南大東島は、沖縄本島の島月桃と、種類がちがうらしい
ふるさと文化センターで見た商品
ソーカとは月桃のことで工房では月桃を用いた様々な商品をオーダーメイドで作っている。
工房見学料は200円で各種体験もできる
カナダのボンバルディアQ400型機
(DHC-8-Q400)の貨物室拡張型
「DHC-8-Q400CC(カーゴコンビ)」
帰りの席は、末席 13A
行きは12D 50人乗り 2016.4 から就航
Q400の「Q」は英語の「Quiet(静か)」で、
飛行機から音波を出して機内に入ってくるプロペラによる騒音や振動を小さくしています。
この機体の客席数の標準仕様は74席ですが、
客室を50席にすることで通常の仕様よりも貨物室を拡充しています。
この仕様により従来使用していた
Q100やQ300の貨物室と比較すると
約2.5倍の広さとなり、
与那国のカジキマグロや久米島の車海老、
海ブドウ等の海産物資源を迅速かつ大量に運ぶことができるようになりました。
南大東漁港 が、写真の右下に見える
約300億円で作られた岩盤掘り込み式漁港
他の港では強風で接岸できないので
船舶からの積み卸しは人も貨物もクレーンで行われている
台風時、船を毎回、陸にあげなくてはならない
南大東島は、小学校入学前の子が40人
待機児童が発生しているほど
人口が少し増え始めているそう
過疎化しないためには
公共事業も必要だと思う
1964年に土地所有問題が解決して 56年
1900に入植して、64年目でようやく
1947年の農地改革、小作人解放より最近の話
南大東島を最初に開墾した人たちは
諦めて去って、その後の人たちが
土地をようやく手に入れたという
玉置ヒデさんが、玉置半右衛門の関係者かは
知らないが協力したのだろう
大阪の変わり者おじさんが私にはいるが
人のいない田舎に道路は作らなくていいと言う
10年前、久米島で立派な道路を見て
歩道はあるが雑草が生い茂り
チャリで通るには、車道を走らざるをえない
のを見たときは
人口比で税金投入もありとは感じたが
それを進めると都会に人が集中し
田舎はますます住めなくなる
離島を有人で残したいなら
土地改良事業など、税金投入しないと
南大東島で人は増えないと私は感じるので
全体利益に関係なく、公共事業は賛成したい
ネットでは、下のような意見もあるので
読んでいて、そういう意見もあるわなあと感じる
よく調べてあるが、抜けているところもある
〔離島フィールドノート
南大東島総合政策研究 事始め〕
南方見聞録 はるか南の島で、見たもの。
~南大東島、ここは公共事業の最後の楽園か~
より、以下、引用
南大東漁港は日本唯一の岩盤掘り込み式漁港で、
沖縄県の特定漁港漁場整備事業によって建設され、
総事業費は299億5400万円にものぼる。
事業期間は長期に亘り、
平成元年に本格着工され同23年に完成した。
漁港の整備に合わせて周辺一帯の道路も整備され、
他の漁港(港湾)と比べても桁違いの規模を誇る。
すでに島内には、西港、北港、亀池港の三港がある。
狭い離島内にこれだけの規模の港が整備されているが、
更に南大東漁港が建設された事になる。
また、南大東漁港は北港の西側付近に位置する。
この漁港が完 成したことで、
漁船の大型化が可能になり、
島の漁業振興に寄与するという。
同22年3月末の時点において、
島内の漁船総数は41隻、専業の漁業従事者は10名
―兼業の30名を加えても合計40名―
を数えるだけである。
この数字を前提とする限り、
他にも整備された漁港がすでに存在することを
併せ考えると、総事業費約300億円の漁港建設事業
の費用便益分析の算出過程を知りたくなる
同じ資料より、以下、引用続く
大東島は実に「けったいな」島である。
厳密にいうと、「大東島」は、
