ヤマトタケの「ゑみし」討伐の軌跡を巡る 一日ツアーやるよ!(2) | ひなさんのブログ

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では少し、日本人のルーツに関してみていきます。

 

☆日本の源流の民とは

 

世界の民の元は「ほかみひため」の八元神(やもと神)からです。

 

そのうち、日本に関わった皇子は「ゑ」のクニサツチと、「と」のクニサツチでした。

 

 

最もはじめに治められた兄皇子(ゑみこ)「ゑ」のクニサツチは、父が還られた北極星に最も近い、ユーラシア大陸の北方に国を成した可能性があります。

 

ちなみに純潔の和人(日本人)は「と」のクニサツチの末裔です。

 

 

「ゑ」はお兄さん、「と」は弟です。ここから暦の元「干支」(ゑと)ができました。

 

 

☆蝦夷の「ゑ」の民とは

 

『ほつまつたゑ』の神代に「ゑぞ」と載る場所は、当時は日本(やまと)の外であった「北海道」であり、そこに住む人々とは、アムール川下流やカムチャッカ半島系オホーツク人の流れの民たちです。

 

ほかみひため」のお一人「ゑ」(兄)のクニサツチがユーラシア大陸から北海道に入りました。

 

マンモスハンターともいわれ、体格や色、体毛も和人とは異なる一族です。毛むくじゃらで力持ち、仲間で協力して獲物を取るのが得意。。。くま

 

「ゑぞ」とはアイヌの人たちの住んでいた土地を意味していたのです。

 

和人(「と」(弟)のクニサツチ」)とは風貌が違いました。

 

神武天皇の時代より少し前から、本州では、力を蓄えた大和朝廷(奈良、京都あたりが中心)と、弱小化した日高見国(東北地方)や秀真国(関東地方)との交流が断絶します。

 

つまり国は三つに分断されてしまいました。

 

こんな時代が長く続くはずがありません。

 

「いつか・・・統一しなければ。このままでは国は分断する。」

 

誰もがそう思ったでしょう。

 

そしてついに、神武が「ヤマト討ち」を始めます。

この時の「ヤマト」という意味は、「異国の思想に片寄る一族」という意味です。

 

 

さて、天照大御神の時代以降(縄文時代後期あたり)、北海道に渡った「ゑ」のクニサツチたちは、他種と混交して独自のアイヌ文化を形成していきます。

この部族はやがて東北地方に進出するのです。

こうして出来上がったのが「ゑ」のクニサツチ系統が変化した異民族なのです。

 

神代の時代はまだ、「ゑ」「と」の教えが日本に残されていました。

でも、異国の者たちが日本へ帰化していくと、次第に昔の教えは古臭く感じるものです。

 

弥生時代のニニキネの時代から次第にそんな感じになっていったかな。

 

 

さて、「ゑ」の一族たちは異民族の思想を吸収しながら独自の文化を確立して行ったと同時くらいに、「粛慎:みしはせ」という民族が日本に入って来ました。

これがまた曲者なんです~ビックリマークビックリマーク

 

↓この後「粛慎」について説明しています。

 

☆蝦夷(ゑみし)の「みし」の民とは

粛慎(しゅくしん)という民族は別名「みしはせ」といいます。

「ゑみし」の「みし」になります。

 

この民族は満州(シナ国の東北地方や外満州)に住んでいた狩猟民族です。また北朝鮮とも国境が隣接していたので、現在の朝鮮系の人たちの気質も併せ持っています。

 

↓黄色の円の国

 

図で確認すると、粛慎はかなり広い範囲に居たことが分かります。

現在の北朝鮮にも相当します。

 

粛慎(みしはせ)という民衆の特徴をウキペディアから抜粋しました。

座り方は両足を伸ばして座る。ケモノを食べる時には、足を持って肉を掴んで食べる。凍った肉を得れば、その上に座って暖める。

 

婦人は貞淑であるが、女は欲しいままに振舞う。

人々は壮者(意気盛んで働き盛りの人)を貴び、老人を賤しむ。

性格は荒々しく、憂い哀しまないことをもって互いに美しい事とした。

父母が死んでも男子は泣き叫んだりしない。そういう者は壮者とは言わない。

もしも盗みを働いた者は、その多少にかかわらず、皆これを殺すので、あたりにモノを放り出しても盗む者はいない。

彼らの武器は石であるが、この国の東北では石を産出する山があり、その石の鋭利さは鉄をも凌ぐほど。

 

