ハイサイ、RIN(凛)です
RIN(凛)君の散歩ルートの途中には、数か所、野生トマトの群生地があり、
拾い喰いが得意なRIN(凛)君は、完熟して落下した赤いトマトを食べています。
RIN(凛)君が食べるのを見るまでは、
野生トマトは「酸味が強いに決まってる」という先入観で、
今まで試食もしていなかったのですが、
RIN(凛)君が美味しそうに食べるのを見て、
つい私も拾い喰い、じゃなくて試食してみたのですが、
それが甘くて美味しいのさ~。
RIN(凛)君は、落ちてるのは何でも食べるのではなくて、選んで食べているんだね~。
野生トマトは、
「雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫なからだをもち
慾はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている」
という宮沢賢治の詩、そのままのように、ひっそりと静かに、そして力強く、
また、間雲孤鶴(かんうんこかく)、つまり世俗に煩わされることなく、
自然の中で思いのままに暮らすのは、私と同類の親近感を感じてしまうのです。
ふつう、家庭菜園というと、多くの人がミニトマトに挑戦するはずさ~ね~。
プランターや丸型深鉢、支柱、培養土、ミニトマトの苗を買い、
期待と不安でドキドキしながら、いざ始めてみると
「あれっ?」
「こんなはずじゃないんだけどさ」
という結果(私のことですよ)になりがち。
「こんなんじゃ、ミニトマトの実を買った方が安上がりだったさ~ね~」
と、やり場のない憤りを感じてしまう、浅はかな自分が悪いのにさ。
そして「今度は大丈夫さ~」と、性懲りもなく無謀に再挑戦し、
「天災は忘れた頃にやってくる」
それを何度か繰り返し、その都度落胆してしまう…。
しまいに、
「ミニトマト系は、国頭マージでは栽培しにくい」
なんて、へ理屈を考えだしてしまうのです。
そういう悪夢を何度も経験しているだけに、風雨にも負けない野生トマトは
実に威風堂々としていて「あっぱれ」を2枚も3枚もあげたい。
であるなら、
「F1の、テーゲーなミニトマト苗なんか買わないで、元気な野生トマトを
菜園に引っ越しさせればいいのさ」
というチープでズルい発想が出ても当然さ~ね~。
おそらく野生トマトは定着すると思うけど、そうしたら風雨にさらされてもOKだし、
支柱も要らないし、放任で管理も不要。手抜き農業の理想ですよね。
農産物がみんなこうだったらいいけどね~。
ということで、野生トマトの菜園移植は、また後日お知らせします、
それが期待通りになったのか、無残に終わったのかも。
今日は、そのズルい発想(予告)のお知らせなのです。
トマトといえばイタリアが思い浮かびます。
国旗の赤、緑、白は、
「赤がトマトで、緑はバジル」
と思うくらい、
(本当の意味は、赤は愛国への熱血、緑は国土、白はアルプスの白い雪、正義と平和)
トマトソースはイタリア料理の象徴のように思えます。
もともと中世以前のヨーロッパに、トマトやジャガイモは存在しない。
しかし現在では、イタリア料理にはトマト,
ドイツ料理にはジャガイモが欠かせないし、
スイスといえば、美味しいチョコレート、
2000年前の、ローマ時代のユリウス・カエサルはタバコが吸えないのに
アメリカのタバコ「Marlboro」には、カエサルの言葉がある…。
これらはアメリカ大陸原産です。
ネイティヴ・アメリカン(インディアン)というと、
馬に乗って白人の幌馬車や鉄道を襲う場面を映画で観たりしますが、
もともとネイティヴ・アメリカンは馬に乗る乗馬文化はありませんでした。
乗馬術はヨーロッパ人が伝えたのです。
大航海時代にアメリカ先住民の人口が激減しました。
また、もともとアメリカ大陸の風土病であった梅毒が,
その後世界規模で広がりました。
なぜならヨーロッパ人たちが天然痘や麻疹(はしか),インフルエンザなどの伝染病を
アメリカ大陸へ持ち込み,梅毒をヨーロッパへ持ち帰ったからです。
家畜では、ウシ、ニワトリ、ヤギ、ウマ、ブタ、ネコ、ウサギ、ヒツジ…、
植物では、コショウ、バナナ、オオムギ、コムギ、キャベツ、綿(エジプト種)、
ジャガイモ、サツマイモ、トマト、パパイヤ、パイナップル、イチゴ、カボチャ、
トウモロコシ、トウガラシ、コカ、ナンキンマメ、ニンニク、レタス、タマネギ、
モモ、コメ、ライムギ、サトウキビ、カブ、コムギ、ニンジン、コーヒー、柑橘類…、
感染症では、コレラ、インフルエンザ、マラリア、麻疹(はしか)、
ペスト、天然痘、結核、腸チフス…、
といった、良いものも悪いものも含めて、今では身近なものが、
もともとアメリカやアフリカなどの新大陸にあったものなのです。
新世界と旧世界(ヨーロッパ)との間で行われた生態系の交流のことを
「Columbian Exchange(コロンブス交換)」
というのだそうです。
異なる文化の交流は,必ずしも良い結果だけではなく、
ヨーロッパ人によるアメリカ先住民の征服・一掃や、