北大東島、南大東島、沖大東島(ラサ島)の三島からなるので、
「大東諸島」というのが正確である。
北大東島 と沖大東島の二島は北大東村の、
南大東島は南大東村の、それぞれ管轄行政区域に属する。
沖大東島のみ無人島で全島が、
現在、東京に本社を置く一部上場企業の
ラサ工業株式会社の所有に属し、
かつ、在日米軍の射爆撃場に供されているので、
一般人は立ち入りできない。
北大東村での聞き取りによると、
行政関係者や議会議員も上陸を試みたが
入島できなかったという。
射爆訓練による島の破壊は嘆かわし い。
単独所有に属する島
―最近では、鹿児島県の馬毛島が基地利用との関係で注目されている―
の数は少なくないと思われるが、
そのよ うな島の入島制限と環境保全等の問題は重要な政策課題である
このような島は日本では唯一無二である。
世界的にも 非常に珍しく、その生い立ちは
特異的な典型性の故に、
地形学等の教科書でも事例紹介されるという。
島の生まれは、今から約4800万年前にも遡 り、
現在のニューギニア諸島付近で、
気が遠くなるような時代のはるか海の彼方で産声を上げた。
ここで火山島として誕生し、以来、
他の大陸と一度も陸続きになったことのない海洋島で、
フィリ ピン海プレートに乗って移動を続け、
沈下と珊瑚の付着・堆積を繰り返しながら、
沖縄近海の現在の位置にたどり着いたという。
「ほんまかいな」 と首を傾 かしげたくなる
「ひょっこりひょうたん島」 である。
今なお年間約5cmずつ沖縄本島へと移動を続けているという
南大東島の面積は30.57km2しかなく、
最高点の標高75.8m、周囲は20.8kmで、
東西に5.78km・南北に6.54kmほど伸びるだけの
小規模離島である。
サイズ的には沖縄諸島では与那国島(面積28.84km2)
より少し大きい程度である
数字的には大きいとは言えない島であるが、
島内にいると北海道の大地にいるような 錯覚を覚える。
これは後述する島の地理的特徴に由来する。
島の周縁部がせり上がった隆起状の幕(ハグ)
と呼ばれる台地を形成して森林帯 となっており、
島内の中央部が凹んで窪地状態となっているので、
島内からは海が見通せない。
この周縁部の盛り上がった高台一帯を「幕上」、
盆地 のような窪地状の平坦部分を「幕下」という。
島の 約6割が畑地、約2割が林で、
島内からは海が見えず人も少ないのだから、
雰囲気的には大陸的な北海道を彷彿させる
南大東烏に人が居住するようになったのは
100余年のことにすぎないが,
22名の開拓団によって
明治33年(1900年)開始された島の開拓は
しかし,驚異的なスピードで進行した.
1920年代には早くも島面積の40%以上が
サトウキビ畑になり, 人口も4000名以上に達した.
さらに砂糖生産のため燃料として
大量の樹木が伐採され,
開拓開始後20年ほどで
島の森林は丸裸になったという.
南大東島・北大東島両島は
大東海嶺の北西端に位置して,
海嶺の沈降に伴って成長を続けた
サンゴ礁を地質とする平坦な島である.
南北大東島に共通することであるが,
中央部が盆地状に窪んだ環礁地形を示し,
幕上(はぐうえ)と呼ばれる周囲の高度の高い部分には
石灰岩溶食地形が発達する.
また中央部の低地は幕下(はぐした) と呼ばれて,
低湿地や池が広がる.
南大東島では幕上の一般標高は40~50m.
幕下は西に向かって緩く傾斜しており,
湖沼群は西側に集中する.
低海水準期に形成されたドリーネや
ウバーレに浸水したものである.
これらの湖沼群は, 日本最大のカルスト湖沼群である.
最大の池である大池の北岸には通常は
マングローブ植物であるオヒルギが群落を形成しており,
国指定天然記念物となっている.