わあ・・・ガーン

かなり和人とはかけ離れた民族性を持っていたようです。

 

 

 

こうして※人代(ひとのよ)の景行(けいこう)天皇の御代になると、京より東にはびこった朝廷に反抗する「まつろわぬ民」を一括して「蝦夷:ゑみし」と名付けたのでしょう。

 

朝廷にまつろわぬ者として、「蝦夷(ゑみし)討伐」となったのです。

 

特に東北地方や関東地方には、進出した「ゑ」(オホーツク系)や、「みし(粛慎)」の混交集団が居たからです。

 

※人代:神武天皇以降の御代をこう呼ぶ。古墳時代からあたり。

 

 

 

時代が更に下ると、粛慎(みしはせ)の祖国「満州」は島国である日本を憎むことで、自分たちの不運な運命の矛先にして行きました。

今でもそうです。

 

これは全くの誤解ですけど。

 

 

弥生時代、日本に渡って来た帰化人を、和人たち(「と」のクニサツチ)は快く受け入れてきました。

帰化人の中には日本の古き良き風習に変えて日本人になり切った者もいました。

 

しかし粛慎の殆どが、縄文から守って来た「ゑ」のクニサツチの人たちと合体して思想を塗り替えてしまいました。

 

「ゑ」の人達は食文化がケモノの肉を主食としていたのですが、満州の東北に住んでいた粛慎の人たちも同じ風習でしたから、すぐに打ち解けたのでしょうね。

 

今北海道にいるアイヌの人たちは「ゑ」のクニサツチの子孫です。

でももうその数は激減しています。

 

今の北海道の人たちは、縄文のアイヌの純粋な血統「ゑ」の人たちの子孫との混交なのです。

 

 

「と」のクニサツチの子孫も、粛慎「ゑ」の混交した中で混ざっていきました。

 

だから最近、ここは日本なのになぜか純粋なヤマト精神が薄れているのを感じます。明らかに「華夷(かい)思想」が邪魔をしていますムキー

 

 

からくも神武天皇の時代やヤマトタケの時代にこれを阻止してきましたが、飛鳥時代になると「華夷思想」が急激に強まり、彼らの思想「仏教」を取り入れた国策にしました。

 

特に蘇我氏ですね。

 

そして彼らのもたらした漢字が一番素晴らしい文字であり、殆どの技術や文明は、シナの国(「か」の国)から始まったことにされてしまいました。

 

この中に「文字」があります。文字の初めはシナ国から来た。これが甲骨文字である、というおかしな考えが今でもまかり通っています。

 

 

さて、ここで絶対に間違えてはいけないことがあります。

 

景行朝時代まで、東北地方と関東地方には、混交集団とは縁のない、純粋な和人(日隅国や日高見国の氏族+秀真国の一族)も多く居たことです。

 

 

日隅国:青森県あたり

日高見国:東北の宮城県周辺

秀真国:関東から富士山あたりまで

 

 

この純粋な和人たちをも含めてしまい、総じて「蝦夷」としているのが『記紀』などの神話です。

(これも華夷思想のひとつ)

 

 

 

ヤマトタケの時代の「秀真国(ほつま)討ち」は、「古代から続いていた純粋な和人たちの守ってきたヤマトの精神」にまつろわぬ者を討つ意味なのです。

 

「秀真国討ち」と書かれていると、秀真の国は全員がヤマト朝廷に歯向かう賊で、秀真国は悪い人たちの国なんだね。

 

と思ってしまいますよね。

 

 

ヤマトタケの活躍は、神代の時代の叡智を消滅させようとした渡来系の思想や文化のまつろわぬ者たちを討ち倒した美談なのです。

 

 

もちろん、神武もヤマトタケも、初めからまつろわぬ者たちを殺すつもりなどなく、根気よく「ヤマトの精神性」を説かれました。

 

しかし長年にわたり、朝廷と断絶してきた思想や生き方はそう簡単に変えられるはずもなく、ついに物別れになり、相手から一方的に切りかかってきたり、火をつけて焼き殺されそうになったりしました。

 

