ハイサイ、RIN(凛)です
ターシャ・テューダーの「ターシャの庭」は、
一年中、花に囲まれた庭でのスローライフ。
ターシャは、まさに究極の自己満足の世界を創り上げたのですが、
私は、花だけではなくて、食べられるものも同時に作りたい。
五感で、自然を感じられる農園作りをしたいのです。
その割には、雑草も抜かない手抜き農法ですが、
ターシャのように、1年中、花が咲くようにしたいのです。
「花は見て美しい、安らぎがあり癒される」
という観賞目的もありますが、
ミツバチや昆虫、野鳥を呼び,
農産物や果樹の交配のお手伝いをしてほしいからです。
そういう考えで、タネを撒けば簡単に生えて、花が咲き、
花も綺麗な「マツバボタン(松葉牡丹)」は、
デリケートで弱々しいポピーより、私は多用します。
多肉質の細い葉っぱを茂らせながら、地面を這うように伸びる「マツバボタン」は、
原産地がブラジル、アルゼンチンあたり。
炎天下の中元気に咲くけど、花は昼前にしぼんでしまう。
「マツバボタン」は一年草だけど、花は一日花で、次々につぼみが開花する。
土壌も選ばず、乾燥に強いので、別名は「ヒデリソウ(日照草)」
挿し木で 簡単に殖やせるので、長らく彩ってくれる、「マツバボタン」は身近な花。
マツバボタン(松葉牡丹)は1日草、ハツカソ(ボタン、牡丹)は二十日草、
ジニアは百日草で、サルスベリは百日紅(ヒャクニチコウ)、
ダルマソウは千日紅(センニチコウ)、ハマユウは浜万年青(ハマオモト)…、
いろんなのがあるんだね~。
オキナワマツバボタン(沖縄松葉牡丹)は、
南西諸島(奄美大島~沖縄諸島)固有種。海岸の石灰岩上に自生しています。
太平洋から直線距離で1kmの我が家の庭にも、
「オキナワマツバボタン」自生しています。
地下の根と地上茎が越冬する多年草で、直径約1cm程度の小さい黄色~橙黄色の花を
マツバボタン(松葉牡丹)というと、正岡子規の短歌を想い出します。
「庭もせに 昼照草の咲きみちて 上野の蝉(せみ)の 声しきるなり」
「庭狭しとばかりに昼照草がいっぱいに咲き満ちている。
上野の森には蝉(せみ)の声がしきりである」
「庭もせに」の「「せ」は「狭く」、「もせに」で「いっぱいに」という意味で、
「昼照草」はマツバボタン(松葉牡丹)」のことです。
当時の住居は夏目漱石の下宿で根岸、上野の森はすぐ近くでした。
この短歌を詠んだのは1898年(明治31年)8月、正岡子規が32歳の時です。
子規は、1895年(明治28年、29歳)に日清戦争に従軍(従軍記者)し、
中国から帰国途中で喀血、重体になり入院、
退院後は松山中学教員夏目金之助(漱石)の下宿で一時療養後、上京。
喀血したことから「鳴いて血を吐く」といわれるホトトギスと自分を重ね合わせ、
ホトトギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号とします。
翌1896年(明治29年、30歳)結核菌が脊椎を冒し、
脊椎カリエスを発症していると診断され手術、以降臥床(がしょう)の日が多くなる。
1897年(明治30年、31歳)俳句雑誌「ホトトギス」を創刊し、
俳句分類や与謝蕪村などを研究、俳句の世界に大きく貢献。
漱石の下宿に同宿して過ごし、臥床(がしょう)のまま俳句会などを開く。
1898年(明治31年、32歳)2月~3月にかけて、
新聞に「歌よみに与ふる書」を10回連載。
この歌論は、短歌革新を目指し、万葉集や源実朝の金槐(きんかい)集を褒(ほ)め、
紀貫之(きのつらゆき)や古今集、桂園派を中心とした歌壇を批判し、
平安中期以降、綿々と続く形式にこだわらない、短歌の革新運動に着手する。
3月に新俳句を刊行し、そして8月、
「わが庭」と題した連作13首のなかの第1首目が、
前述のマツバボタン(松葉牡丹)の歌でした。
結核から来る脊椎カリエスで寝たきりの生活で苦しみながら、多くの作品を残し、
子規は、この4年後1902年(明治35年)36歳の若さで亡くなりました。
マツバボタン(松葉牡丹)の花言葉は、
「可憐、可愛らしさ、にぎやか、無邪気、忍耐、温和」
おそらく南米だと思うけど、こんな伝説もあります。
昔 短気な青年がいて、ある暑い夏に、些細な事で喧嘩が始まりました。
青年は、相手にピストルを向けた瞬間、
つまづいて地面を見ると、松葉牡丹が笑いかけていた。
青年は、和やかな気持ちになり 穏やかになりました。
花言葉の忍耐や温和は、この青年の心理であり、
夏の暑さに耐えて、可愛らしく咲く、
そういうことが、花言葉の由来なのかもしれませんね。
マツバボタンの花をかきむしるRIN(凛)君には「温和」が必要さ~。
RIN(凛)君は、同じボタンでも唐獅子牡丹系じゃ、困るさ~ね~。

ターシャ・テューダーの「ターシャの庭」は、
