龍翁余話(841)「ラジオの思い出」

 

7月12日の「ラジオ本放送の日」に際し、東京・港区愛宕山にある「NHK放送博物館」に行き、ラジオの歴史と戦後のラジオ番組で翁が子どもの頃、記憶に残る番組を懐古するために同館3階の展示コーナーを訪れた――1925年(大正14年)7月12日は東京放送局(現在のNHK)が本放送を開始した日である(仮放送はその年の3月22日)。勿論、翁はその当時のことは知らないが、とにかく昔の家庭での主な楽しみは『ラジオ』だった。

 

戦前、龍少年(翁)の記憶では軍艦マーチに乗っての「大本営発表」が(かすか、ではあるが)今でも耳に残っている。戦争への関心を高め、1億総国民を“戦争参加”に扇動させるため「日本優勢」の放送ばかりだった、と、そのことは後年、(大人たちに)教えられたことではあるが、まだ子どもだった翁は「大本営」って何のことか知るはずもなかった。そして『ラジオ』を本当に身近に感じたのは1945年(昭和20年)8月15日の“玉音放送”だった。その詳細は、2016年8月14日に配信した『龍翁余話』(437)「鎮魂と祈り」に詳しく書いたので今号は割愛するが、昭和天皇のお声(終戦の詔書)をレコード規格の録音盤に収録して放送されたもの。当日の正午前から我が家の座敷に集まった近所の大人たちが放送終了後に泣き崩れた情景を今でも思い出す。

 

翁の『ラジオの(楽しい)思い出』の一番は、何と言っても1947年(昭和22年)に始まったラジオドラマ『鐘の鳴る丘』である。♪緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台・・・(作詞:菊田一夫、作曲:古関祐而、歌:川田雅子)は子どもばかりでなく大人をもラジオ(機器)の前に集合させた。NHK放送博物館の資料によると「放送の初年は毎週土・日の午後5時15分から30分までの15分、翌年から月曜日~金曜日の連続放送に変更した」とある。1950年(昭和25年)12月末までの約3年半も続いたラジオ連続ドラマであった。

  

“ラジオ連続ドラマ”と言えば新諸国物語の『笛吹童子』(1953年1月5日~12月31日、毎週月曜日~金曜日の15分番組)や『紅孔雀』(1954年1月4日~12月31日、毎週月曜日~金曜日の15分間番組)も記憶に残る、余談だが翁が  子どもの頃に楽しんだこのドラマの出演者で、当時は新人、のちに有名声優・ナレーターとなった黒沢良(ゲーリークーパーの声など)や来宮良子(テレビ東京「演歌の花道」のナレーターなど)が後年、翁の作品にナレーターとして出演してくれたことは実に感慨深いことであった。

 

ラジオドラマのほかにクイズ番組で『話の泉』、『二十の扉』、『とんち教室』などを思い出す。『話の泉』(1946年12月3日から1964年3月31日までの約18年間も続いた日本初のクイズ番組。アメリカのクイズ番組「Information Please」を真似たものだそうだ。翁がこの番組を(時々)聴いたのは1950年代に入ってから。司会は高橋圭三、解答者はサトウ・ハチロー(詩人)、堀内敬三(作詞・作曲家)、徳川無声(漫談・作家)、

山本嘉次郎(映画監督)らを思い出す。NHK放送博物館の資料によると『二十の扉』(1947年11月1日~1960年4月2日の約12年続いたクイズ番組)もアメリカで放送されていた同様のクイズ番組『Twenty Questions』をモデルに、CIE(民間情報教育局=GHQ(連合国総司令部)の1部局)の指導(命令)で製作された番組だったそうだ。

司会は藤倉修一(途中で長島金吾と交代)、残念ながら解答者については大下宇陀児(探偵小説家)以外の人は覚えていないが、かなりの人気番組で1953年から(1955年まで)テレビと共に同時放送されたそうだ(当時、学生だった翁、テレビは観ていない)。

 

もう1つ翁が特に好きだった番組は、1949年1月3日から1968年3月28日まで19年間に亘って放送されたバラエティ番組『とんち教室』である。印象に残っている出演者は青木一雄(司会)のほか石黒啓七(柔道家)、玉川一郎(ユーモア作家)、春風亭柳橋(落語家6代目)、桂三木助(落語家3代目)、渋沢秀雄(元東宝会長、渋沢栄一の四男)、柳家金語楼(落語家・喜劇俳優)らであるが、翁、1966年に映像制作会社を設立した年、石黒敬七氏(1897年~1974年)を一度、杉並のお宅でインタビューしたことがある(ので懐かしい)。

 

ドラマやクイズ番組のほか、ニュースや中継で幾つかの思い出がある。終戦の年(1945年)の11月に始まった「大相撲中継」、12月31日に始まった「紅白歌合戦」(当時の名称は「紅白音楽試合」)、1946年1月19日からの「のど自慢」(当時の名称は「のど自慢素人音楽会」)、更に思い出に残るのは1949年(昭和24年)6月にロサンゼルスで行なわれた全米水泳選手権に参加した古橋広之進が400m自由形、800m自由形、1500m自由形で世界新記録を樹立した時の中継放送だった。当時のラジオ性能や電波事情が悪かったせいか、途切れ途切れではあったが実況アナウンサーの絶叫が龍少年の心を躍らせたばかりでなく日本中のリスナー(ラジオ聴取者)を歓喜の渦に巻き込んだ。アメリカの新聞は「フジヤマのトビウオ」と称賛した。

 

再びラジオ連続ドラマの話――戦後のラジオドラマ史の中で最も脚光を浴びたのは1952年(昭和27年)4月から1954年(昭和29年)4月まで続いた『君の名は』(菊田一夫作)だろう。何しろ放送時間帯(毎週木曜日20時30分~21時)には女風呂が空になったとか。翁、その時期は神戸遊学(中学~高校)の時期だったから一度も聴いたことがない。ともあれ「ラジオは聴く人に特有のイメージを喚起させる、いわば“鼓動”を生む媒体である」故に翁、ラジオにもっと親しみたいと思う今日この頃・・・と、そこで結ぶか『龍翁余話』。