こうしてヤマトタケは話合いの余地など全くない者だけを討伐していったのです。

 

(今回は神武天皇の時代の話ではないので、ヤマトタケの話だけです。)

 

 

ヤマトタケは亡くなる前に、自分の行って来た血なまぐさい出来事が二度とこの国で起きないようにと、父君である景行天皇にあることを頼んでいます。

 

それが父「景行天皇」に申し上げた「ヤマトタケ」の最後の言葉、『ほつまつたゑ』の記を書き残して欲しいとの御遺志でした。

 

壮絶な戦いをしてきたヤマトタケには、「ヤマトなる精神」とは何なのか、これを失えば国は必ず滅びるのだ、という強い危機感があったのです。

 

九州を平定した後、すぐに秀真国に起こった歯向かう者たちを討伐し、そしてすぐに日高見国へ。

 

へとへとになりながら、秀真国に立ち寄り、ようやく正妻が待つ尾張の国へ帰りました。

 

しかし、、、

 

伊吹山で妖気を受け、それが元で亡くなりました。

(この原因もまたすごい理由があるんですがまたの機会に。。。)

 

 

景行天皇は次期天皇候補の「ヤマトタケ」という息子一人に、この国の未来を託して大きな使命を与えてしまった。

 

自分の責任であると大いに嘆き悔み、ヤマトタケ亡き後、皇子の功績のあった土地や、敵方の犠牲が多く出た場所に弔いの社を建てておられます。

 

そして約束通り、『ほつまつたゑ』の後半の叙事詩を書くように「大田田根子命」(ヲヲタタネコ)に命じました。

 

今回はここまでとしますね。ドキドキ

 

今後、ヤマトタケを追う事によって、真のヤマトの精神(あめなるみち)の価値が分かることでしょう。

 

そして、ヤマトタケの名を借りて、討伐された側の蝦夷の子孫たちが、自分たちの「華夷(かい)思想」の正当性として残したところが如何に多いことか!改めて驚きました。

 

その場所が神社や聖地、磐座信仰などの場所になっていることが多いのです。

 

特に、ヤマトタケは「秀真国(ほつま)討ち」をしていることが『ほつまつたゑ』三十九アヤに出ていますから、関東から富士山周辺の広域に当たっては、蝦夷の仕掛けの匂いがします。

 

そして今現在の調べでは、どうも焼津市にある「焼津神社」と、静岡市清水区有度にある「草薙神社」は、蝦夷の功績にしていることがはっきりしてきました。

 

(清水区山切にあるもう一つの「久佐奈岐神社」(くさなぎじんじゃ)は正しい理由で建てられています。)

 

 

だからこの誰にでも知られている二つの神社の周辺では事故が相次いでいるのかもしれません。

 

 

あの8月13日の雷雨が語ってくれて分かったことがありました。

 

それがこれ↓

 

みなさんは驚くと思いますが、ヤマトタケが焼き払った土地は「焼津」周辺ではないんですよ~えーん

 

鏑先生も「焼津神社」はヤマトタケが草薙剣で火を薙ぎ払った場所だと想定されているようですが、私はこれにはNO!を言いたいパー

 

この神社に縁のある昔の友人の周辺で起きている事柄から見ても、この神社はおかしい!?

 

また、清水区の有度にある草薙神社の近くには「血流川」(ちながれがわ)と名付けられた不気味な川があります。

この川はヤマトタケに殺された土地の者たちの放置された死体の身体から流れた血で川が真っ赤に染まったことから名づけられてしまったようです。

 

この川の上流には「首塚稲荷」という、これまた不気味な稲荷社があります。これは切られた者たちの首を埋めた場所です。

 

しかも草薙神社は元はもう少し下にありました。

 

その場所は今の「天皇原公園」というところです。

しかも天皇原公園で県警のヘリコプターが墜落しています。

 

2005年5月3日です。

 

この公園の近くにあるアパートの軒下をかすめました。

このアパートは友人の御主人の関係のモノでした。

 

焼津神社周辺にもおかしな現象が続いているそうです。

 

これは何を意味しているのか?

