ハイサイ、RIN(凛)です
沖縄本島最北のコンビニは、国頭(くにがみ)村奥間(おくま)のファミマですが、
ここの近くの大嶺農園で、マクワウリを2個100円で買いました。
大嶺農園は完熟豚糞堆肥とEM、米ぬかを使う有機農法にこだわり、
私も野菜の作り方など、ここでよく教えて頂いています。
また、タネや苗の交換などもしています。
買ったのは、果皮は黄色、果肉は白色「キンマクワウリ(金真桑瓜)」
ウリ科キュウリ属のつる性一年草、雌雄同株のメロンの仲間です。
メロンの原産地は、北アフリカ、中近東、インドなどの諸説ありますが、
紀元前2000年頃には古代エジプトやギリシャでは栽培されたとされています。。
当時は食用として食べるだけでなく、薬用としても利用されていたそうです。
メロンという名前は、ギリシャ語の
「melopepon(りんごのようなうり)」
が語源といわれています。
ヨーロッパに伝わったメロンは、品種改良が重ねられて網目のある「西洋系メロン」、
野生種が改良されながら、シルクロードを通り、中国に伝わったものは、
品種改良されてマクワウリなどの「瓜(ウリ)」」となりました。
メロンは暖かい地方でしか栽培できなかったたため、
北ヨーロッパ地域で栽培されるようになったのは、
14~16世紀以降といわれています。
日本へは中国・韓国を経て渡来しました。
2000年前の弥生時代初期の遺跡から、
マクワウリやシロウリの種子が発掘されていますから、
かなり古い時代に渡来したようです。
朝鮮半島から稲作が伝わり、弥生時代が始まり、弥生土器が作られますが、
大陸から、稲作と共に青銅器や鉄器、ガラス、布が伝えられた頃に
マクワウリやシロウリも渡来したものと考えられます。
・BC1世紀 吉野ヶ里に墳丘墓がつくられる
・BC57「倭奴国王」が後漢の光武帝から金印を授かる
これらよりはるか前に、
「日本ではマクワウリやシロウリが栽培されていた」
というわけです。
2世紀頃から、美濃国(岐阜県南部)真桑村(のちの真正町、現:本巣市)が
良品の産地であったことから、
「マクワウリ(真桑瓜)」の名前が付けられたようです。
雑草化したものは「雑草メロン」と呼ばれ、
西日本を中心に今でも自生しているようですが、
この雑草メロンは苦味が強く、食用には適さないようです。
マクワウリは、メロンほどの甘味はありません。
今のような甘みが強く網目がある西洋系のメロンは、
明治時代に日本へ入ってきました。
イチゴの「福羽(ふくば)」という品種を育成した
明治時代の農学者・福羽逸人(ふくばはやと)博士によって
フランスやイギリスからメロンの種子が輸入され、
品種改良を行いメロンの育種・育苗が行われました。
大正時代には温室栽培が取り入れられ、
本格的にメロン栽培が始まり、市場に出回るようになりましたが、
とても高価なもので一部の上流階層の人しか買うことはできませんでした。
今のようにメロンが普及したのは、戦後になってからです。
昭和37年に、西洋のスペインメロン(シャランテ)とマクワウリの交配種、
「プリンスメロン」が登場すると、
安価で味に当たり外れのないメロンとして、一般家庭にも普及していきました。
万葉集にも「宇利(ウリ)」という語が詠まれています。
万葉集は、柿本人麻呂、山部赤人を筆頭にして、
男女の愛を歌った相聞(そうもん)の歌が多いのですが、
山上憶良(やまのうえのおくら)が、筑前(現・福岡県)国守として国内を巡行視察し、
神亀五年(728)に嘉摩群(かまのごおり)で撰定した
歌六首(八〇〇~八〇五)の中の二首に、「宇利(ウリ)」が出てきて、
子を思う親心を歌った万葉集の中でも特異な歌を詠んでいるのです。
私の中学か高校の教科書に、この歌が載っていたような記憶がありますね。
万葉集 巻五 八〇二、八〇三
子らを思へる歌一首 併せて序
釈迦如来の、金口(こんく)に正に説きたまはく、
「等しく衆生(しゅじゃう)を思ふことは、羅ご羅の如し」と。
又説きたまはく、「愛(うつくし)びは子に過ぎたるはなし」と。
至極の大聖すら、なほ子を愛ぶる心あり。
いはむや世間(よのなか)の蒼生(あをひとくさ)の、誰かは子を愛びざらめや。
宇利(ウリ)食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば
まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ 眼交(まなかひ)に
もとなかかりて 安寐(やすい)し寝(な)さぬ
反歌
銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も 何せむに
