたそうだ!僕のお爺ちゃんの兄貴が廃人になった長女看病している間に、少し目を離した間に首を吊って自殺したと聞いた。次男は行方不明で消息をたったままだ!(この次男は後々出てきます。)ムンさん一家はこれで息子を無くし、次女、三女のみが残り、ムンさん夫婦は日本人の警察官に夜、襲い掛かり、死亡したと聞いている。そこで、僕のお爺ちゃん家族が残った次女、三女、を引き取り暮らした。後々、僕の爺ちゃんの家の隣で三女のムンお婆ちゃんが結婚して、暮らすようになり、僕と出会うわけだ!!!次男の話に戻りますが消息不明から何年かして、済州島に戻ってきた、しかも日本人の軍隊の服を着たままで、片腕を無くしボロボロ姿だったと聞いた。当時は占領されて、何十年と月日が立ち、伊藤ヒロフミ(?)殺害事件の時期だと聞いている。満州まで占領していた日本軍はロシアと戦争になり、その戦争に次男が日本軍として参加していたのだ。しかも、突撃命令がでると、後ろから銃弾を撃たれ、前進あるのみ、前にはロシア軍の機関銃が待っていて、戻ることも出来なかったと聞いている。そんな戦争で命を落とされた、韓国の人は(特に青年)多いと聞いている。次男からしてみればだが、自分の兄貴を殺した日本軍服を着て、初めて見る外人と殺し合いをしないと行けないのがたまらなく、理解出来ないと僕は思う。よく、戻って着たと僕は話を聞いて感心したが、直に自殺をされたらしい。残ったのは日本の軍服だけだ!ムンさんの家で僕は中学の時に見せて頂いた事がある。まだ、生生しく、血の後が残っていたのを記憶している。ムンさん一家でもこんなに酷かったのだ、韓国全土でどれだけのの事が有ったのかは僕には想像がつかない。僕の世代は戦争なんて、映画の中での話だし、僕の先祖がそんなにエグイ事はしていないと、当時の僕は信じていた。それで僕が日本人を嫌われるのが少しは理解できたと思う。でもそれが戦争だとも少しは思う。一番僕が韓国の方、中国の方に申し訳がないと思うのはその歴史の事実を僕たちは詳しく知らないと言う事実だ。日本の学校でも日本はアメリカに負けて、原爆まで落とされて。。。。。日本がやらてた事しか教えてくれない学校に僕は日本人として、本当に恥ずかしい限りである。韓国を50年間支配したと知っている若者は、いないに等しいだろう。僕はムンさん一家も戦争の被害者で気の毒だとは感じている、でも僕も日本人だから、日本の見方になる。そのカットウが当時の僕には凄く人生そのものを考えさせてくれた。その事実を僕は日本人だからこそ一人でも知らないと行けないと考えるし、次の世代、僕の世代がグロ-バル化の中どう理解して、仲良くとまでは言わないが手を取り合って差別が無い近隣どおし、歩んで行きたいと感じた。この思いは今も一緒だ!!!!!!そこで僕は中学生になると韓国人を理解しようと思い留学を決意する。ちなみに当時韓国のほうがサッカ-も強いので留学は僕の中で決まっていた。


第4話 終わり

今回も前回のあらすじを省略します。


あれは6年生の夏休みでした。長期に渡り韓国の方に母の里帰りを兼ねて旅行に行きました。韓国の最南端 済州島が母の故郷になります。5年ぶりに僕も一緒に里帰りしたので親戚一同が出迎えてくれたのを覚えている。当時、済州島は1990年代、ソウルでオリンピックが終わり、経済成長のまっさなかでしたが、済州島はやはり当時でも田舎の田舎で母の実家は海のまん前でした。台風でも来ると、波が防波堤(ただ石を積み上げた物)超え庭まで届く距離でした。トイレも水洗式ではなかったと記憶している。言葉は分からないが礼儀が正しかったのが凄い印象的でした。おじいちゃんの前では皆が正座をして、話を聞いていたのが印象的でした。勿論僕は正座なんかしてませんでしたけど・・・。

