ハイサイ、RIN(凛)ですニコニコ


【我が家にほど近い普久川(ふんがわ)ダム、たしかに変な読み方ですよね~】



我が家から車で8分ほど行ったところに普久川(ふんがわ)ダムがあります。

RIN(凛)君とお出かけの時は、

車酔いのRIN(凛)君の、最初の休憩ポイントになっています。

我が家の近くには、また別の辺野喜(べのき)ダムがあり、

こっちも、だいぶ近そうだけど、林道が迷路のようにあるので、

今まで行ったことがありません。

辺野喜ダムには湖畔公園もあるので、

そのうちRIN(凛)君と行かなくちゃいけないね~。

5月28日の記事、

「【沖縄生活】道路標識の地名を見て、沖縄人の苗字を考える 」


にも書いたけど、

1609年に琉球国を植民地として占領した薩摩藩は、

1624年(寛永元年)、「大和(やまと)めきたる名字の禁止令」を令達し、

「日本本土で使われているような苗字を使ってはダメ!」

と琉球国民に命じたことで、

「中村→仲村」など、本土とは表記が異なる字に置き換わりました。

そのため、沖縄では「福原→普久原、譜久原」となっているのです。

であるなら、普久川(ふんがわ)ダムの普久川は、

本土の福川の当て字ということになり、

読み方も本来「ふくかわ」になるはずが「ふんがわ」…。なんか変ですよね。

これはウチナーンチュであっても、若い人には読めないと思うよ。

娘婿のウチナーンチュでさえも

「なにそれ、ハハハ、聞いたことないさ」

という始末。

国頭村(くにがみそん)の国頭は、頭を「カミ」と読む。

私は以前、やんばるの森が古代信仰の「神」と関係あると思って、

もういろんな本を読んで調べたことがありました。

国頭の語源を調べたり、柳田国男の「海南小記」や「海上の道」を何度も読んで、

南方に、何かヒントがあるのかも、などと、

郷土研究家なみに調べたことがありました。

また柳田国男が1921年(大正10年)1月5日~2月7日まで沖縄旅行をしていて、

「南島旅行見聞記」によると、

柳田国男は山原(やんばる)にも来ていたことがわかりました。

「島袋源一郎君に援助せられて国頭の山に入ってみた」

というので、単に道案内だけでなく、住民の方言の通訳もしたはずだから、

各部落で伝承や風習なども調べて歩いたに違いないと邪推してみたのですが、

国頭村史にも出ていないし、今のところ国頭の頭を「カミ」と呼ぶ理由が不明。

「そんなの、どうでもいいじゃん」

で済むようなことが、私には気になる。

安田を「あだ」と読むのも不思議だし、楚洲(そす)の「楚」も

四面楚歌(周りが敵だらけで孤立無援)から考えれば「辺境地」とも解釈できますが、

四面楚歌は、中国の楚の項羽が垓下という所で、漢の劉邦の軍に囲まれたとき、

夜、四方の漢軍の中から項羽の故郷である楚の国の歌が聞こえてきたので、

楚の国の民がすでに漢軍に降伏したのかと驚き、

もはやこれまでかと諦めて「垓下の歌」を歌ったというのが語源で、出典は史記。

「四方で楚の国の歌が…」と、漢字もそのままです。

かと思えば、ズワイガニは「楚蟹」と書いたり、すっきりとした「清楚」でも

「楚」が使われていて、なぜ「楚洲(そす)」なのか、よくわからない。

郷土の歴史、私が住んでいるこの地で、昔なにがあったのか気になるのですが、

国頭村史は、アレしたコレしたという小役人のくだらん自慢話ばかりだったさ~。

それはともかく、国頭を、方言では「くんじゃん」と言うので、

普久川を「ふんがわ」と言うのかな~、というあやふやな推定しか今はできんさ~。


【山原(やんばる)の中心部から、やや東寄りに普久川(ふんがわ)ダムがあります】



山原(やんばる)には、国管理のダムが9、県管理のダムが2、

合計11のダムがあり、沖縄本島の人々の生活用水を支えています。

山原(やんばる)の、下記5つのダムを

・辺野喜(べのき)ダム 国頭村

・普久川(ふんがわ)ダム 国頭村

・安波(あは)ダム 国頭村

・新川(あらかわ)ダム  東村

・福地(ふくじ)ダム 東村

北部5ダム(あるいは東系列5ダム)と呼び、

調整水路(トンネル)で結ばれて統合運用されています。

つまり、標高の高いダムから、順に導水管で福地ダムに

水が送られてくる仕組みになっているのです。

最も標高の高いダムが「辺野喜(べのき)ダム」、

ここから「普久川(ふんがわ)ダム」に水が送られ、

さらに「安波(あは)ダム」に送られ、