年度 主な出来事
明治18年 日本国から沖縄県に大東島取り調べ令が発せられ、沖縄県下に入る。
明治33年 玉置半右衛門の募集に応じた開拓移住者23名が島に上陸を果たす。
明治35年 黒糖80俵を製造。これが島内における製糖の始まりとなる。
大正 2年 パラチフスが発生したがインフルエンザと誤診され島民200名余が死亡。
大正 5年 玉置商会経営の大東島開拓事業が東洋製糖会社に売り渡される。
昭和 2年 島の経営権が大日本製糖社に移される。
昭和21年 村制が施行され島が南大東村と称される。
昭和24年 開拓50周年の記念行事が挙行される。
昭和25年 大東糖業株式会社が設立される。
昭和27年 製糖が開始され戦後初めて分蜜糖が製糖される。
平成12年 開拓100周年の記念式典が挙行される。
島の歴史 (出典)要覧55~60頁より作成
島の西洋史中心的な発見は
1820年でロシア艦船 ボロジノ号の指揮官ポナフィディンに遡る。
以 後、大東諸島はボノジロ諸島として
西欧で紹介さ れるが、この艦船名に因んで命名されたという。
沖縄(ウチナー)の人々にもその存在は古くから知 られ、
「うふあがりしま」と称され、
沖縄から見て 東方に位置することから
ニライ・カナイ伝説とも 重なったという。
日本との関連でいうと、沖縄県 が設置された
明治12年(1879)から7年を経た同18 年 (1885)、
国際法上の先占の法理に基づいて、
南 北大東島が正式に日本の領土となり大東島と称されたが、
沖大東島(ラサ島)は同33年(1900)に日本領土として沖縄県に編入された。
玉置半右衛門
(たまおき はんえもん、
天保9年10月1日(1838年11月17日)
- 明治43年(1910年)11月1日)
1900年(明治33年)玉置は当時無人島であった南大東島へ
入植者を送って開拓を行い、サトウキビの栽培により、精糖事業を軌道に乗せた。
八丈島からの開拓民23名が南大東島に 上陸し、ここに本格的な開拓が始まる。
入植費用と生活費は玉置が出し、
30年後、入植者には現地の土地が与えられる約束であった。
島には病院や学校、トロッコ鉄道や防風林も整備された。
また、大東島紙幣(玉置紙幣とも)と呼ばれる
紙幣に類似した商品引換券を流通させた。
開拓団 の入植はその後も続き島内の開発が急ピッチで進んだ。
それから2年後には早くも、甘蔗の栽培によって
黒糖が製造されるようになり、徐々に砂糖 の島としての礎が築かれた。
入植から10数年後に は先人の労苦も報われ、
「絶海無人の島」が安住の 基地へと変貌した。
大正5年(1916)頃には人口は 3,500人を数え、
以前のビロウの原生林で覆われ た大地も畑地に転換されていった。
当初の移住者は内地の人が多かったが、
その後の開発の進展 と共に沖縄出身者が急増していった。
このような ヤマトとウチナーの混在が後述するように、
チャ ンプルーな島の融合文化を形成する原動力となっ た。
企業による島の経営の先駈けは、
八丈島からの移住民を母体とする玉置商会によるもの だった。
玉置は過労から肝臓病に罹り、1910年(明治43年)に73歳で死亡した。
玉置半右衛門の死後
現地の指揮にあたった玉置の息子の鍋太郎と鎌三郎は
放蕩に明け暮れ、入植者から「鍋大将」「鎌大将」と揶揄された。
鎌大将はたばこの不始末で山火事を起こし、一週間にわたって炎上させた。
3人の息子が遺産を相続するが、遺産を巡る争いなどから、
玉置商会の経営は不振となり、
1916年(大正5年)、南大東島の土地や事業は
東洋製糖に売却されることになる。
玉置の死後、事業は売却されたため、
土地譲渡の約束は事実上反故にされてしまった。
玉置商会は、大正6年(1917年)に国から当時の価格で
1万780円で島の払い渡しを受けたが、
翌大正7年(1918年)には、
玉置商会から東洋製糖会社に島が売り渡された
その後、昭和7年(1927年)に
東洋製糖会社と大日本製糖会社が合併し、
