ハイサイ、RIN(凛)ですニコニコ

丸山健二(72歳)さんは、長野県飯山市出身の作家。
進学や就職で、一時期仙台や東京に住み、
結婚後、郷里長野に帰り、アルプスの麓、大町に住み
大自然の中で作家活動を展開している。
1967年(24歳)に「夏の流れ」で芥川賞受賞。
簡潔で読みやすい文体のヒューマンドラマが得意。、
私は何冊も著作を読んだことがあり、
「夜、でっかい犬が笑う」
は、彼の愛犬のエピソードを期待して読んでみた。
でも、まさかの裏切り。
愛犬家は読んではいけない本だった。
【この「谷」の景色が、なぜか大好きなRIN(凛)君。毎日ニタニタ笑って見ている】

犬が狼から分岐して、今日のコンパニオンアニマルに至るまで長い歴史がある。
大昔の遺跡で犬の骨が発見されていることから、
「およそ1万4~5千年前ごろから人と生活を共にしてきた」
と考えられている。
犬との生活は、一緒に暮らす人間の生活を楽しく、
同時に精神的にも豊かにしてくれるのだけど、
犬を飼うにあたって、エチケットやマナー、モラルは有っても、
「こうやって飼うのが正しい」
という定義はない。
そのため、虐待などの犬を虐げる行為は論外として、
いわば「ふつうの飼い方」、といっても、
「可愛いでちゅね」式にベタベタする溺愛型、
気分屋飼い主の気分に合わせた時々かまう型、
やたらしつけを強要する教育型、
あるいは放任主義とか、家畜型とか、
飼い主の理念と方針によって、飼い方は千差万別、
言い換えれば、
飼い主によって、飼われる犬の一生、幸不幸が決まってしまう。
しかし犬に飼い主を選ぶ選択権は無く、
人間が一方的に犬を選ぶ権利があり、なんか不公平。
Wikipediaによると「家畜」とは、
「その生産物(乳、肉、卵、毛、皮、毛皮、労働力など)を
人が利用するために馴致・飼育している動物」
と書かれていて、
「人間 > ペット > 家畜」
という構図が一般的。
【トゥラー(トラ毛)がはっきりして、虎なのか獅子なのか犬なのか…?】

「夜、でっかい犬が笑う」
の最後18行を以下にコピペした。
「庭へ出るたびに、犬舎の前を通るたびに、
私を通過していった犬のことが想い出される。
シェパードのマック、アフガン・ハウンドのバロン、
セント・バーナードのゾルバ、アイリッシュ・ウルフ・ハウンドのジャンゴ、
土佐闘犬のリュウ、ラブラドールレトリーバーのクロ…、
かれらと過ごしたもはや絶対に帰らない日々が津波のように押し寄せてくる。
いい連中だった。
少なくとも私などよりははるかにましな連中だったと思う。
そして、私は、時々かれらの夢を見る。
これまで飼ったでっかい犬たちが次々に現れて、
私の周りをドタドタと走り、がつがつと餌を食べ、がぶがぶ水を飲み、
それからしまいにはなぜか一斉に笑うのだ。
私を見ては人間のような表情で笑う。
おそらく、以前テレビで「笑う犬」というのを見たからだろう。
もちろんその犬は本当に笑っているのではなく、
いかにもそれらしい顔つきをしてみせるのが上手だというだけのことだ。
ところが私の夢の中に登場する大型犬ときたら、心の底から笑っていた。
それは不思議な笑いだった。
いい加減な飼い主に対する嘲笑ならすんなりと理解できるのだが、
そかしそうではなく、腹の底からこみあげてくるような充実した、
他意のない、底無しに明るい、陽気な笑いだった。
笑っている犬の夢を見た翌日は、決まっていい気分だ。
元気が出てくる。
仕事はばりばりするし、バイクに乗っても調子がいつになくいい。
私もまた一日中胸のうちで笑っている。
いつの日かまた私は大型犬を飼うだろう。
まともな飼い主になることができた頃、
私は犬と一緒になって笑っているかもしれない。
それまでは、夜、夢の中に現れるでっかい犬と共に笑うことで
我慢しようと思っている」
【草むらの中で何か動くものを発見、この後、飛びかかったらカラスだった】

