ハイサイ、RIN(凛)ですニコニコ
【この画像はネットで拾ったコピペ、抗議こなければいいけどね~】

もう20年近く前になるけど、私は東京に約17年も住んでいたことがある。
下町に住んでいたので、浅草の「三社祭」や「羽子板市」、
鷲(おおとり)神社の「酉(とり)の市」(熊手の市)、「隅田川花火大会」、
「ほおずき市」(四万六千日、7月10日に浅草寺にお参りをすると、他の日に比べて、
功徳が46,000日(=126年)もあるといわれている)、
入谷の「朝顔市」、神田明神の「神田祭」、湯島天神の「菊祭り」、
上野公園の「桜の花見」、「深川八幡祭り」…、
こういったお祭り系イベントには毎年必ず行っていた。
また、当時の自宅近くの行きつけのパン屋さんで
食パンの耳などを大きな袋一杯にタダでもらって
上野の不忍池(しのばずのいけ)によく行って、カモにエサとして投げていた。
投げたのは当時幼児の私の娘が、だよ。
近くで「鳥のエサ」と称して100円で、
ひとつかみ程度のペットフードのようなエサを売っていたけど、
娘は周りの子供たちにもパンの耳を分けていたので、
今から思うと、かなりの営業妨害だったね。
その後、上野動物園や、近くの遊園地、アメ横と行く間に
「西郷隆盛像」の付近を通っていたので、この像は想い出深い。
【朝散歩で小休止するRIN(凛)君】

東京で「西郷隆盛像」というと、上野での待ち合わせ場所として有名。
当時の上野駅は、東北本線や常磐線、宇都宮線、高崎線の起点駅となっていて、
北関東や東北方面からのおのぼりさんの待ち合わせというと、
西郷隆盛像前が定番だった。
「どこかに故郷の 香りをのせて
 入る列車の なつかしさ
 上野はおいらの 心の駅だ
 くじけちゃならない人生が
 あの日、ここから始まった」
という歌詞で始まる井沢八郎の「ああ上野駅」という曲
若い人は知らないだろうけど、昭和の高度成長期には
地方から多くの田舎の若者が集団就職をして都会にやってきた。
中卒者が「金の卵」といわれていた時代。
北関東以北の就職列車は、まず上野駅に来て、都会の労働力の源泉となった。
東京タワーや首都高速道路、霞が関ビル…、
これらを造ったのは建築会社ではなく、設計技師でもなく役人でもない。
現場の土方や鳶(とび)など地方から出て来た多くの労働者たちの
血と汗の結晶にほかならない。
そういう意味では、上野駅は昭和を象徴する駅でもあり、
古めかしいレトロな建物にも哀愁を覚えるのは、
そういう歴史があるためなんだろうね。
ちなみに、歌手井沢八郎は工藤夕貴の父。
歌唱力はズバ抜けていたけど良くも悪くもかなり個性的な人だったね。
人間味があふれて、私は好きだったな。
(「ああ上野駅」をカラオケで歌うのは70歳以上のはず)
【十分な散歩でRIN(凛)君はご機嫌だけど、私はヘトヘトさ~】

ついでに、東京で待ち合わせ場所というと、上野の西郷像の他に、
・渋谷 忠犬ハチ公前やモヤイ像
・新橋 D51があるSL広場
・銀座 三越前ライオン像
・東京駅 銀の鈴
・新宿駅 西口交番や東口交番
とかが当時は有名だったけど、そこの場所自体が判りにくかったり、
待ち合わせしてる人が群がっていたりと、タバコを吸っている人も多いし、
こういう場所は待ち合わせ場所には不向き。
街での待ち合わせ場所は、なんといっても書店がいい。
カフェのようにお金もかからないし、
相手が少しくらい遅れても立ち読みしてればいいので時間が気にならない。
【大長編作品で(一)から(十)まである。読むだけでも大変!】