島のプランテーション的な経営権が大日本製糖会社に移った。
島では、戦後村制が布かれるまで、
民間企業によるプランテーションの植民地的経営が行われ、
一私企業が教育から警察までの行政を代行するという、
日本国内に類例のない社会制度下にあった。
土地譲渡の約束は事実上反故にされてしまった
この問題は昭和39年(1964)、
当時の琉球列島高等弁務官である
ポール・W・キャラウェイが土地所有権を
民間企業による島の経営統治は、
戦後昭和21年に村制が施行されるまで続いた。
島の歴史は上記各社による経営支配の期間によっても画され、
玉置商会の時代を玉置時代、
東洋製糖のそれを東洋時代、
大日本製糖のそれを日糖時代ともいう。
日本国内にも植民会社による統治支配の仕組みがあった。
村制施行と共に、それまで私企業が行った
教育、治安、交通通信、医療衛生等の行政機能の担い手が
村、県、国に移った。
戦後の懸案事項は 大日本製糖会社と農民間の
土地の帰属をめぐる所有権問題であったが、
昭和39年(1964)に農民の土地所有権を認めることで落着した。
戦後、長きに亘ってくすぶっていた土地問題が解決
したことで、同島の特異な歴史にもピリオドが打たれ、
島の歴史に新たな一ページが加えられた
沖縄タイムス 2014年7月30日の記事によると
「自治は神話だ」の発言や金融機関への厳しい取り締まりで
恐れられた米軍統治下の最高責任者・キャラウェー高等弁務官が、
南・北大東村では「島の恩人」と慕われている。
無人島だった両島を開拓した製糖会社が土地全てを所有してきたが、
キャラウェー氏が退任直前の1964年7月30日に出した布告で、
獲得を訴えた村民に所有権を認めたからだ。
きょう、50周年を迎えた。
南北大東島は
1900年から東京の商人玉置半右衛門が開拓し、
17年には国から両島を購入した。
1910年に死去した玉置は生前
「開墾地は30年後、開拓者の所有とすると島民に口約束した」と伝えられる。
その後、土地所有権は東洋製糖、
大日本製糖(日糖。現在の大日本明治製糖)へ変わり、
45年の沖縄戦を迎えた。
南北大東の村誌によると、
村民の土地所有権獲得運動は51年に始まった。
61年、キャラウェー氏の南大東島訪問時には、両村民代表が直訴。
米琉合同土地諮問委員会は64年7月17日、
約束の効力を認め、村民の所有権を認定。
日糖は30日の同委員会で
「南北大東島の住民の安寧と福祉の増進」を理由に受諾した。
戦前から住民を苦しませた問題が解決したことから、
南大東にはキャラウェー氏の功績をたたえる胸像がある。
「沖縄では鬼のように言われるが、大東では神様」
「年配の人は、キャラウェーの名前は忘れない」と英雄視されている。
南大東島は火山島にサンゴ礁が堆積してできた
隆起性環礁の島なので、
島の外周は峻厳な切り立った岩礁で
囲繞(=いにょう:周りを取り囲むこと)されている。
そのため最近開港された
岩盤掘り込み式漁港の一箇所を除き船が接岸できず、
船舶からの積み卸しは人も貨物もクレーンで行われている。
こうした外周環境をもつ島は、
日本では南北大東島だけであり、
世界でも珍しい地形・地質である。
上記のように、島の内部は環状丘陵地帯となっており、
島の外側に壁のように盛り上がった地形は
幕(ハグ)と呼ばれ、ビロウ(ヤシ科) の生い茂った森林地帯となっている。
ビロウ自体美しくその密集林は圧巻でもある。
開拓前には島一帯が見渡す限りのビロウの原生林で覆われてい た。
島の内側は盆地上の環状丘陵地帯で、
ここに雨水が貯留されて、多くの湖沼湿地群を形成している。
この湿地帯は珊瑚の島ならではの
カルスト地形による国内有数の湿地群である。
このよう な地形・地質の特異性に加えて、
誕生以来、一度も陸続きにならなかった海洋島である
ことに由来して、ダイトウビロウやダイトウオオコウモリなど
独自の進化を遂げた動植物相にも恵まれている
長文、お疲れでした