何日か過ごす内に道にも慣れてきて、サッカ-ボ-ルを買ってもらい一人で壁当てをして、時間を過ごしていた。近所人も日本人がボ-ルを蹴っているとゆうだけで、特にお年よりと子供がわざわざ見に来て、ブツブツ言って帰って行くような狭い所でした。一週間が過ぎる頃、無性に日本が恋しくてたまらなく、夜布団でよく泣いていた自分が面白いです。ある朝、4時ぐらいに起きて、一人で海を眺めていたら、新聞配達をしている子供がいました。背丈は僕より大きく、メガネかけてタオルまいた、まだ小学生くらいの子供です。新聞を走りながら配っていました。それが後々大親友になるメガネとの出会いです。向こうは僕が日本から来ている人だと知っているようで、目が合うなり、ニッコリ笑って行きました。僕は「お前誰やねん」と日本語で突っ込んでバリバリ威嚇をしていたのを覚えております。その日の夕方、勿論、公園なんて道が分からないので行けるはずもなく、原っぱみたいな所で一人ボ-ルを蹴っていると、メガネが来て、ジェスチャ-で一緒に遊ぼうとゆう素振をしてきたのです。言葉は分かりませんでしたが、なぜかそのジェスチャ-が簡単に理解でき、二人でボ-ルを蹴り合いしていたのがたまらなく面白かったし、今思うと幸せでした。二人の会話は無く身振り、手振りで自然に仲良くなり、メガネはサッカ-はそんなに上手ではないので、少し日本人として、鼻が高くなっていたのも事実です。ガキの頃は一人友達が出来ると、友達の友達ですぐ、仲良くなれるのは日本で経験済なのだが、今回ばかりはそうもいかなく、当時はまだ、ファッキンジャップの時代なので、日本人なんかと遊べるか!と考える子供、大人達も多数いた影響で、結局、メガネ一人とずっと、虫取り、魚釣り、教えてくれる代わりに僕はサッカ-と日本語を教えていた。だが帰る数日前に物凄い事件が勃発と言うか、発生と申しますか(どっちも一緒ですかね?)いつも原っぱに行くとメガネが地元の先輩達にボコボコにされていました。僕も何故かノ-と叫びながら止めに入ると、皆が僕を見て、日本人と言い中指を立てるのです。しかも日本人は日本語でした!僕はムカツクより、韓国人が日本語を喋ったのが驚きでした。直に僕も中指を立替しましたが、そこでボス格の男の子に(チフン君凄くサッカ-がうまい3つ上の頼れる兄貴分)ボコボコにされ、泣いてしまいました。僕も腕には自身がありましたが、手も足も出ず、完敗でした。結局、顔に一発打ち込んだだけで、僕はこかされ、殴られ、首踏まれて、背中に飛び蹴りの大サ-ビスを受けました。一生忘れないでしょう!何でここまで嫌われないといけないのかが当時の僕には理解出来ず。メガネと泣きながら一緒に海で血を洗い、汚れた服も洗い、言葉は通じないけど、何かが通じた思いでした。少しの友情がガキながら芽生えたと感じておrまsた。勿論、この一件は母の耳に入り、なぜ、日本人が嫌われているかを教えてくれました。 第3話 終わり

次回、学校では教えてく無かった歴史! こうご期待!

前回のあらすじは面倒なので省略します。


サッカ-少年となった、自分は毎日練習が楽しくてたまらなかった事を覚えている。ポジションあゴ-ルキ-パ-で当時の小学レベルではたいした練習はしていないが小学レベルでは点を決める人とゴ-ルを守るキ-パ-目だっていたのでなぜかキ-パ-を選択していたのだ!5年生になるとレギュラ-チ-ムで練習をして試合も憧れの背番号1番(自己満足だが)試合にでていた。チ-ム的には今考えると弱小チ-ムでした。学校生活にも友達あ増えて楽しく過ごしていたのだが、初恋のム-ミンとは進展が無いまま時が過ぎていった。6年生になるとあれは忘れもしない5月頃、体育の時間にサッカ-したのだが、当時、バスケット部だった史郎君がたまたまキ-パ-をして、ファインセ-ブの連発だった。バスケ部だったので身長も僕より大分大きいのとマグレが重なったと思う。何を思ったのか翌週にはバスケ部を辞めて、サッカ-部に入ってきたのだ!史郎を放課後呼び出して、少し脅かしたら、先生にチクリを入れて僕は一週間練習参加を禁止にされたのを今、思いだした。。。。あれは非常に辛い経験でした。いきなりサッカ-が無くなると何をしていいのか分からなくなり、悪循環な毎日を過ごしていた。細かく説明すると、中学生と一緒に万引き(店名:T.Rさん本当にごめんなさい、今はちゃんとお金払って買っております。)あと、違う学校奴と組み2区間離れた場所まで行き、ビックリマン狩をしていたのが今でも思い出に残っております。容赦なくビックリマンファイルを没収していました、たまに相手の兄貴が出てきて、返り討ちにあったのも笑いが出ます。それでもやはりサッカ-の方が面白くてたまらなかったです。