前置きばかり長くなったけど、ようやくここから本題に入る。
西郷隆盛は、約20頭の犬を飼う愛犬家だったといわれている。
司馬遼太郎の「翔ぶが如く」(一)には、以下のように書かれている。
以下、コピペ。
「西郷は犬を偏愛した。
 幕末、かれは京都にいるとき「寅(とら)」という名の蘭犬(らんけん)を愛し、
 外出するときは「寅」を曳(ひ)きながら歩いた。
 他藩の同志と酒楼で会するときも「寅」を座敷にあげてつねに自分のそばにすわらせ、
 犬の背を撫でながらひとと話した。
この奇癖は、刺客がとびこんできた場合の用心という効用もあったかもしれない。
 が、当時祇園あたりでは西郷のこの犬好きをむしろ粋だと見ていたようで、
 名妓(めいぎ)君竜の話というのが遺っている。
  「木戸さんや山県さん、伊藤さんなどお歴々衆がよくいらっしゃって
   歓をつくされました。
   ところが西郷さんだけは犬さんといつも御一緒で、
   かならず鰻飯(うなぎめし)をご注文になります。
   犬にもやり、ご自分も召しあがるとすぐ帰ってゆかれました。
   まことに粋のなかの粋を知った方だと思いました」
木戸さんとは桂小五郎こと木戸孝允(たかよし)、
山県さんとは山県有朋(やまがたありとも)、伊藤さんとは伊藤博文を指している。
この時期は、薩長同盟が締結され、尊王攘夷と称して討幕を画策している頃。
坂本龍馬と中岡慎太郎が近江屋で暗殺された1867年(慶応3年)か、その前年のはず。
西郷さんは、薩摩藩士で示現流の名手、
人斬り半次郎と恐れられた「中村半次郎を用心棒にしていた」という説もあるけど、
「翔ぶが如く」によると、犬を護衛にしていたみたいだよね。
犬は気配を察知して吠えるから、現代のように街灯が無い薄暗い京都では
待ち伏せによる闇討ちの危険も多かったに違いないから、犬の護衛は効果的だったはず。
西郷さんの犬には「攘夷家」と命名された黒に白い斑点がある牡犬がいた、という。
これは川辺郡の中条良正から譲り受けた、と記されている。
この犬は、洋服を着た人に吠えるので「攘夷家」なんだと。
西郷さんも、なかなか洒落っ気があるよね。
「雪」と名付けられた白い牝犬、
石像の名工といわれた川辺郡万世町の平川与左衛門から譲り受けているのだけど、
じゃあ、この犬は冬の雪がこんこんと降ってる時に命名したのかな?
「翔ぶが如く」に出てくる名妓「君竜」は祇園の置屋・島村屋の芸妓、
ここには祇園一の美貌を誇ったとされる君尾もいた。
けど、西郷さんはその君尾には興味なし。
西郷さんが熱を上げていたのは、京都の奈良屋というお茶屋の仲居「お虎」。
これが西郷さんばりのデブ女だったらしい。
西郷さんが倒幕のため京都を出る際、そのお虎は見送りをしたという。
その時、西郷さんは
「戦の門出に虎が送ってくるちゅうは縁起がよか」
と喜び、褒美に30両を渡した、といわれている。
美貌の君尾は
「恐らく西郷さんから、女でお金を貰ろうたのはお虎さんだけでしょう」
という逸話も残っている。
戊辰戦争で歌われた
「宮さん宮さんお馬の前のひらひらするのはなんじゃいな」
という「とことんやれ節」。
この歌は長州藩の品川弥二郎が作詞をして、君尾が作曲したといわれている。
【最近、救援ヘリの演習が多いね~、爆音がうるさい!】

1873年(明治6年)、西郷さんが大久保利通らとの征韓論に敗れ、
明治政府の全ての役職を持して鹿児島に帰り、
自らを猟師と称して、山野で犬にイノシシやウサギを追わせ、
猟に没頭していた。
征韓論というのは、簡単にいえば
朝鮮が欧米列強に侵略されたら次は日本が危ない、
「朝鮮は日本の生命線だ」という焦りから、
その前に武力をもって朝鮮を開国させようとする理論。
幕末まで幕府に使えていた武士は明治維新で職を失ない、
不満を募らせる不平浪士をそれに充てようという企てもあった。
1874年(明治7年)2月には、
西郷さんは猟犬13匹を連れて鰻(うなぎ)温泉(指宿市)に行っているから、
「西郷さんは犬を20頭飼っていた」
という逸話は、20頭かどうかはともかく、
多くの犬を飼っていた愛犬家だった、というのは間違いない。
1877年(明治10年)2月、西南戦争が勃発しても、
西郷さんは鹿児島から多くの犬を帯同させている。
「カヤ毛(褐色毛)2匹、黒毛・白ぶち・黒ぶち各1匹」
の計5匹は判明しているけど、もっと他にもいたはず。
西郷さんは直接最前線で薩軍の指揮を取らず、
各地の山野で、犬と狩猟を楽しんでいたらしい。
薩軍は熊本で敗れ、同年6月には宮崎方面に敗走。
同年8月中旬には宮崎県延岡に政府軍に追い詰められ、
ここから可愛岳(えのだけ、727.7m)を突破して
九州山脈の中を鹿児島まで敗走し、9月には自決することになるのだけど、
西郷さんは8月17日に、可愛岳の麓で犬たちと決別することになった。
西郷さんは愛犬との別れを惜しんで、
人目をはばからず男泣きしたという。
【RIN(凛)君専用ビーチで見つけたヤドカリのユンタク】

