慶応三(1867)年9月17日~
明治三十五(1902)年9月19日
生まれたのは旧暦
新暦になおすと十月十四日が誕生日
34歳と11カ月
母八重はこのように述べている
「赤ン坊の時はそりゃ丸い顔てて、丸い顔ててよっぽど見苦しい顔でございました。
鼻が低い低い妙な顔で、ようまア此頃のように高くなったものじゃと思います。
十八位からようよう人並の顔になったので、ほんとに見苦しうございました。
大人になってあれ程顔の変わった者もありますまい。(中略)
小さい時分にはよっぽどへぼでへぼで弱味噌でございました」
(河東碧梧桐記 「母堂の談話」)
これだけ母親に言われては、死んだ子規も立つ瀬がない。
実際、乳が足りず体は小さく、言葉も遅かった。おまけに左利き。
1日50ページ、10日はかかる
東北旅行 子規の足跡
子規の句は旅の写メールのようなものかもしれない
情景を目で見、写生して言葉にする
あまり感情移入はない
明治30年(1897年)
物価高騰のため社員全員、正味八円、月給が上がった事を叔父大原恒徳に告げている
一月三十一日の叔父大原恒徳への家計報告が面白い
それによれば月給は二十九円
隣から、というのは陸家(くがけ)から五円
これには「御歳暮ノ名義ナレド其実裁縫代ナリ」とあるから母か妹が縫い物の内職をしたと見られる
そもそも母八重は夫の死後、縫い物で子どもたちを養ってきた
その他で、収入は三十五円七十七銭
支出は米屋四・〇九、魚屋五・三三、酒屋〇・九六、炭屋一・一二八、車屋一・九八、八百屋一・七八二、牛乳〇・四九、家賃五・〇〇、菓子一・六四、文房具一・一六八、切手葉書一・二〇…湯代は五十三銭、一月十八日には高浜虚子にやった髪結代が三十銭、しめて三十六円二十二銭と一円弱の赤字である
病人の栄養のため
今の時代と支出の内訳がかなり違う
六月十六日の漱石宛手紙には
「一日も早く行くべき処へ行くが自分のため又人のためと存候」といいながら
「小生食事はすすみ候えども、牛乳四合にはほとほと閉口致し候
神田川の鰻がくいたいなどと贅沢申しおり候」と書いている
明神下の「神田川」は文化二(一八〇五)年の創業、現存する
夏痩せや牛乳に飽て粥薄し
子規も健康のためと我慢して牛乳を飲んだ
後ではココアに混ぜて飲むようになった
一二月二四日午後、蕪村忌には
根岸の狭い家に二十人もの人が集まった
(明治三十一年は二十二人)
(明治三十二年12月24日子規庵蕪村忌は52人らしい 写真下)
耕烟、芹村、鳴球、青々、虹原、白浜、藜杖、豊泉、世南、燕洋、森堂、月兎、梅影、道三、一五坊、塵外、四方太、松舟、鳴雪、碧梧桐、李坪、文漪、三子、牛伴、抱琴、鬼史、奇北、格堂、翠竹、雪腸、繞石、潮音、秋蘭、肋骨、潮花、虚白、孤雁、子規、紫人、春風庵、蘇山人、墨水、耕村、虚空らの俳人と、他に不折、圭岳、三允、碧童、秋窓、巴子、義郎、春渓らもきました。そのため、鳴雪、四方太は、床の間に上らなくなったのでした。風呂吹きが振るまわれ、句会の後に、みんなが集まって庭で写真を撮り、夜9時に散会となります。
伝染する病気の子規の家に、これほど多くの人が往来したのが不思議である
これほど人を引き寄せる人もいるのか
才能だけなら色々な人がいるのだが
生き方なのか、読んでいるだけではわからない
俳句、短歌、評論、日記、小説、漢詩、新体詩、紀行、随筆、書簡
子規の人生は丸ごとであり、細分化されていない
「死は恐ろしくはないのであるが苦(くるしみ)が恐ろしいのだ 病苦でさえ堪えきれぬに此上死にそこのうてはと思うのが恐ろしい」
伝染する病気の子規を皆が嫌がらずにそばにいた
そしてつききりで看病した母八重や妹の律がこの病気にうつらずに長生きしたのも不思議だ
津田篤太郎医師にこの病気について聞いてみた
「『うつる人うつらない人』ではなく、『発病する人発病しない人』です
結核菌に感染した人のうち、二年以内に発病するのは全体の一〇%
九割は結核を発病せずに結核菌は免疫に封じ込まれて『休眠状態』になります
ただ、『休眠状態』になっても、二〇%は加齢などで免疫力が弱った時に発病します(既感染発病)
これは感染から数年~数十年後といわれます
一生発病しない人は残り七〇%です
というわけで、八重さん、律さんは感染はしたが発病しなかった七〇%の一人なのでしょう」
樋口一葉はなくなる明治二十九(一八九六)年の九月まで外出もしているのに十一月二十三日には亡くなっています
それにひきかえ、子規は床に着いてから七年も生きた、それはなぜでしょう
「よくわからないのですが、人によっては、結核菌に対する封じ込め反応(免疫の反応)がうまく起こらないことがあるようです
乳幼児が結核菌にかかると、免疫が弱いために『奔馬性』の経過をたどることがあります
一葉さんも頭痛肩こりに加え、栄養失調もあったようですから、免疫力が低かったのではないでしょうか」
「悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」(六月二日)
夜中、うなっていた子規が静かになったので、母八重が手を取ると冷たい
「のぼさん、のぼさん」と呼ぶ
事切れていた
八重は涙を落としながら、「サア、もう一遍痛いというてお見」という
発語せず、動かなくなった息子に
律は裸足で隣の陸邸に駆けて行き、医師に電話を入れる