 

ヤマトタケが正しく祀られていない証拠ではないかと思うのです。

 

本当にヤマトタケが賊に騙され、鹿を追ううちに野原に迷い込み、草に火を付けられた場所は、私の推理によれば

 

「裾野」のススキの原

 

です。

 

この火を消せたのは、二つの霊力でした。

 

一つには、瓊瓊杵尊から続く「火水土の祓い」(ひみつのはらひ)の呪文が入った錦の袋(赤と白の布袋)の力です。

 

二つ目は、ソサノオがヤマタノヲロチ(ハヤコのケモノ化した姿をヲロチと表現した)を退治した時、ハヤコから渡された「天の叢雲剣」(あめのむらくもつるぎ)です。

 

この二つとも、ヤマト姫からヤマトタケが渡された宝でした。

 

ヤマト姫は垂仁天皇(景行天皇の父)の娘。ですからヤマトタケにとって叔母さんです。

 

そしてヤマト姫は伊勢神宮を現在の地に持って行った凄い巫女さんです。

 

こうしてヤマトタケは日本の天皇制を守ってくれたのです。

 

もし彼が賊に倒されていたら、今ごろわが国は天皇制はなく、西洋文明や華夷文明に浸っている、自分たちだけが良ければいい国になっていたことでしょう。

 

 

ヤマトタケが犠牲になり、成し遂げられたヤマト朝廷はその後は今の「日本国」となりました。

 

 

父である景行天皇は、犠牲にさせてしまった我が息子のため、また敵側の御魂鎮めのために全国を回り、ヤマトタケと縁のあった場所に社を建てています。

 

 

その場所に今度、希望するみなさんと一緒にお参りに行こうと思うのですがいかがでしょう?

 

あの13日の雷雨が語ってくれて分かったことがあったから今後は「ヤマトタケ」関係で動くことにしたんです。

 

 

今後は「ヤマトタケ」の功績を讃え、犠牲になった敵と味方の者の御魂上げを祈りに行く事にしました。

 

こうすれば日本中を討伐していったヤマトタケの意志を嗣ぐことができるのでは?

 

 

そうです、「ヤマトタケ」と名を変えた「愛鷹山文明の解明の第二弾」を決行となります!

 

 

愛鷹山周辺は天皇の右大臣をしていた「三島大社」の一族の活躍があったはずなのですが、その功績は一切消されてしまってます。なんと伊豆諸島からやって来た海の神にされてしまっています。

 

 

三島大社の主祭神である「積羽八重事代主」(ツミハヤヱコトシロヌシ)は、相当多くの功績を残されている方で、素戔嗚尊の子孫であり、子孫には、景行天皇の勅命で『ほつまつたゑ』の後半を記した「大田田根子命」がいます。

 

この「積羽八重事代主」(ツミハヤヱコトシロヌシ)さんはとてつもない凄い神様なんですっドキドキ

 

愛鷹山周辺には、大山祇の一族(香久の一族)が皇統を守り、そして剣の臣である「積羽八重事代主」が天皇を武で守り、更には、ヤマトタケが秀真を乗っ取ろうとした蝦夷に味方する賊を討伐して守ってくれた、日本の中心の土地。

 

そこにそびえ立つ「富士山」が・・・

四階建ての山・・・

それだけかけて、あのきれいな日本一の山ができたのです。

 

瓊瓊杵尊の時代より数代後、蝦夷や帰化人との激闘があった土地だと思います。

 

今後はヤマトタケの功績を追いながら、愛鷹山や富士山周辺の伝説との照合をして行き、その変えられたおかしな場所を真の場所にしていくための真の供養をしていくことになるでしょうグー

 

 

今回も長いブログにお付き合い下さり感謝申し上げます。

 

ヤマトタケの「ゑみし」討伐の軌跡を巡る 一日ツアー

 

2018年 9月24日(月)祭日

 

午前9:00 leaf出発

午後16:00頃 現地解散予定

 

4320円(税込)

 

現地でお昼を食べます。

 

お弁当持参。

 

今回は現地でヤマトタケに関する講義をする予定です。

 

車で静岡から出発しますが、東部の方は富士駅あたりで合流して行こうと思います。

 

一緒にヤマトタケの功績を追いたい方はぜひお待ちしておりますドキドキ

今までの祈りの歴史感が変わります。

 

その他、持ち物はお申込み後にお伝えします。

 

メールかお電話で申し込みしてください。

 

aqulus@aqulus.jp

054-238-0277