「福地(ふくじ)ダム」に届く。

「新川(あらかわ)ダムは、単独で「福地(ふくじ)ダム」に届く。

貯水容量の小さい辺野喜、普久川、新川ダムを「取水ダム」、

貯水容量の大きい安波、福地ダムを「貯留ダム」として位置づけています。

さらに、以下の4つのダム、

・漢那(かんな)ダム 宜野座(ぎのざ)村

・羽地(はねじ)ダム 名護市

・大保(たいほ)ダム 大宜味村

・金武(きん)ダム 金武(きん)町

を加えて、北部9ダムとしています。

最も標高の高いダムが「辺野喜(べのき)ダム」、

ここから「普久川(ふんがわ)ダム」に水が送られる、

それが我が家からほど近い、

つまり、我が家は海抜約80mですが、

山原(やんばる)中央山脈のふもとにある、というわけです。


沖縄本島は、中南部の平野部に人口や産業が集中し、北部は利便性が悪く、

人口も産業も少なく、特に名護以北の山村(大宜味村、東村、国頭村)の

山岳地帯は、ウチナーンチュでも「過疎」と認定されています。

平野部では雨水をためることが難しいので、

必要とされる多くの水を中南部だけでまかなうには限界がある。

そのため、山の多い北部にダムを造って、

はるばる中南部まで導水管によって水を送っているのです。

沖縄には「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」、つまり、「命こそ宝」

生命は何よりも大切なもの、命こそが尊い一番大事な宝、命を粗末にするな、

という名句があるのですが、

山原(やんばる)のダムの水源は、県民の「水どぅ宝」ともいえるはずです。

沖縄の年間降雨量は、約 2,000mm 。全国平均約 1,700mm を上回ります。

でも、年間を通して平均的に降雨があるのではなく、

5~6 月の梅雨期、及び 8~9 月の台風期に年平均降雨量の約半分(45 %)と

偏っているので、ダムが必要不可欠になのです。



【きれいに植栽を管理しているけど、ふだんはトイレ休憩くらいで使われる程度です】



沖縄返還の1972年(昭和47年)当時の、沖縄県の人口は約86万人。

2015年4月1日現在の沖縄県推計人口は、1,420,793人で、

1972年から43年経って、県人口は約1.65倍に増え、

県文化観光スポーツ部によると、2014年度の入域観光客数は705万6200人。

これは航路、海路の合計人数なので正味の観光客ではないのですが、

県人口の約5倍もの人々が沖縄を訪れているのです。

私たちの生活が便利になったり、県人口や来訪者が増えた分、

使う水の量も増えていることになりますよね。

1974年(昭和49年)の沖縄県の水の使用量は24万6000立方メートルだったのが、

29年後の2003年(平成5年)には44万3000立方メートルと、

水の使用量は約1.8倍に増えています。

(東京・霞が関ビルの体積は、50万立法メートル)

生活用水使用量を給水人口で除した一人一日平均使用量(都市活動用水を含む)、

「生活用水の1人1日平均使用量」

2009年(平成21 年)の地域別の比較では、

全国1位が沖縄の 325リットル /人・日、最低が北九州の 258リットル/人・日。

1998年(平成10年)のデータですが、この年の日本平均は289リットル。

(一般的なドラム缶は200リットル)

バケツ1杯が約12リットルとすると、沖縄県民は毎日バケツ約27杯の水を使い、

北九州市民は毎日バケツ約24杯。

このバケツ3杯の差って、なんだろうね~?

2リットルペットボトルでは毎日18本分、北九州市民より沖縄県民が多く使っている。

昔から、水不足に悩まされてきた沖縄が、実は日本一水を使うとは…。

なんでかね~?

生活用水といっても、最初に思いつくのは飲み水ですが、

風呂、トイレ、洗濯で7割を占めるのだそうです。

沖縄では、我が家のように浴槽がない家が多いさ~。

ウチナーンチュのトイレ回数はナイチャーと変わらんはずだし、

ウチナーンチュの洗濯回数が異常に多いとも考えられない。

どうして沖縄県人の水の使用量が全国トップなのか、

なかなか思い当たらんさ~。

現在、南太平洋上に台風9号、10号、11号と3つの台風が南西諸島を脅かしていますが、

台風の被災は困るものの、台風がもたらす雨は、沖縄にとっては

大切な水の供給源でもあるのです。


【北部5ダムが連携されていることを説明する看板、ほとんど誰も見ないと思うよ】