空海の真言密教に仕掛けた秘密(第一回目) | ひなさんのブログ

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こんにちは。

 

今頃、高野山のツアーに出かけている最中かもしれません。

 

高野山と空海・・・

 

今回は「弘法大師・空海」という人物について書いていきます。

 

「弘法大師・空海」という人物は、世間では非常に超人で扱われ、権力者に取り入り、仏教の土台の上に成り立つ真言密教を見事に日本で花開かせた僧侶。

 

そう思われています。

 

でも、真言密教の奥を知れば知るほど、空海さんがこの先の未来の人類の為に何を見てきたのか、が理解できるようになりました。

といっても私の感覚ですが、その根拠は多々あります。

 

そこで、今回は、私流に空海さんの弘めた真言密教に仕掛けた秘密について書いてみます。

 

その前に、空海という名のそのものを表す書き方を紹介します。

高野山大学の前教授であり、空海さんの秘密を見事に探った「武内孝善(たけうちこうぜん)」氏に師事し、論文を書いていた時、空海さんの正式な名前の書き方を教えて頂いたのです。

 

空海さんそのものを表す名前の書き方。

 

《弘法大師・空海》

 

と表すそうです。この書き方は文章などを正式に書くときの表記だそうです。

 

教授と同じように私も、このようなフランクに書くブログなどの媒体では、親しみを込めて

 

「空海さん」

 

と書きますのでよろしくお願いいたします!!

 

さて、教授は空海さんの出生の地は四国の讃岐ではなく、「近畿地方で生まれた」という奥深い考察をされて論文を書いた方でもあります。

 

また、授業中の中だけで答えてくださった話ですが、空海さんの遺骨の埋葬場所は「奥の院ではない」ということも論拠を述べられました。

 

私の中でその時に芽生えたのですドキドキ

空海さんの秘密と謎解き探求心ハート

 

その後の時代に空海=密教を政治に利用された事実や、形だけの仏教(蘇我氏が入れた仏教)をベースに変えられた密教を知ると、悲しみがこみ上げてきます。

 

当時、武内教授の論は世間からあまりの反響の多さに話題を呼びました。しかし、今までの常識を覆したくない頭の固い大学集団の中で武内教授は定年を持って退職されました。

 

しかし、以前から私の一年延びた修士論文を、退職しないで講師として残るつもりだから最後まで見ますと言って下さっていましたから、私が想像する上ですが、これは辞めさせられた?のかも知れないと思っています。

 

でも武内教授のように、今までの論を論破するような手法を取る教授ほど、これからの世の中に特に必要ではないでしょうか。

とても残念です。

 

当時私は、担当教授が変更になってしまった為、テーマを『宿曜経』に変えなくてはなりませんでした。『宿曜経』は占いにとても役に立ちましたから、これはこれで良かったと思います。

 

しかしあの時の空海さんの秘密を探りたいという思いはず~と持ち続けてきました。

 

そして今回、私が仕掛けたツアーの6回目、ついに最後のツアーで「高野山」の希望者が多く出たので、この地に決めたことが再度空海さんの秘密を探るきっかけになりました!

 

やはりタイミングってありますねあ

 

というわけで、『ほつまつたゑ』の中から、またシルクロードから伝えられた文化から、更に密教伝来という歴史から、なぜ日本に密教を持ってきたのか、日本にしか残らなかった密教という重要性を解いていきたいと思います。

 

調べていく内に、縄文時代から弥生時代にかけて渡来人たちが日本国を形成していく流れが関係していました。

 

その中で、12年くらい前でしょうか・・・

 

「私の謎を解け!」

 

というお告げ?のような夢で出てきた「聖徳太子」風の方からの命令?!

 

が来たのですが、今回空海さんの謎を解く内に、聖徳太子と空海さんの二人の間にある共通点が見えてきたので、その点についても書いていきます。

 

現在は聖徳太子という御名前ではなく、「厩戸皇子」(うまやどのみこ)という方の事です。

 

夢を見た時から何回も奈良や京都、飛鳥にも行きました。

 

夢を見てしまった私は「聖徳太子はいなかった」という論を展開した大山誠一氏の本を読んでいました。

多分大山誠一氏と偶然「飛鳥板蓋宮」(あすかいたぶきのみや)でお会いしています。ここは蘇我入鹿が暗殺された現場です。

 

修学旅行中の中学生たちに説明していらした考古学の研究者らしき方が板蓋宮の説明をしていたのを片耳で聞いていた当時の私。

 

その内容は、私が読んでいた本の内容でと同じ「聖徳太子」という名前は無かったんだという説明をしていたので、説明終了後すぐに声を掛けました。そして名刺を頂きました。

 

その御名前が「大山」だったからです。今思えばもしかしたら??ですが、名刺は今どこか見当たらなくなってしまいましたので・・・

 

そんな過去のエピソードも思い出しながら、厩戸皇子の一族の無念の想いと、空海さんが仕掛けた仕組みを書いてみたい!