上野公園の西郷隆盛像が連れているのは,
メスの薩摩犬「ツン」がモデルだといわれている。
この犬は、西郷さんが北薩摩の東郷村に来た時、
住民の前田善兵衛からもらっているのだけど、
仔犬ではなく、すでに成犬だったといわれている。
西郷さんが、多くの犬のうち、なぜこの「ツン」が大事だったのか?
猟犬の薩摩犬だったから?
本当に、西郷さんは「ツン」を一番愛したのか?
そこは、ちょっと調べきれない。
西郷さんが犬たちと楽しんだ狩猟。
ウサギ狩りは、高い場所から下にウサギを追い込むらしい。
この追い込みに「獣道(けものみち)」を走って、
ウサギを追い出す役目の犬は数頭が必要らしく、
かつ獣道を自在に走れる敏捷性の高い小柄な犬でなければならない。
そのため、西郷さんは多数の犬を所有し、
猟犬としての適性に秀でていたのが「ツン」だったのかもしれない。
私の勝手な想像だけどね。
上野公園で西郷さんが連れているのは「薩摩犬のメス犬ツン」だとしても
銅像ではオス犬となっているらしい。
西郷隆盛像は、高村光雲と後藤貞行の共同制作だけど、犬は後藤貞行が担当。
後藤貞行が誤ってオスの薩摩犬をモデルにして造ってしまったらしい。
また、西郷さんの顔も、実際とは似ても似つかぬというらしいから、
著名な彫刻家にしては、かなりな「テーゲー」だよね。
【獲物を見つけると姿勢を低く近づく、ジャッカルみたいだね】

西郷像がある上野公園の正式名称は「上野恩賜公園」というのだけど、
鹿児島出身の西郷隆盛が、なぜ上野公園にあるのかを調べてみた。
上野公園付近には、上野の森美術館、東京文化会館、東京都美術館、国立博物館、
上野動物園などがあるけど、その丘一帯、
東京ドーム7個分にもなる約30万5千坪は寛永寺の広大な境内で、
幕末の1868年(慶応4年)彰義隊と官軍の戦いで寛永寺の多くの建物は焼失し荒廃、
明治維新後は、寛永寺は政府に没収。
1873年(明治6年)日本最初の公園用地に指定され、
明治天皇から東京市民に下賜されたので「恩賜公園」となった。
西郷は西南戦争をおこして政府軍と戦った「逆賊」とされていたのが、
死後10年ほどたつと、名誉回復をはかる動きが出始め、
1889年(明治22年)大日本帝国憲法(明治憲法)が制定されたときの大赦で
西郷の罪が許され、その名誉も回復した。
西郷を称(たた)える銅像を建てる機運が高まり、
銅像は広く募金を集めて建てることになった。
西郷は、江戸城を無血開城に導き、江戸の町を戦火から救ったことで、
江戸(東京)市民にも人気があった。
上野は庶民が住む下町にあり、そこが天皇から市民に下賜された公園となり、
西郷にとっても上野の山は彰義隊と戦ったゆかりの地。
ということで、西郷像は上野に建てることが決定。
西郷像は政府が建てたのではなく、東京市民から慕われた西郷が、
市民による募金で銅像になるのだから、
軍服や大礼服のような堅苦しい姿では建立の趣旨に合わない。
なので、西郷が普段着でイヌをつれて山にイノシシ狩りにいく姿をイメージして
造られ、また西郷像の向きは皇居の方角ではなく、
上野の山の高台から東京の町を見守るような方角を向いて建てられた、といわれている。
【ここは私の背丈くらいある。高い所に上がって付近を見張りたいRIN(凛)君】

薩摩犬(さつまいぬ)は、、黒い瞳、ピンと立った耳、ピンと立った左尾で差し尾、
イノシシ猟で活躍した猟犬なので俊敏でどう猛、飼い主には温和で従順、
飼い主以外にはなつかないなどの特長をもった鹿児島県原産の中型犬で
「絶滅した」
といわれていたのが、昭和の終わりごろ、
鹿児島県の下甑(しもこしき)島の山中で
薩摩犬の特長を色濃く残した犬が発見され、
1989年(昭和64年)から交配を重ね、1996年(平成8年)には、
血統が安定するといわれる4代目7匹に、
「薩摩犬」として血統書が発行された。
1983年(昭和58年)に「川上犬」が長野県の天然記念物に指定され、
1995年(平成7年)には、「琉球犬」が沖縄県の天然記念物に指定されているが、
「薩摩犬」は、地元の保存会で、種の保存、固定化の努力がなされている状況で、
現段階では「薩摩犬」は、国および県の天然記念物には指定されていない。
琉球犬の種の保存活動は、今でも第一人者の新垣義雄先生たちが、
私財を投げ打って個人で行っている。
保存活動は高齢化と後継者不足で、今後の見通しは暗雲が垂れ込めている。
琉球犬の純種は現在でも500頭未満といわれ、今後も減少必至は確実。
今のうちに、RIN(凛)君の嫁さんでも貰うべきかな。
【何でもシークワーサーを入れればいいってもんじゃない!失敗作!美味しくない!】