龍翁余話(793)「8月は鎮魂の月」
8月には本欄(『龍翁余話』)でこれまでに何回か『鎮魂の月』を書いた。何回書いても(吼えても)いい、8月は日本にとって特別な月なのだ。8月6日は「広島原爆の日」、8月9日は「長崎原爆の日」、8月15日は「終戦の日」――これらの日を知らない(または何の感慨も持たない)世代が多くなった。それはそれで仕方のないことだ、と若者寄りの発言をする人もいるが、中高年者、特に翁のような(多少は)戦中・終戦直後を知っている世代は、これらの日を忘れることは出来ない。それぞれの時刻、テレビの前で黙祷を捧げる人も多かろう。勿論、翁もその1人である。そして、この時期には戦争関連のドラマやドキュメンタリー番組などが多く放映される。近年のドキュメンタリー番組で、特に気になるのは大東亜戦争(太平洋戦争)の“戦争体験者”が超高齢化し、あるいは、その体験者(証言者)の数がだんだん少なくなっていることだ。実は翁、24年前の1999年の靖国神社御創建130年記念年に戦争ドキュメンタリー映画『私たちは忘れない』(60分)を製作した。その時、元陸軍兵士、元海軍兵士とそれぞれの元航空隊員、及びご遺族の方々約20人の“戦争体験者”を取材(インタビュー)した。当時の映画(映像)を見直すと、どなたも矍鑠(かくしゃく)としておられた。が、聞くところ、その半数以上の方がお亡くなりになっているとのこと。翁、先日(7月末)手元にあるビデオを見ながら、インタビューに応じて下さった方々に改めて感謝し、亡くなられた方々のご冥福をお祈りした・・・
ところで翁、いまだに(と言うか、今もなお)絶対に許せないのが旧ソ連(現ロシア)である。他人の土地(領土)に土足で踏み込む(侵攻する)ことや、国際常識(国際法)をわきまえず、屁理屈をこねて自分たちの行為を正当化する為政者たちの思想回路は昔も今も変わらない――大東亜戦争(太平洋戦争)末期の1945年8月9日、ソ連は(当時まだ有効だった)“日ソ中立条約”を一方的に破棄(無視)して日本に対し宣戦を布告、8月14日に日本が「ポツダム宣言」(イギリス・アメリカ・中華民国の政府首脳の連名で日本に対して発せられた全13ヵ条で構成された宣言)(これは言わば日本に無条件降伏を要求した宣言)を日本政府は受諾し翌15日に、世界に向けて”敗戦“を表明したにも関わらず、ソ連(当時の最高指導者はスターリン)は8月28日から9月5日までの間に、日本固有の領土である北方4島の全てを不法に占領してしまった。当時、北方4島=択捉島(えとろふとう)には3,608人、国後島(くなしりとう)には7,364人、色丹島(しこたんとう)には1,038人、歯舞群島(はぼまいぐんとう)には5,281人、合計1万7,291人の日本人が住んでいた(千島歯舞諸島居住者連盟調べ)。が、1948年(昭和23年)までに全島民がソ連によって強制的に退去させられた。以来、ソ連(現ロシア)は78年間、不法占拠を続けている。長年“北方領土返還”を叫び続けて来た翁、ロシアの為政者に対し“ドロボー猫”と蔑み、忌み嫌っているのである。そのロシアが、78年前のスターリンの暴挙に倣って今度は狂人大統領のプーチンが2022年2月24日、突然、ウクライナに軍事侵攻を開始、世界を唖然(呆然)とさせた。そこには国際法も倫理も(つまり、何の正義も)ない小心者プーチンの妄想による暴挙である。ついでに言うが、狐のプーチン・狸の習近平・豚の金正恩の“21世紀の極悪3人組”の共通点は“妄想にとりつかれた小心者独裁者”であると翁は断言する。
話は変わる――(戦争には関係ないが)1985年(昭和60年)8月12日、日本航空123便が群馬県・御巣鷹山に墜落した。毎年、ご遺族が御巣鷹山の事故現場で犠牲者に合掌する映像をテレビで視て心が痛む。実は翁、母が生存中は毎年春と夏の年2回、故郷(大分県)へ帰省していた。その日(1985年8月12日)の朝、同機(羽田―福岡線の便名は363便)に乗って羽田空港から福岡空港へ向かい、出迎えに来てくれた兄夫婦と一緒に福岡県内の名所旧跡をドライブして回った。夏の日は長い、まだ明るさが残る7時半頃(数年前に、翁が母のために購入した”我が家“へ)帰宅した途端、待ち構えていた母に一喝された「あんたたち、今まで、どこをうろついていたんじゃ、どれだけ心配したもんか」・・・兄夫婦も翁も、母の怒りの意味が分からなかったが、翁たちが帰宅したほんの30分ほど前に日本航空(羽田―伊丹線は123便となる)の墜落事故でテレビがそのニュースを流しっぱなし。おまけに翁の会社(東京)から「社長は無事にお帰りでしょうか?」の電話で母の心配は更に高まったのだろう。余談だが、当時はまだ携帯電話はなかった。携帯電話をはじめとする移動通信サービスの発展・普及は1993年(平成5年)頃からだった、と記憶する――翁が夏休みを終え帰京して数日後、群馬県警から翁の会社へ捜査員2人がやって来た。「当日、福岡空港までの機内で、何か不審を感じたことはなかったか?」が質問の主旨だった。驚いたのは、当日の翁の座席番号まで調べていたことだ。「日本の警察は凄いね」と2人の捜査員に告げたら「当日の福岡便の乗客全てのお名前と座席何号を把握しています」とのことだった。しかし、翁のところにやって来た捜査員には気の毒だった。何故なら、何1つ、不審を感じた記憶はないし、第1、翁は搭乗すると直ぐに寝てしまう習性があったから・・・
さて、今年の8月は兄が亡くなって以来、約20年ぶりの“お盆帰省”である。と言っても昨年暮れから正月にかけて(介護施設に入所していた)実姉(93歳)との見舞いと別れで数年ぶりの帰省、続けて4月にも所用で2度目の帰省、そして今夏、3度目の帰省(20年ぶりの“お盆帰省”)で猛暑の中、先祖や肉親・親戚・友人たち(故人)のお墓参りなどで軽自動車を乗り回し、そして(前述の)実姉の初盆法要に臨もうとしている現在だが、本日(6日)の“ヒロシマ”、9日の“ナガサキ”には、式典の模様を実況放映する時刻、テレビの前で黙祷・合掌、そして15日の“終戦記念日”には、近くの神社で(正午に)先の大戦の戦没者310万人に感謝と慰霊の誠を捧げようと考えている。ともあれ『8月は鎮魂の月』――個人的にも今年の翁の8月の帰省は(長年、不義理をしていた)『慰霊と鎮魂の旅』である・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。