勝れる宝 子に及(し)かめやも
この意味は、
釈迦如来がその貴いお口で正に説かれたのには、
「等しくあらゆる生き物をいつくしみ思うことは、わが子を思うのと同じである」
また、「愛は子に対する愛に勝るものはない」ともおっしゃった。
この上ない大聖人ですらわが子を愛する心がある。
まして世の中の人々のなかに、誰が子を愛さない者があろうか。
瓜を食べると子供のことが思われる。栗を食べると一層子供のことが偲ばれる。
子等はどこから来たものであろうか。
眼前にむやみにちらついて、なかなか寝付けないなぁ。
反歌(はんか)
銀も金も玉も、子等の愛に比べれば、何になろうか。
どんな秀れた宝も、子供には及ばない。
人間が初めて理解する味覚は「甘味」だそうです。
でも、万葉の時代には砂糖は無い。
日本に砂糖を伝来させたのは、奈良時代の鑑真(752年)といわれていますから、
万葉の歌を詠んだ時期は、この少し前になるのです。
ということは、「瓜」や「栗」は、
とても美味しいものとされていたのだと想像できます。
その「瓜」や「栗」を自分が食べると、
それを子供にも食べさせたいと歌っているわけです。
今の時代だったら、マンゴーかな。
瓜(ウリ)は、私が子供の頃は夏の果物で、
井戸に吊るして冷やして食べた味が懐かしく想い出されます。
題詞に「子らを思ふ歌」とあり、
序文で、わざわざ釈迦のことばを引用して、子への愛を述べています。
聖人の釈迦ですら、わが子を愛さずにはおれなかったのだから、
ましてや凡夫が子を愛さないということがあろうかといっているわけです。
釈迦の「衆生を等しく思うこと羅ご羅(らごら)のごとし」の「羅ご羅」とは、
釈迦の子供の名前なのです。
変な名前ですよね。
あのお釈迦様が、修行中に、
妻の耶輸陀羅(やしゅだら)との間に、子を産ませたことも驚きですけど、
「障害(ラーフラ)が生じた」
として、実子に「ラーフラ(羅ご羅、らごら)」と名付けているのです。
なんか、ひどくない?
「らごら」というと、思い出すのが、
元読売巨人軍の王貞治さんが、TVのCMで、
「亀屋万年堂のナボナは、お菓子のホームラン王です」
と、かつて言っていたのが、
当時の私は「ラボラ」に聞こえていました。
もう50年近く昔のことですから、若い方はそんなこと知るわけないですよね~。

沖縄本島最北のコンビニは、国頭(くにがみ)村奥間(おくま)のファミマですが、
ここの近くの大嶺農園で、マクワウリを2個100円で買いました。
大嶺農園は完熟豚糞堆肥とEM、米ぬかを使う有機農法にこだわり、
私も野菜の作り方など、ここでよく教えて頂いています。
また、タネや苗の交換などもしています。
買ったのは、果皮は黄色、果肉は白色「キンマクワウリ(金真桑瓜)」
ウリ科キュウリ属のつる性一年草、雌雄同株のメロンの仲間です。
メロンの原産地は、北アフリカ、中近東、インドなどの諸説ありますが、
紀元前2000年頃には古代エジプトやギリシャでは栽培されたとされています。。
当時は食用として食べるだけでなく、薬用としても利用されていたそうです。
メロンという名前は、ギリシャ語の
「melopepon(りんごのようなうり)」
が語源といわれています。
ヨーロッパに伝わったメロンは、品種改良が重ねられて網目のある「西洋系メロン」、
野生種が改良されながら、シルクロードを通り、中国に伝わったものは、
品種改良されてマクワウリなどの「瓜(ウリ)」」となりました。
メロンは暖かい地方でしか栽培できなかったたため、
北ヨーロッパ地域で栽培されるようになったのは、
14~16世紀以降といわれています。
日本へは中国・韓国を経て渡来しました。
2000年前の弥生時代初期の遺跡から、
マクワウリやシロウリの種子が発掘されていますから、
かなり古い時代に渡来したようです。
朝鮮半島から稲作が伝わり、弥生時代が始まり、弥生土器が作られますが、
大陸から、稲作と共に青銅器や鉄器、ガラス、布が伝えられた頃に
マクワウリやシロウリも渡来したものと考えられます。
・BC1世紀 吉野ヶ里に墳丘墓がつくられる
・BC57「倭奴国王」が後漢の光武帝から金印を授かる
これらよりはるか前に、
「日本ではマクワウリやシロウリが栽培されていた」
というわけです。
2世紀頃から、美濃国(岐阜県南部)真桑村(のちの真正町、現:本巣市)が
良品の産地であったことから、
「マクワウリ(真桑瓜)」の名前が付けられたようです。
雑草化したものは「雑草メロン」と呼ばれ、
西日本を中心に今でも自生しているようですが、
この雑草メロンは苦味が強く、食用には適さないようです。
