
今日は、朝9:55からNHK総合-沖縄で、
全国高校野球選手権沖縄大会の準決勝を放映します。
その第一試合が注目のカード、
「興南高校 VS 沖縄尚学高校」
ともに甲子園出場常連の沖縄を代表する強豪校。
これは観ないといけない。
私は沖縄尚学を応援しているのです。
第2試合は、観れないけど、
「糸満高校 VS 宮古高校」
昨夏甲子園に行った糸満高校は、
甲子園でたしか1勝も上げられていないはず。
糸満高校の目標は、いつも「甲子園の切符」だから、
県大会で優勝することを「ゴール」にしている感じ。
そのため、甲子園での晴れの舞台では、
「何とか1勝出来ればいいね~」
という、棚からボタモチみたいな、モチベーション自体が低い。
いつも実力を出し切れずに、しかもランナーが出ると
バントで送るばかりのセコい戦いぶりで不完全燃焼で負けるだけ。
観ている方も面白くないさ~。
なので、第2試合は糸満高校の応援はしないし、
そんな戦い方を観てストレスを感じたくないから観ない。
第2試合は、宮古高校が勝つ、と予想。
糸満高校は、ここまで3試合を戦い、延べ24得点で10失点。
戦った相手が美里(みさと)工業、嘉手納、知念と
強豪校だったこともあるけど、投手力に難がありそう。
宮古高校は、ここまで4試合。
延べ24得点で失点1。
ここの松川投手は、春も全6試合を投げぬいて決勝戦まで進んだ。
ここまでの4戦の対戦校も、浦添工業、読谷(よみたん)、中部商業、
具志川商業と、決して楽な相手ではない。
なので、投手力の差で、宮古の勝ちと予想。
宮古高校が甲子園に出られるといいね。
第1試合の興南高校は甲子園の常連校。
2010年(平成22年)には、史上6校目の春夏連覇も達成している。
ここまで3試合を戦い、
・2回戦 対石川高校 6対0
・3回戦 対南風原(はえばる)高校 4対1
・準々決勝 対八重山高校 3対0
チーム打率。298.
ランナーが出ると必ずバントで送る我喜屋(がきや)監督らしい、セコい野球。
チーム打率よりも、失点1の投手力が怖い。
私が応援する沖縄尚学高校は、
・1回戦 対陽明高校 6対1
・2回戦 那覇商業高校 7対6
・3回戦 対那覇西高校 7対0(7回コールド)
・準々決勝 対普天間(ふてんま)高校 4対3
と失点が目立つ。
というより、2回戦の那覇商業高校戦では、
9回裏に3点差を追いつき延長戦、
11回表に那覇商業に3点を奪われ、ここまでと思ったら
その裏に4点を入れて、劇的というより奇跡的なサヨナラ勝ち。
準々決勝でもサヨナラ勝ちと、
ハラハラドキドキというより、今年の戦力は、特に投手力が弱すぎる。
残念だけど、興南高校が勝ちそう。
沖縄の自慢というと、高校野球とゴルフの他に何かあったかな~。
それくらい、高校野球への関心が高い。
子どもの野球チームも全県下にあり、
厳しい指導だけでなく、選手のモチベーションも本土の比ではない。
親も、ピクニックに出かけるように、
お弁当や飲み物を持参で、応援に押しかけてくる。
甲子園で沖縄代表と対戦するチームが、
応援のすごさを警戒しているけど、
甲子園に限ったものではなく、子どもの野球の頃から
ふつうに、うるさい。というより、うるさすぎる。
私の南風原(はえばる)在住時は、自宅が野球場のすぐ前だった。
休みのたびに、野球の応援にやってくる父兄の車が
集落内道路も通行できないくらいにあちこち勝手に停めてしまって、
ある時は、私が帰宅したら、我が家に知らない車が勝手に2台も
駐車されていたさ~。
応援の声援は、もうどんちゃん騒ぎ。指笛は当然。
もう、騒々しいなんてもんじゃないさ~。
それくらい、子どもに夢を託しているんだよね。
子どもも、その期待に応えようと頑張っている。
なので、沖縄は高校野球で強豪なのは、
子どもの頃から培われたモチベーションにありそう。
1972年(昭和47年)の4年前、1968年(昭和43年)、
興南高校は我喜屋・現監督が主将を務め、
Best4まで勝ち進み、沖縄県民に興南旋風を巻き起こし、
本土の高校と十分戦える自信と郷土の誇りを感じ取りました。
この時の準々決勝は、優勝した興国高校(大阪)。
14対0の一方的なボロ負けで、私はこの時テレビで観ていた。
興南高校の守備時間が長く、外野は何度も万歳しては
興国の走者がグルグル走り回り、
「もう勝ちは決まってんだから、少しくらい手加減してあげなよ」
と思って観ていたのを想い出します。
戦後初の沖縄代表として参加したのは、1958年(昭和33年)の首里高校。
当時の沖縄は日本返還前で、アメリカの統治下にあった。
1958年の甲子園は第40回記念大会として、
大会史上初めて全都道府県に沖縄の代表校を加えた47校で開催されました。
甲子園大会は日本高等学校野球連盟が主催しているし、
日本の高校だけが出場するのは当然だけど、当時の沖縄はアメリカの植民地だから、
パスポートで本土に渡航(船便)したのです。
首里高校は1回戦で福井の強豪、敦賀高校とぶつかり、奮戦むなしく3-1で敗退。
首里高ナインの数人がビニール袋にベンチ前の土を詰め、
甲子園の土を船で持ち帰りましたが、那覇港で彼らを待っていたのは冷たい仕打ち。
アメリカの法律では甲子園の土は「外国の土」ということで、
植物検疫法に抵触して持ち込み不可能だったので、
那覇港で海に捨てられてしまったのです。
後日、みかねた日本航空の客室乗務員の女性が、
甲子園の小石を40個近く集めて沖縄に届けました。
検疫法にひっかかるのは、土のみで石は含まれなかったからだそうです。
首里高校の校庭には、甲子園出場記念碑があり、
この時の石がはめ込まれているそうです。
冒頭の画像と最後の画像は「B円」という、アメリカ占領下の通貨です。
1945年から1958年9月まで、
米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美 群島(トカラ列島含む)で、
通貨として流通したアメリカ軍発行の軍票。
1948年から1958 年までは、唯一の法定通貨で、
首里高校が甲子園に出場した翌月から米ドルに代わり、1972年から円になったのです。