京都通になれる雑学知識100 〔Kyoto 59〕 | 龍虎俊輔の独り言-無心是我師-

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≪ 京都通になれる雑学知識

第 3 章
京都の「通」になる
- KYOTO 59 -
茶聖・千利休と
裏千家、表千家、武者小路千家の
いわれ

吉の茶頭として、
政治にも口を出したとされる千利休。
権勢は高まり、
高まるあまり落とし穴もあったのか。
茶道は脈々と今に受け継がれています。


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侘び茶の大成者・千利休の背信か
それとも・・・

千利休は、
織田信長、豊臣秀吉の茶頭を務めた茶の湯者だ。
侘び茶を創始したことで知られ、
千利休の流の茶の湯に集まった武将は、
細川忠興、石田三成、古田織部らである。

千利休の本名は、「千宗易」という。

1585(天正13)年、
秀吉の関白就任御礼の禁裏茶会において
第106代・正親町天皇より「利休」という居士号を賜って、
以来、
千利休という。

1587(天正15)年10月1日、
秀吉が主催した「北野大茶会」を成功に導き、
利休の名声は、いよいよ高まったという。
この時、利休は65歳であった。

人生の頂点にいたと言っても過言ではない。
この頃、利休は自らの権勢を利用して、
茶器の目利き、
売買に専横的な振る舞いがあったという。
これが秀吉の逆鱗にふれたのか?
これが後世に伝わる
「大徳寺三門事件」である。
1589(天正17)年、
利休が寄進した大徳寺三門の楼上に、
自らの木造を置いたことで、

「勅使高官が通る三門に自らの像を置き、
頭を踏みつけるとは何事だ!」。

激怒した秀吉は、
利休像を一条戻端で礫刑に処したという。


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利休は死して、
「三千家」を残す


利休本人も実家のある大坂・堺に蟄居を命じられた。
この時、
淀川べりに見送りに来た弟子は二人だった。
細川忠興と古田織部である。
利休は涙したに違いない。
二人に頭を垂れたと伝わっています。
再び、
京の屋敷(現:晴明神社周辺)に戻された利休は、
1591(天正19)年2月28日、
自刃した。
享年70

利休の強靭な精神が伝わる「偈」が
残っています。

【 人生七十 力囲希咄 吾這宝剣 祖仏供殺 】
70年の人生、迷いもあったが、
命を断つにあたり、祖仏のあることか!

利休の辞世の句である。


利休の死後、
利休流茶道は、
裏千家、表千家、武者小路千家の、
三千家に受け継がれる。

裏千家の「裏」とは、
利休の孫・千宗旦が家の裏庭に建てた隠居所で、
息子の宗室が
茶道を始めたことに由来しています。

表千家とは・・・
裏千家に対する呼称である。

堀川寺之内から東側、
小川通に裏千家「今日庵」、表千家「不審菴」が
南北に並んでいます。
俗に
「裏」とされる北側に今日庵があり、
南側に不審菴があります。
不審菴の前には、
千利休の遺跡であることを示す石碑が立っています。


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三千家が交代で行う
「利休忌」


三千家のもう1つ、
武者小路千家「官休庵」は、
京都ブライトンホテルの北側、東西に走る武者小路通に面して、
閑寂な佇まいに建物があります。

利休が亡くなって420年あまりが経つ。
利休の命日は2月28日である。

毎年、
1月~12月まで三千家が交代で、
大徳寺聚光院で、
「利休忌」を行っている。

1月28日は表千家、
2月28日は裏千家、
3月28日は武者小路千家と、
順番に行われています。

この「利休忌」とは別に、
三千家の家元でも供養が行われています。


千 利 休
千 利休
とは・・・
戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。
わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、
茶聖とも称せられる。
また、今井宗久・津田宗及と共に
茶湯の天下三宗匠と称せられた人物である。



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