「夜、でっかい犬が笑う」の著者・丸山健二さんの犬の飼い方は、
感心や感動がなく、参考になるところもない。
それどころか、多くの愛犬家からは嫌悪感を持たれてしまうはず。
一昨日の記事、「捨て犬を見過ごせない」名護市の島袋順栄さんには
「あっぱれ」を3枚あげたいけれど、
丸山健二氏には「大喝」2枚が妥当。
「夜、でっかい犬が笑う」というタイトルにあるように
彼は「でっかい犬」を飼うことにこだわっているだけ。
次々と犬を飼い換えては理由をつけて手放していく、という繰り返し。
まるで流行の文房具や家電などを次々に買い換え、
飽きたら捨てる式と同じで「犬はモノ扱い」というのが気に入らない。
彼はとにかく大型犬が大好きで、ジーガー・シェパード、チャウチャウ、
アフガン・ハウンド、セント・バーナード、ドーベルマン、土佐闘犬、
アイリッシュ・ウルフ・ハウンド、ラブラドールレトリバーなどを次々と飼った。
しかし、その飼い方が問題で、衝動的に犬を購入してしまうとか、
病気の犬をつかまされたり、怪しい畜犬商に何度もだまされている。
15年前後、大事な家族となる犬を慎重に探す、という姿はそこになく、
いつも「テーゲー」。
最初は「良い」と思って飼い始めた犬も、そのうちアラが見え気になってくる。
呑気(のんき)な犬、間抜けな犬、UFOを発見した犬、人に咬みついた犬、
すさまじい食欲の犬、大鼾(いびき)をかく犬、風のような犬、陽気にはしゃぐ犬…。
成犬になったら飽きてしまうのか、駄犬にうんざりするのかわからないけど、
鳴き声がうるさいとか、散歩に連れて行くのが面倒などの理由をつけては
最高の犬を求めるあまり、飼い犬を次々と捨ててしまう。
「あれが気に入らない。期待外れだ。誰かにくれてやりたい。次はあの犬種がいい」
その繰り返し。
フィクションの問題提起ではなく、著者自身の実際の想い出話なので
読んでいて怒りがこみあげてくる。
この本には、そういった過去の可哀そうな飼い犬たちの悪口ざんまいだけでなく、
それぞれの犬に関連する人たちの悪口まで面白おかしく書かれている。
例えば、「犬を埋める」という章では、
飼い犬を亡くしてメソメソ泣いている男に、
「お前の飼い方が悪いから死んだんだよ。
きちんと散歩させとけばこんなことにならなかった。
お前が殺したようなもんだ。
お前みたいなやつは犬なんか飼うべきじゃないんだ。
泣くことに酔ってんじゃねぇのか、テメェ」
と、こき下ろした思い出が書かれている。
文体は読みやすいから一気に最後まで読んだけど、
読むうちに腹立たしさが増幅する。
「あんたに人のことをとやかく言う資格はないよ!」
と言いたくなる。
【三匹の侍とたわむれるRIN(凛)君】