 

と思ったわけです。

 

いつもながら、また長文になりそうなので、何回かに分けて書いていきます。

 

《空海さんの血筋》

 

平安時代は、先祖の家訓見たいなものがかなり強くありました。

神童として一族の期待をされたいた空海さんは、官僧という、今でいえば国家公務員のような国付きのお坊さんになるように、子供の頃から猛勉強させられていました。

 

本人も満更でもないようで、勉強が大好きな少年だったようです。

 

しかし、10代の頃の空海さん、ある時『大日経』いう聞いたこともない経典の夢を見ます。

その経典は夢のお告げの通り、奈良県橿原市久米町にある真言宗御室派の寺院「久米寺」の東塔の地下にあったという伝承があります。

 

しかし私は、空海さんが唐へ行く前の空白の7年間がどうしても密教に繋がる経典の学びや、不思議体験に必要な時期だったように思えてなりません。

 

いくら超人空海さんといえども、いきなり知らなかった『大日経』を、入唐してわずか2年足らずで習得してしまうことなど出来るはずがありません。

 

この入唐する前の7年間で、『大日経』のこと、数学のこと、陰陽のこと、方位学、陀羅尼を読んで不思議体験を積み重ねていった経験がこの時期なのだと思います。

 

私はここで『大日経』がなぜ空海の夢のお告げ伝承にもなったのか、『大日経』がなぜそんなに重要なのかを書きたいと思います。

 

『大日経』は2部構成になっている経典です。

 

1:「毘盧遮那(びるしゃな)如来」=「大日如来」が、金剛手(こんごうしゅ)菩薩の質問に対して、人は決断して生まれてきた、ということから、なんどきでも決断したことを自分の意志で選び取るという「一切智智(いっさいちち)」=(仏智)を怠ってはならない。

という教理。

 

2:選び取る時に、どの道を選べばいいのか、人の選択であったり、生き方の選択であったり・・・人は常に迷い、結果が思わしくなければ後悔する。そこで、後悔しないために、どのような道を選べばいいのか、という仏の眼を養う方法と、後悔しない為には直観を磨き、自分の意志を貫く勇気を出す方法、手段。

という実践方法。

 

このような2部構成になっています。

 

実はここからが驚きなんです。

 

『大日経』という夢のお告げを受ける前、空海さんは「虚空蔵菩薩求聞持法」という秘儀を授けられます。

 

授けたお坊さんは「勤操」(ごんそう)という僧。このお坊さんは、空海さんが大学に通っていたころ、外に連れ出して虚空蔵菩薩求聞持法を授けた僧です。

 

この勤操こそ、空海さんの初めの師匠と言ってもいいと思います。

 

そして空海さんはあの奇跡体験をします。

 

それが「明けの明星が口中に入った」奇跡体験です。

これがきっかけで『大日経』の夢を見たのです。

 

空海さんが入唐決意に至った一連の流れの中で、ある事柄が見えて来たのです。

 

それは、勤操という僧の父方の血筋は「秦氏」だということ。

 

『大日経』が発見されたお寺は、厩戸皇子の弟・来目皇子の祈願のために推古天皇が建立したと伝えられる久米寺。

 

厩戸皇子は秦氏のバックアップがあって数々の寺院を建てていきました。

 

更に、空海さんの父方は佐伯氏ですが、佐伯という一族は秦氏と深い縁がありそうなのです。

 

九州の大分県に「佐伯」という市があります。ここは昔「豊(とよ)の国」

と呼ばれていた地域です。

 

なぜ豊かな国と名付けられたのかと言えば、秦氏がもたらした先進技術によるからです。『隋書』倭国伝によれば、この付近は秦王国と記されていて、秦氏の居住地でした。

 

ご存じの通り、秦氏はキリスト教徒でもありました。

現在のキリスト教ではありません。

 

