ことしも後わずかですね
今年1年を振り返ってみますと
mamさんの2018年は
まさに“手放す”年でした
節分にはじまり
夏至、冬至にいたるまで
その節目、節目に
大切なものを否応なしに
手放さなければ
前にすすめなかったのです
不思議なことに
12節におきる内面の変化は
止めようがないのですね
そうなんです
手放すということは
血管や肉体を引き剥がされる
そんな思いでした
苦悩する中で
喘いでるわたしが居ました
何故?なぜ?
の問いかけだけが繰り返される。
ブログも
書けない日々もありました。
書くことが
嘘を綴っているように感じられたからです。
空しく空回りを繰り返すこころの中で
次第にわたしは
内感をするようになりました
自分のこころを
客観的にみるようになったのです
瞑想の中で
わたしははるか昔の前世の
自分を見ることができました。
そこは
実に穏やかで
静かな時間が流れていました
打算も懐疑も欲望も嫉妬も無い
あるがままの自分でした
神との
対話もありました
年末になる頃に
またひとつの大きな試練があったのです
対話と言うと
対等な感じがしますが
そうでは無くて
頭の中に
こころの中に響いてくるのです。
”手を貸してはならない“
そう言われてるにも
かかわらず
わたしはその人に
手を貸しました。
そうせずには
いられなかったのです。
“手を貸してはならない”
やがて
わたしはその言葉の
意味する事を学びました。
手を貸したとしても
その人の救いには
ならないのだと…
学びとは
1人ひとりが魂の成長のために
必要なことなのだと。
相手が苦しみの中に居ても
たとえ絶望の淵にいたとしても
貸してあげれるのは手ではなく
こころそのものだという事。
そして
わたしは手を貸すことをやめました
どんなに
相手が苦難の道に居ようとも
ただ見守るだけなのです。
ただ
祈るだけでした。
見ているよ…
常に見ているよ…
あなたがこころの平和を見いだせるように
あなたが穏やかであれるように…
あなたが
神の声を聞けるこころの耳を持ちますように…
あなたが常に
神と共にいられますように…
わたしの1年は
まさに祈りの1年でした。
自分が
穏やかで居ようとする反面
試練の道だったなあともいえます
そんな長い長い
学びの1年もまもなく過ぎ去ろうと
してます。
新しい年に向けて
わたしはどう変わって行くのか
どう変わろうとしてるのか
来年はどんな試練が待っているのか…
それは
苦難でもあり
どう自分自身が乗り越えて行くのか
楽しみでもあります。
ことしも1年
つたないわたくし事のブログに
おつきあいくださり
ありがとうございます。
来年も
意味のわからない
つぶやきともとれるブログに
なろうかと思いますが
よろしく
お付き合いくださったなら
幸いです。
皆さまには
あしたも
良い1日になりますよう(^人^)