一年中、花に囲まれた庭でのスローライフ。
ターシャは、まさに究極の自己満足の世界を創り上げたのですが、
私は、花だけではなくて、食べられるものも同時に作りたい。
五感で、自然を感じられる農園作りをしたいのです。
その割には、雑草も抜かない手抜き農法ですが、
ターシャのように、1年中、花が咲くようにしたいのです。
「花は見て美しい、安らぎがあり癒される」
という観賞目的もありますが、
ミツバチや昆虫、野鳥を呼び,
農産物や果樹の交配のお手伝いをしてほしいからです。
そういう考えで、タネを撒けば簡単に生えて、花が咲き、
花も綺麗な「マツバボタン(松葉牡丹)」は、
デリケートで弱々しいポピーより、私は多用します。
多肉質の細い葉っぱを茂らせながら、地面を這うように伸びる「マツバボタン」は、
原産地がブラジル、アルゼンチンあたり。
炎天下の中元気に咲くけど、花は昼前にしぼんでしまう。
「マツバボタン」は一年草だけど、花は一日花で、次々につぼみが開花する。
土壌も選ばず、乾燥に強いので、別名は「ヒデリソウ(日照草)」
挿し木で 簡単に殖やせるので、長らく彩ってくれる、「マツバボタン」は身近な花。
マツバボタン(松葉牡丹)は1日草、ハツカソ(ボタン、牡丹)は二十日草、
ジニアは百日草で、サルスベリは百日紅(ヒャクニチコウ)、
ダルマソウは千日紅(センニチコウ)、ハマユウは浜万年青(ハマオモト)…、
いろんなのがあるんだね~。
オキナワマツバボタン(沖縄松葉牡丹)は、
南西諸島(奄美大島~沖縄諸島)固有種。海岸の石灰岩上に自生しています。
太平洋から直線距離で1kmの我が家の庭にも、
「オキナワマツバボタン」自生しています。
地下の根と地上茎が越冬する多年草で、直径約1cm程度の小さい黄色~橙黄色の花を
不定期に咲かせますが、
晴天の日の数時間しか開花しないので、目立たない。
環境省レッドリストの絶滅危惧II類(VU)に指定されているけど、なんでかね~?
マツバボタン(松葉牡丹)というと、正岡子規の短歌を想い出します。
「庭もせに 昼照草の咲きみちて 上野の蝉(せみ)の 声しきるなり」
「庭狭しとばかりに昼照草がいっぱいに咲き満ちている。
上野の森には蝉(せみ)の声がしきりである」
「庭もせに」の「「せ」は「狭く」、「もせに」で「いっぱいに」という意味で、
「昼照草」はマツバボタン(松葉牡丹)」のことです。
当時の住居は夏目漱石の下宿で根岸、上野の森はすぐ近くでした。
この短歌を詠んだのは1898年(明治31年)8月、正岡子規が32歳の時です。
子規は、1895年(明治28年、29歳)に日清戦争に従軍(従軍記者)し、
中国から帰国途中で喀血、重体になり入院、
退院後は松山中学教員夏目金之助(漱石)の下宿で一時療養後、上京。
喀血したことから「鳴いて血を吐く」といわれるホトトギスと自分を重ね合わせ、
ホトトギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号とします。
翌1896年(明治29年、30歳)結核菌が脊椎を冒し、
脊椎カリエスを発症していると診断され手術、以降臥床(がしょう)の日が多くなる。
1897年(明治30年、31歳)俳句雑誌「ホトトギス」を創刊し、
俳句分類や与謝蕪村などを研究、俳句の世界に大きく貢献。
漱石の下宿に同宿して過ごし、臥床(がしょう)のまま俳句会などを開く。
1898年(明治31年、32歳)2月~3月にかけて、
新聞に「歌よみに与ふる書」を10回連載。
この歌論は、短歌革新を目指し、万葉集や源実朝の金槐(きんかい)集を褒(ほ)め、
紀貫之(きのつらゆき)や古今集、桂園派を中心とした歌壇を批判し、
平安中期以降、綿々と続く形式にこだわらない、短歌の革新運動に着手する。
3月に新俳句を刊行し、そして8月、
「わが庭」と題した連作13首のなかの第1首目が、
前述のマツバボタン(松葉牡丹)の歌でした。
結核から来る脊椎カリエスで寝たきりの生活で苦しみながら、多くの作品を残し、
子規は、この4年後1902年(明治35年)36歳の若さで亡くなりました。
マツバボタン(松葉牡丹)の花言葉は、
「可憐、可愛らしさ、にぎやか、無邪気、忍耐、温和」
おそらく南米だと思うけど、こんな伝説もあります。
昔 短気な青年がいて、ある暑い夏に、些細な事で喧嘩が始まりました。
青年は、相手にピストルを向けた瞬間、
つまづいて地面を見ると、松葉牡丹が笑いかけていた。
青年は、和やかな気持ちになり 穏やかになりました。
花言葉の忍耐や温和は、この青年の心理であり、
夏の暑さに耐えて、可愛らしく咲く、
そういうことが、花言葉の由来なのかもしれませんね。
マツバボタンの花をかきむしるRIN(凛)君には「温和」が必要さ~。
RIN(凛)君は、同じボタンでも唐獅子牡丹系じゃ、困るさ~ね~。