南京大虐殺 一般住民に対する虐殺・強姦・略奪 | 怖いBLOG

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南京城の攻略および入城に関する注意事項 (中支那方面軍司令部、12月7日)

一 皇軍が外国の首都に入城するは有史いらいの盛事にして、長く竹帛(歴史書)に垂るべき事績たりと世界のひとしく注目しある大事件なるに鑑み、正々堂々、将来の模範たるべき心組をもって各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為など絶対に無からしむを要す。
一 部隊の軍紀風紀を特に厳粛にし、支那軍民をして皇軍の威風に敬仰帰服せしめ、苟も名誉を毀損するがごとき行為の絶無を期するを要す。
一 入城部隊は、師団長がとくに選抜せるものにして、あらかじめ注意事項、とくに城内外国権益の位置等を徹底せしめ、絶対に過誤なきを期し、要すれば歩哨を配置す。
一 略奪行為をなし、また不注意といえども火を失するものは、厳罰に処す。
軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ、不法行為を摘発せしむ。


『南京戦史資料集』
(笠原『南京事件』p.117-118)
備考:中支那方面軍は法務部を備えておらず、不法行為を摘発できるだけの憲兵部隊をも持たなかった。例えば12月17日時点で、入城兵数7万以上に対して憲兵はわずか17名でしかなかった。方面軍司令部に不法行為を防止する意志も能力もなかったため、この注意事項は全くの空文と化した。(笠原『南京事件』p.119-120)




石射猪太郎氏(当時外務省東亜局長)の回想

 南京は暮れの十三日に陥落した。わが軍のあとを追つて、南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告が我々を慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺が危いとさえ報ぜられた。昭和十三年一月六日の日記にいう。
上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ。
 南京、上海からの報告の中で、最も目立つた暴虐の首魁の一人は、元弁護士の某応召中尉であつた。部下を使つて宿営所に女を拉し来つては暴行を加え、悪鬼の如く振舞つた。何かいえばすぐ銃剣をがちやつかせるので、危険で近よれないらしかつた。
 私は三省事務局長会議で度々陸軍側に警告し、広田大臣からも陸軍大臣に軍紀の粛正を要望した。軍中央部は無論現地軍を戒めたに相違なかつたが、あまりに大量な暴行なので、手のつけようもなかつたのであろう、暴行者が、処分されたという話を耳にしなかつた。当時南京在留の外国人達の組織した、国際安全委員なるものから、日本側に提出された報告書には、昭和十三年一月末、数日間の出来事として、七十余件の暴虐行為が詳細に記録されていた。最も多いのは強姦、六十余歳の老婆が犯され、臨月の女も容赦されなかつたという記述は、殆んど読むに堪えないものであつた。その頃、参謀本部第二部長本間少将が、軍紀粛正のため現地に派遣されたと伝えられ、それが功を奏したのか、暴虐事件はやがて下火になつて行つた。
 これが聖戦と呼ばれ、皇軍と呼ばれるものの姿であつた。私は当時からこの事件を南京アトロシティーズと呼びならわしていた。暴虐という漢字よりも適切な語感が出るからであつた。 日本新聞は、記事差止めのために、この同胞の鬼畜の行為に沈黙を守つたが、悪事は直に千里を走つて海外に大センセーションを引起した。あらゆる非難が日本軍に向けられた。わが民族史上、千古の汚点、知らぬは日本国民ばかり、大衆はいわゆる赫々たる戦果を礼讃するのみであつた。


石射猪太郎『外交官の一生』(読売新聞社 1950年 p.305-306)
備考:石射氏の日記と回想は、当時日本の政府当局が自軍による残虐事件の発生を知っており、その詳細を把握していたことを明白に示している。なお、外務省は、福井領事の報告をはじめとする当時の記録はすべて敗戦時に「焼失」した、としている。