未開拓地の植民地化につながってしまいました。
先週の記事、
「【家庭菜園】ペルー原産のトウモロコシを、コロンブスに感謝しつつ食べる」
に書いたように、
コロンブスがトウモロコシをスペインに持ち帰り、
以降、世界の食糧事情がその後、劇的に好転しました。
コロンブス以降、大勢のスペイン人が続々と新大陸に押し寄せ、
その戦利品のひとつとしてトマトも持ち帰ったのです。
最初にトマトに出会ったヨーロッパ人は、
コロンブスの新大陸発見(1492年)の、わずか29年後、
1521年にアステカ文明を征服したスペイン人のエルナン・コルテス説が有力ですが、
ヨーロッパでトマトを食べるようになったのは18世紀になってからのこと。
トマトがヨーロッパに持ち込まれてからの200年は、
トマトの強烈な匂いや、鮮やか過ぎる赤い色への抵抗感、
さらにマンドラゴラ、タバコなど、ナス科の植物には
麻酔作用や幻覚作用のある植物が多かったことから、
「トマトは有毒植物だと信じられていた」
という説もあります。
ヨーロッパでトマトを初めて栽培し、食用としたイタリア人は、
16世紀にイタリアの飢餓に苦しむ民衆が、
「飢饉のため、やむなくトマトを食べた」
といわれています。
16世紀のヨーロッパの飢饉は、
・1518年 ヴェネツィアで飢饉
・1528年 フランスのラングドックで飢饉
・1540年 スペインで飢饉
・1555年 イングランドで飢饉
・1586年 イングランドで、救貧法の切っ掛けとなる飢饉
・1590年代 ヨーロッパで飢饉
14世紀から19世紀後半にかけて、寒冷な気候(小氷期)が局地的にあったようで、
当時のヨーロッパは、いんぱんに飢饉が起こり、
農業生産の減少、栄養状態の悪化、伝染病(ペスト、天然痘)の流行、人口の減少など
悪循環に苦しんでいたようです。
18世紀初頭から発行された「ヴィルモラン・アンドリュー」という植物年鑑に
トマトがはじめて登場するのは、1760年版。
ここでは野菜として分類されているものの、
まだ観賞用植物という定義で紹介されていました。
1767年に出版されたフランスのディドロの「百科全書」では、
トマトが食用野菜として大衆に広がりつつある様子が記され、
1755年から発行されている園芸雑誌「ル・ボン・ジャルディニエ」の1785年版には、
「トマトでソースを作ることができる」
と紹介されました。
イギリスでは1733年に、ジョン・ケイの「飛び杼(ひ)」という布の織り機が
機械化の最初といわれていますから、産業革命の初期の頃のことです。
ヨーロッパの中でも、早くからトマトが受け入れられたのは、
最初にトマトが入って来たスペインとイタリア。
地中海諸国がトマト栽培に適した気候風土だったことや、
度々の飢饉で、食べ方が工夫されて、
「トマトはソースにすると美味しい」
という意識が広く普及していたのかもしれません。
・1784年 ワット、万能蒸気機関の特許を取得
・1807年 ロンドンにガス燈が施設
・1814年 スチーヴンソン、 蒸気機関車を製作
・1815年 ナポレオン、ワーテルローで敗走
・1830年 工業都市マンチェスターと港町リヴァプール間に鉄道開通
・1851年 英国で第1回万国博覧会開催
こういった産業革命の中、
1874年、スペインの植物学者クェールは「スペインの植物群」で
「古い時代の書物、とりわけ北国の人々はトマトの効用について納得しておらず、
むしろ薬用というよりは毒のある植物として扱うべきだと主張している」
と、トマトが誤解されていることを記し、
「スペイン人はトマトを煮込み料理だけでなく、サラダにしたり、
少量の塩で生のまま食べたりする」
「トマトは無害で、貧しい人も金持ちも、そのどちらの健康にも
少しも害を及ぼすことのない健康食だ」
と書かれていることから、
この時代のスペインでは、貧富の差に関係なく、
トマトが人々の食卓に欠かせない野菜として扱われていることが判るのです。
1786年9月、ゲーテは40歳を前に、北イタリアの諸都市からローマ、ナポリ、シチリアと
1年10ヶ月に及ぶ長いイタリア旅行をして、ドイツに帰国後、実りの時代に入ります。
アルプスのブレナン峠を越えた時、
「明るい光りが降り注ぐ歴史と古典の国に入った」
と感動した内容からして、
ゲーテにとってイタリアは憧れの地で、期するところがあったのだと推察できます。
ゲーテは「イタリア紀行」で、ナポリのパスタについて
「1789年5月2日、ナポリにて。(中略)(パスタは)いたるところで手に入る。
大抵は茹でてチーズの粉をまぶして食べる」
と書き、 ゲーテの旅行時代は、
真っ赤なトマトソースがかかったパスタはまだ登場はしていなかったようです。
当時のパスタは、チーズと黒胡椒、ラードとニンニク、シナモンと砂糖など、
香りや風味付けの味付けだったようです。
トマトソースが初めてパスタ料理に使われたのは、
ゲーテがイタリアを旅行してから半世紀ほど後の1830年代頃という説が有力。
