阪神大震災の記憶も薄れつつありますが、もうすぐ東京を大地震が襲うことは間違いがないでしょう。そこで、関東大震災の被害記録を公開。こりゃ、絶対死ぬわって感じでしょ? なお、出典は「大正大震災誌」(報知新聞付録・大正12年9月)で、原文に忠実に一部引用し再構成しました。
大正12年、9月1日正午、源を伊豆大島付近の海中に発した地震は、東京湾、相模湾沿岸一帯の地方をゆりつぶして、安政2年(1855年)10月2日の夜に起こった、江戸大地震以来の惨害を加え、同時に各所に発した火のために、大東京の大半、横浜・横須賀の全部は焼き払われ、死傷算なく、沿海海底の地形に大変化を示し、その損害程度にいたっては、実に世界有史以来と伝えられる。ここにその顛末を記して、後世の記録に残すゆえんである。
その日はちょうど210日の前日であった。東京地方は午前3時頃、やや激しい風雨を催したので、農家の厄日を気づかい始めたが、夜が明けてみるとカラリと晴れて、さわやかな初秋の朝日を見せた。人々、ホッと息をついた昼頃、どこでも午餐の支度を整え、あるいは食卓についている時分、不意にどこからともなく、異様の音響が起こったかと思うと、たちまち大地が波うちはじめて、振動は次第に激しく、やがて一大震動とともに、壁が崩れ、屋根が落ち、塀が倒れ、柱が折れ、家という家はことごとく大破し、あるいは倒れ、あるいは潰れた。土煙が八方から上がったと見ると、早くもその中から紅蓮の舌がよろよろと上がり始めた。2度目の強震がきたときは、ほとんど屋内にいる者はなかった。逃げ遅れた者は悲鳴を上げて助けを呼ぶ。阿鼻叫喚の大地獄は、至る所に現出された。
浅草では12階が倒れたのが最初であった。長く東京名物であった高塔が、6階目から無惨に折れて、千束町へ落ち込んだ。下敷きになった者が数知れず、付属の12階劇場では、折から演技中であったが、地響きとともにベチャッと潰れて、登場俳優は全部即死した。観客にもあまたの死傷者を出した。火はほとんど同時に発したので、救い出す暇がなかったらしい。
この辺は浅草花柳界の中心なので、女子供の逃げまどう姿がいっそう惨めであった。土曜日の一日というので、人の出盛る時間だった。大歓楽境はたちまち大叫喚、大修羅の焦熱地獄となった。火事とともに恐ろしいつむじ風が起こった。観音堂裏で巻き上げられた人間が、加速度に空から落ちてくると、ひきがえるのように大地へ叩きつけられて、うんとも言わず即死を遂げた。樫の木の大枝が、すさまじい音を立てて裂け落ちたと見ると、風をおそれて幹にすがりついていた女が、額を打たれて悶絶した。銅像前に12階のけが人が10余人、戸板に載せて救い出されてあったのが、追いかける火に包まれて、枕を並べたまま焼死していた。寄席の付近では、空から椅子やテーブルが降ってきた。何者のいたずらかと仰いで見ると、恐ろしい旋風にあおられて、かなり大きな家具のたぐいが、木の葉のように飛んでいたという。
もっとも悲惨を極めたのは、新吉原の廓中であった。明治44年の春全焼して、ちょうど13年目になるが、同じ全焼でも地震の後で、ことに廓外も同時に火に包まれたため、、惨状は前回に幾倍した。大焦熱の苦患のなかに、ただ一つの頼みとなる池の中へ、我も我もと飛び込んだ。水は2尋もあるので、泳ぎを知らぬ女たちは火をのがれて続々水におぼれる。その上へその上へと飛び込むので、あがいている者も助かるはずがない。最初極楽と思って飛び込んだ池も、やがて等活の地獄池となった。
1日2日は宵闇でも、火事の炎で、まだ、しのがれた。3日には激しい驟雨がきて、余燼をことごとく消してしまうと、その夜からの帝都は全くの闇で、罹災者も罹災者以外の者も、ことごとく暗黒の恐怖に包まれた。流言はやはり行われる。事実、不逞の輩もいた。
災後の2日3日には、至る所に焼死体や溺死体や圧死体が横たわって、見る者の目を覆わしめたが、市と警察と協力して7、8日ころまでにはだいたい始末を終えた。なんと言っても一等多くの死体を扱ったのは管内に被服廠跡を有する本所相生署で、8日までに4万1990人を収容した。大川筋から東京湾へ流れ出た死体で遠く千葉県へ漂着した者も多数あった。現場に火葬場を設けて、次から次へと煙にしたが、焼いても焼いても焼き切れない。
市内で収容された死体7万4024人のうち、男女の判明する者は男1万5628人、女1万6102人で、あとの3万9294人は男女の別さえ分からぬ死体だった。いかに酸鼻を極めたかは、この一事でも想像される。
現代だったら、ガラスは降ってくるは車は飛んでくるはで、これじゃ、絶対助からんよな。
で、こうした状況下、市中には「朝鮮人が一斉に蜂起して、町に火を放ち井戸に毒を投げ、日本を乗っ取ろうとしている」といったデマが広まります。そして自警団が組織され、多くの人が虐殺されたのでした。
この治安の悪化は、軍隊のせいだとしてこんな批判も飛び出しました。
《当時の戒厳令は、真に火に油を注いだものであった。何時までも、戦々恟々たる民心を不安にし、市民をことごとく敵前勤務の心理状態に置いたのは、慥(たし)かに軍隊唯一の功績であった。全く兵隊さんが、巡査、人夫、車掌、配達の役目の十分の一でも勤めてくれていたら、騒ぎも起らず秩序も紊(みだ)れず、市民はどんなにか幸福であったろう》(山崎今朝弥「地震・憲兵・火事・巡査」)
結局、こうした人災も含め、10数万人が死亡するという大惨事となったのでした。
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