南京市崇善堂埋葬隊活動一覧表・付属文書

 郊外の民衆で、未だ他所に避難できず、難民区にも入れない者は、昼間は一か所に集まって助け合って身を守っているが、不幸にして日本侵略者にみつかると多くが被害に遭う。背後から撃たれて倒れている者がいたが、逃げる途中で難にあったものである。横臥した形で、刀で突かれて血を流している者は、生きているうちにやられたものである。口や鼻から血を出し、顔面が青くなり、脚が折れているのは、大勢の者から殴られたり、蹴られたりしたものである。婦人で髪が顔にかかり、乳房が割れて胸を刺され、ズボンをつけていない者、これは生前辱めを受けた者である。また、頭をもたげ、目をむき、口を開けて歯をくいしばり、手足を突っ張り、ズボンの破れている者は、乱暴されるのを拒んだものである。惨たるかな、惨たるかな。
 毎日夜になると、集団をなして遠方に逃げる。声が聞こえると草叢に隠れたり、田の畦に隠れる。一番危険なのは、夜が明けてから、敵が高所から遠くを見渡すときで、逃げるところを見つかると、すぐ弾丸が飛んでくる。中に婦人がいると、手で止まれと合図して、追ってきて野獣の仕業をなす。言うことを聴かないと殺されるし、言うことを聴いても輪姦されて殺される。立ち止まらずに行こうとする者には、銃声がいっそう激しく浴びせられ、死者がますます増える。それゆえ、農村部の遭難者は都市部より多い。


『中国関係資料編』
(笠原『南京事件』p.94-95)



★ 夏淑琴さん一家虐殺事件 ★

マギー牧師による聞き書き

日本軍の南京城侵入最初の日(12月13日)、日本兵たちが市内の南東部にある夏家にやってきた。日本兵は、八歳と三歳あるいは四歳の二人の子どもだけを残してその家にいた者全員、一三名を殺害した。これは、八歳の少女(夏淑琴)が話したことを彼女の叔父と私を案内した近所の老女とに確認してチェックした事実である。
この少女は背中と脇腹を刺されたが、殺されずにすんだ。殺害された人には、七六歳の祖父と七四歳の祖母、母親と一六歳と一四歳の姉と一歳の赤ん坊(妹)がいた。二人の姉ともそれぞれ三人ぐらいの日本兵に輪姦され、それからもっとも残酷な殺されかたをした。下の姉は銃剣で刺し殺されたが、上の姉と母のほうはとても口にできないやり方で殺害された。私は南京でそうした方法で殺害されたのを四件ほど聞いているが、ドイツ大使館の書記官(ローゼン)は、一人の女性は局部に棒切れを押しこまれていたと言っている。彼は「あれが日本兵のやりかたさ」と言った。
私はこれらの死体を撮影した。母親が一歳の赤ん坊と一緒に横たわっている。その小さな少女は、もう一つの一歳の子どもの死体は、家主の子どもだといった。その子どもは日本兵の刀で頭を二つに切り裂かれていた。


「フォースター文書」
(笠原『南京事件』p.150-151)
夏淑琴さんの証言

新路口(Hsin Lu Ko)五番地は、私の家です。

日本兵たちは私の父を追いかけ回し後ろから撃ち殺したんです。彼らはとなりの家に住んでいた二人の子供と両親も殺しました。その後、彼らは私の一番下の妹を、彼女はまだ赤ん坊だったのですが、母の腕から取り上げて床に投げつけ殺しました。それから彼らは母の着ているものをはぎ取りました。私たちは広間の反対側のドアの後ろに隠れて一部始終を見たのです。日本兵たちは母を一人残すなんてことはしませんでした。

兵士たちが私の一番上の姉をテーブルに載せ、パンツを引き下ろし、繰り返し強姦するところを見たんです。私は三回刺され気を失いました。気が付いたとき二番目の姉が裸で倒れているのが見えました。彼女は強姦され殺されたのでした。

彼らが憎いです。ひどく憎い。どうしてそんなに残酷で野蛮だったんでしょう。私たちが彼らに何をしたと言うのですか。本当にわからない!


(『南京大虐殺 日本人への告発』p.166-167)




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