景教という宗派です。景教はネストリウス派の古代キリスト教の一派で、異教として排斥(はいせき)され、ペルシャ帝国から次第に中央アジア、モンゴル、中国に入りました。唐の時代に「景教」と名付けられました。

 

秦氏は秦の始皇帝の末裔だと言われています。当時の秦国では過酷な労働により、秦氏たち家臣たちは始皇帝の横暴さに耐えきれず、ついに国外へ脱出。

こうして日本にもやって来たのです。

その秦氏一族の一派が空海さんの父方の佐伯氏だという説が有力です。

 

 

 あの広島県にある厳島神社の神主の氏も「佐伯」なのです。(中国の景教の研究家として国際的に著名な「佐伯好郎」という方がいます。

彼はクリスチャンですが、生まれは広島県佐伯郡で、生家は厳島神社神主職を務めた佐伯の流れを汲むと言われています。)

 

 佐伯氏が秦氏の氏族だったとしたら、空海さんの父の祖先秦氏は「景教」(けいきょう)の一族だったわけです。

 

また、『大日経』は、善無畏という中国の僧が、一行禅師という禅、律、天台教学、密教、天文学、暦学に長けていた弟子に頼んで、訳した経典です。

 

善無畏は『虚空蔵求聞持法』一巻を翻訳して、当時入唐していた大安寺の道慈に渡して、すぐさま日本に請来されたのです。

 

それが勤操に伝わり空海へ・・・

 

『大日経』も善無畏と一行が翻訳し、それが久米寺へ・・・

 

『虚空蔵求聞持法』と『大日経』の共通点は、宇宙大神「毘盧遮那如来」=「大日如来」を身体に受け入れ、一つになる呪法と教理です。

 

これは仏教とは明らかに異なります。

 

空海さんの立ち上げた真言密教は、仏教的だと言われていますが全く違います。

 

仏教というより「神道」です。

 

それも景教的。

 

私の論で申し訳ありませんが、どうしても今まで習ってきたことを素直に受け入れることが出来なくて・・・

 

今までの習って来た密教の思想は、仏教の土台の上に成り立つことや、仏像に期待を込めていたことです。

 

そのように空海さんの奇跡を追って行けばいくほど、その原点は非常に単純明快だったのではないかと・・・

 

 

唐に行った空海さんを待ち受けていたのは、実際に東方と西方に別れたキリスト教の大元に還り、天と一つになる一神教的な宗教思想日本で花開かせ、残させる為の画策だったかもしれないと思うようになりました。

 

一神教とは三位一体説が元です。

 

父と子と聖霊

 

と訳す所ですね。

 

しかし、三位一体は訳せません。

これは概念であり理論ではないからです。

 

文字で示すことではなく、一人一人の中に宿る三つが一つになっているという感覚なのです。

 

これは「をして」文献の中で同じ言葉を見つければ

 

「た・か・ま」

 

となります。

 

 

どちらにしても原始キリスト教は一神教なのです。

 

神は唯一、宇宙にいる一つの存在。

 

その一つを神道で直せば「天御中主尊」ということになります。

 

ネストリウス派は、イエス・キリストを人間と神の子との二つの性質を持つという教義です。

 

イエス・キリストはその場において、人間イエスになったり神として奇跡を示したりしてきたということです。

 

またイエスを処女で生んだとされている「マリア」は、ネストリウス派では完全に「人間の女」として置いています。

 

その他のキリスト教主流派(カトリック・正教会・プロテスタント等)はマリアの位置づけは人間ではありません。(それぞれの位置づけがあり、ひとまとめにできません)

 

ネストリウス派は「聖母マリア」という言葉は絶対に使いません。

 

というわけで、イエス・キリストと空海は何か同一線上にある同じ御魂のような匂いがすると感じるのは私だけでしょうか。

ように

厩戸皇子にもそれを感じます。

 

イエス・キリストはあまりにもスーパー救世主的に扱われてしまい、なんだか畏れ多い人物のようになってしまっているようい思います。

 

もっともっと身近な存在だと思うのです。

 

さて、第一回目のこのブログでは、

 

《空海さんは原始キリスト教という一神教を密教という名に隠して、未来永劫残るように公にしたのでは?》

 

という仮説を立てた所で終わります。

 

第二回目は、その証拠として今回あげた血筋や師匠との学びの内容(明らかに景教、宇宙理論だった)ことの他に、高野山の中にある証拠物をあげてみたいと思います。

 

続きはツアーから帰ってきてから・・・

 

先ずは行ってきま~す!!