我が家近郊には野犬が多い。
毎日、RIN(凛)君と縄張りを巡り、仁義なき戦いを繰り広げている。
私は野犬は憎いと思わない。むしろ哀れだと思っている。
山原(やんばる)は、名護市や沖縄市など町から飼い犬を捨てに来る人が絶えない。
犬を捨てる人にも、それぞれ事情があるに違いない。
だけど犬を家族として受け入れていないから、捨てることが出来る。
もし母親を捨てるなら、昔の姥(うば)捨て山と同じ。
母親は捨てられないけど、犬は捨てられる、というなら犬は家族じゃない証拠。
犬は使い捨てのモノではなく、かけがえのない命なんだけどね。
著者が平気で飼い犬を捨てるので、哀れな野犬と重なって見えた。
捨てられた犬は、最初は飼い主の車を猛烈に追いかける。
けど、飼い主の車は一気に見えなくなって、
捨てられた犬は途方に暮れる。
初めて来た土地で、どこに水場があるのかもわからず、
今まで定期的にもらえた食事がなくなり、自分で探さないといけない、
常に死と隣り合わせの境遇に置かれ、もはや楽しみなんて死ぬまでないはず。
肉食系雑食の犬が山原(やんんばる)で食べられるものというと、
動物を捕まえるか、畜産の死んだ豚や牛などを食べるかしかない。
動物を捕まえるのは大変だよね、毎日はとてもムリ。
ここで捨て犬の多くは餓死することになる。
木枯し紋次郎的な一匹狼も時々見かけるけど、
それは二度目を見たことはほとんどない。
あちこちに野犬が群れになり、
集団でエサ場や水場などの縄張りを死守しているから、
一匹狼は集団の野犬に耳などを食いちぎられて早々と追い払われてしまう。
どこへ行っても野犬がいるから、一匹狼は餓死する運命にある。
死ぬ間際に思うことは、残酷な飼い主への恨みより、自身の運の無さを嘆き、
「次に生まれてくる時は、まともな飼い主に出会いたい」
と思うことだろう。
養豚場ではよく豚が死に、重機で穴を掘って死体を埋めるのだけど、
穴が浅かったり、いいかげんな豚舎では溝を掘るだけで
死体を投げ、怪しい薬をかけているところもある。
もちろん土壌にやさしいEM菌や放線菌などの菌体ではない、腐敗を早める薬剤?
こういったところが野犬のエサ場で、
ここは野犬グループが生死をかけて死闘する場所でもある。
ここを死守したところで、腐敗したような不衛生の生肉を食べて病気になるようで、
野犬グループは2,3年でメンバーが入れ替わる。
野犬たちは人間に強い不信感と怒りを持ち、人間を天敵として決して近づかない。
私に対しても野犬は吠えるけど、彼らは人災の哀れな犠牲犬。
「私は何もしないよ。ホントはエサをあげたいけど、あげられないでごめんね」
と彼らにメッセージを伝えるのだけど、彼らにはもちろん通じない。
RIN(凛)君と敵対する野犬軍団は今のところ3グループある。
白い犬がリーダーの「ホワイトシャーク団」、
黒い犬がボスの「ブラックエンペラー」、
そしてRIN(凛)君が懇意にする三匹の侍。
雨天などが続いて彼らの姿が数日見えないと、
殺鼠(さっそ)剤入り毒団子などを撒かれていないか、
食事ができているのか心配になるし、
夜に野犬の争う声や遠吠えが聞こえたり、
RIN(凛)君散歩で遭遇して元気な姿を見せた時には安堵する。
【私に威嚇する野犬(ムネシロ君)、この後RIN(凛)君が私を助けに来てくれた】

「夜、でっかい犬が笑う」
は、駄犬と駄飼い主のダメっぷりの、おもしろエッセイ集のつもりなんだろうけど、
飼っては捨ててきた何頭もの犬の思い出を綴ったお寒い内容だけに、
愛犬家には、とてもお奨めできない。
著書の最後の方、コピペした部分には、
今まで飼った大型犬たちが、他意がなく、底無しに明るく、
陽気に笑っている夢を見て、翌日には著者は夢で元気をもらったような
爽快で晴れ晴れしい気持ちになるらしいけど、
もしかしたら、過去の犬たちが一斉に化けて出ているのを、
空気が読めない身勝手な著者が、
勝手に良く解釈しているだけなんじゃないの?
動物と話が出来るハイジの本には、
「愛犬家の周りを、亡くなった犬の霊が楽しそうに跳び回っている」
とか
「愛犬家が亡くなると、先に亡くなった愛犬が真っ先に出迎えて、
愛犬家と愛犬が走り去り、
同じく出迎えている愛犬家の家族などが呆気にとられている」
と書かれていて、
私も今春亡くなったラブラドールレトリーバーのRIU(琉)が
いつも近くにいるような感じがして、時々話しかけている。
辺境地の過疎で周りに人がいないからいいようなものの、
町だったら変質者で通報されてしまうかもしれない。
私は黄泉の国でRIU(琉)君との再会を楽しみにしている。
丸山健二さんは、三途の川の向こう岸で過去の犬たちに吠えられるだろうし、
五十七日目に閻魔大王と出会い、浄玻璃(じょうはり)の鏡に映る
過去の犬たちへの非道を見て、
きっと後悔し、慚愧(ざんぎ)し、懺悔(ざんげ)するに違いない。
「夜、でっかい犬が笑う」
は、犬を家畜と思う人や、飽きたら捨てられる人、
ペットに無関心な人、ペットが嫌いな人、
こういう人たちが読んだら面白いかもね。
【国頭村奥間の大嶺農園に入り、大暴れしたいRIN(凛)君は出入り禁止!】