一週間後練習に参加すると、史郎の奴はメキメキと腕を上げており、体格の差が大きいので、ハイボ-ルの処理が大変にうまいなぁ~と感じていたのが記憶にあります。こうして思わぬライバル出現に慌てた僕が懐かしい様な思いで記載しております。

試合にも前半は僕で、後半から史郎と半分ずつ参加する様になり、より練習にも気合が入りました。史郎は6年生の2学期には辞めて帰宅部になっていました。 第2話  おわり


次回予告:初の韓国行き!!!!

本日、2006年度1月20日より、悪魔でも自己満足な世界が始まります。別に作家志望でも何でもありません。ブログも初挑戦です。でも、ぼくが経験した事を記録に残す事は中々面白そうと考え、パソコント向き合います。いつまで続くかは分かりませんが、暇な方、興味を持った方、質問のある方、お待ちしております。


さて、本題の物語に入ります。

登場人物は実名かもしれまんせん。あだ名の場合が多いですが・・・・

主人公明記名  : 僕   1980年生まれ  O型  男 韓国人の母と日本人父の間に生まれる。

韓国側 親友明記名 :  メガネ 1978年  A型 男  気さくで喧嘩の強いのに優しい男の子。

その他は登場する度に紹介します。めんどくさくなりました・・・・・

         

                         第一話  :プロロ-グ

僕は平凡な大阪で生活する家庭に生まれたと思う。小学校で少し違うと言えば3歳の時に親が離婚をして、母親に引き取られ夜は自由に遊びにいける事と日本語では無い単語を少し知っていたぐらいだ!勿論、その単語は英語では無いのは子供ながら分かっていた。

母は僕を育てる為に水商売をしていた為、学校が終われば真っ直ぐに家に帰り、人より少し早い夕飯を食べ、母を見送ると、自由に遊びに行けた! ガキが夜遊ぶとするとやはり悪いことをするのが僕のセオリ-だと思う、そのセオリ-通り中学生とつるみ、カツアゲ、ゲンツキバイクを盗み遊ぶ毎日・・・・・・、ただ、タバコだけは好きになれなかった。何故だかは未だにわかりません。でも小学校5年生になると当時、中学生だった連中も高校に進学し中には働き出した人もいて、集まりが悪くなり自然消滅状態・・・。気がつけば同じ学年の友達も居なく、クラスでは浮いた存在になり、一人の時間が多かったのを覚えている。そこで一人の女の子に初恋とゆうか興味を持つ事になる、(明記名:ム-ミンにする、理由は聞くな!)

ある朝、早く起きたので学校へ行くとム-ミンが窓からサッカ-の練習をしているのを見ていたのでサッカ-好きなん?と聞いたら、半分脅えた顔でうんと答えが返ってきた。あの顔は子供ながらシッックでした。僕はこれだと思いサッカ-部に入部。練習をする事になった。初めはサッカ-より、同じ小学生と遊べるのが楽しくてたまらなかった事を覚えています。5年生の終わり頃にはレギュラ-を取り、次第に友達も増えてきた。サッカ-が好きで好きで好きで、、、、朝7時から練習だったが6時に来て一人で黙々と練習をしていた、おかげで夜遊びもなくなり毎日が楽しくなっているのが実感できたのが分かった。


そこから韓国の道が始まるのです。。。。。。。