マクワウリは、メロンほどの甘味はありません。
今のような甘みが強く網目がある西洋系のメロンは、
明治時代に日本へ入ってきました。
イチゴの「福羽(ふくば)」という品種を育成した
明治時代の農学者・福羽逸人(ふくばはやと)博士によって
フランスやイギリスからメロンの種子が輸入され、
品種改良を行いメロンの育種・育苗が行われました。
大正時代には温室栽培が取り入れられ、
本格的にメロン栽培が始まり、市場に出回るようになりましたが、
とても高価なもので一部の上流階層の人しか買うことはできませんでした。
今のようにメロンが普及したのは、戦後になってからです。
昭和37年に、西洋のスペインメロン(シャランテ)とマクワウリの交配種、
「プリンスメロン」が登場すると、
安価で味に当たり外れのないメロンとして、一般家庭にも普及していきました。
万葉集にも「宇利(ウリ)」という語が詠まれています。
万葉集は、柿本人麻呂、山部赤人を筆頭にして、
男女の愛を歌った相聞(そうもん)の歌が多いのですが、
山上憶良(やまのうえのおくら)が、筑前(現・福岡県)国守として国内を巡行視察し、
神亀五年(728)に嘉摩群(かまのごおり)で撰定した
歌六首(八〇〇~八〇五)の中の二首に、「宇利(ウリ)」が出てきて、
子を思う親心を歌った万葉集の中でも特異な歌を詠んでいるのです。
私の中学か高校の教科書に、この歌が載っていたような記憶がありますね。
万葉集 巻五 八〇二、八〇三
子らを思へる歌一首 併せて序
釈迦如来の、金口(こんく)に正に説きたまはく、
「等しく衆生(しゅじゃう)を思ふことは、羅ご羅の如し」と。
又説きたまはく、「愛(うつくし)びは子に過ぎたるはなし」と。
至極の大聖すら、なほ子を愛ぶる心あり。
いはむや世間(よのなか)の蒼生(あをひとくさ)の、誰かは子を愛びざらめや。
宇利(ウリ)食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば
まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ 眼交(まなかひ)に
もとなかかりて 安寐(やすい)し寝(な)さぬ
反歌
銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も 何せむに
勝れる宝 子に及(し)かめやも
この意味は、
釈迦如来がその貴いお口で正に説かれたのには、
「等しくあらゆる生き物をいつくしみ思うことは、わが子を思うのと同じである」
また、「愛は子に対する愛に勝るものはない」ともおっしゃった。
この上ない大聖人ですらわが子を愛する心がある。
まして世の中の人々のなかに、誰が子を愛さない者があろうか。
瓜を食べると子供のことが思われる。栗を食べると一層子供のことが偲ばれる。
子等はどこから来たものであろうか。
眼前にむやみにちらついて、なかなか寝付けないなぁ。
反歌(はんか)
銀も金も玉も、子等の愛に比べれば、何になろうか。
どんな秀れた宝も、子供には及ばない。
人間が初めて理解する味覚は「甘味」だそうです。
でも、万葉の時代には砂糖は無い。
日本に砂糖を伝来させたのは、奈良時代の鑑真(752年)といわれていますから、
万葉の歌を詠んだ時期は、この少し前になるのです。
ということは、「瓜」や「栗」は、
とても美味しいものとされていたのだと想像できます。
その「瓜」や「栗」を自分が食べると、
それを子供にも食べさせたいと歌っているわけです。
今の時代だったら、マンゴーかな。
瓜(ウリ)は、私が子供の頃は夏の果物で、
井戸に吊るして冷やして食べた味が懐かしく想い出されます。
題詞に「子らを思ふ歌」とあり、
序文で、わざわざ釈迦のことばを引用して、子への愛を述べています。
聖人の釈迦ですら、わが子を愛さずにはおれなかったのだから、
ましてや凡夫が子を愛さないということがあろうかといっているわけです。
釈迦の「衆生を等しく思うこと羅ご羅(らごら)のごとし」の「羅ご羅」とは、
釈迦の子供の名前なのです。
変な名前ですよね。
あのお釈迦様が、修行中に、
妻の耶輸陀羅(やしゅだら)との間に、子を産ませたことも驚きですけど、
「障害(ラーフラ)が生じた」
として、実子に「ラーフラ(羅ご羅、らごら)」と名付けているのです。
なんか、ひどくない?
「らごら」というと、思い出すのが、
元読売巨人軍の王貞治さんが、TVのCMで、
「亀屋万年堂のナボナは、お菓子のホームラン王です」
と、かつて言っていたのが、
当時の私は「ラボラ」に聞こえていました。
もう50年近く昔のことですから、若い方はそんなこと知るわけないですよね~。