なので、まだ200年も経っていない、わりと最近のことですよね。
ナポリにはトマトソースとパスタの伝説があります。
ナポリ近郊のポジリポに住む主婦がパスタをうっかり茹ですぎてしまい、
パスタは鍋底にくっついてしまった。
せっかくのパスタがもったいないと思った彼女は、
パスタの上にトマトソースをかけてみたところ、想像以上に美味しかった。
そのレシピを近所に自慢して、主婦たちの口コミで、
たちどころにナポリ中にトマトソースのパスタが広まった
という伝説。
ホントかどうかは判らないけどね。
1839年発行の「調理の理論と実践」という料理書に
「トマトソースのヴァルミチェッリ」
と記されたのが、文献上では、初のトマトソースの登場らしい。
ナポリで誕生?した、パスタとトマトの革命的な組み合わせは、
その後数ヶ月あまりでイタリア全土に広がったという。
それが、フランスを初め近隣諸国に広がり、
いまや世界中でスパゲッティやマカロニというイタリア語を知らない人はいない。
イタリアのパスタ文化はトマトの存在なしにはあり得なかった。
「たかがトマト、されどトマト」
日本にトマトが伝わったのは17世紀なかば。
徳川四代将軍・家綱のお抱え絵師・狩野探幽が
「唐なすび」と呼び、1668年にスケッチしています。
文献で最も古いのは、江戸前期の儒学者・貝原益軒の「大和本草」(1709年)で、
ここでは「唐ガキ」と紹介されています。
江戸期ではヨーロッパ同様、観賞用として珍重されていたようです。
食用になったのは明治以降。
キャベツやタマネギ、アスパラガス、ニンジンなどの西洋野菜と共に
ヨーロッパやアメリカから導入されたのでした。
アメリカのフィリップ・モリス社が製造する「Marlboro」というタバコには、
上部のマークに「VENI・VEDI・VICI」と、小さく文字が書かれてます。
これはラテン語で
「我来たり・我見たり・我勝てり」
と言う意味だそうです。
この言葉はカエサル(ジュリアス・シーザー)がローマ元老院に
勝利の報告をした時の言葉です。
「Marlboro」は、一説によると
Men Always Remembers Love Because Of Romance Only
(男は本当の愛を見つけるために常に恋をしている)
という言葉の略だと。
だとすれば、「Marlboro」のマークの背後の白い三角は
ピラミッドに見えないことはない。
ということは、カエサルがエジプト女王クレオパトラに骨抜きにされたことを
暗示しているタバコなのかな?
私とRIN(凛)君はタバコは吸わないけどね。

RIN(凛)君の散歩ルートの途中には、数か所、野生トマトの群生地があり、
拾い喰いが得意なRIN(凛)君は、完熟して落下した赤いトマトを食べています。
RIN(凛)君が食べるのを見るまでは、
野生トマトは「酸味が強いに決まってる」という先入観で、
今まで試食もしていなかったのですが、
RIN(凛)君が美味しそうに食べるのを見て、
つい私も拾い喰い、じゃなくて試食してみたのですが、
それが甘くて美味しいのさ~。
RIN(凛)君は、落ちてるのは何でも食べるのではなくて、選んで食べているんだね~。
野生トマトは、
「雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫なからだをもち
慾はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている」
という宮沢賢治の詩、そのままのように、ひっそりと静かに、そして力強く、
また、間雲孤鶴(かんうんこかく)、つまり世俗に煩わされることなく、
自然の中で思いのままに暮らすのは、私と同類の親近感を感じてしまうのです。
ふつう、家庭菜園というと、多くの人がミニトマトに挑戦するはずさ~ね~。
プランターや丸型深鉢、支柱、培養土、ミニトマトの苗を買い、
期待と不安でドキドキしながら、いざ始めてみると
「あれっ?」
「こんなはずじゃないんだけどさ」
という結果(私のことですよ)になりがち。
「こんなんじゃ、ミニトマトの実を買った方が安上がりだったさ~ね~」
と、やり場のない憤りを感じてしまう、浅はかな自分が悪いのにさ。
そして「今度は大丈夫さ~」と、性懲りもなく無謀に再挑戦し、
「天災は忘れた頃にやってくる」
それを何度か繰り返し、その都度落胆してしまう…。
しまいに、
「ミニトマト系は、国頭マージでは栽培しにくい」
なんて、へ理屈を考えだしてしまうのです。
そういう悪夢を何度も経験しているだけに、風雨にも負けない野生トマトは
実に威風堂々としていて「あっぱれ」を2枚も3枚もあげたい。
であるなら、
「F1の、テーゲーなミニトマト苗なんか買わないで、元気な野生トマトを
菜園に引っ越しさせればいいのさ」
というチープでズルい発想が出ても当然さ~ね~。
おそらく野生トマトは定着すると思うけど、そうしたら風雨にさらされてもOKだし、
支柱も要らないし、放任で管理も不要。手抜き農業の理想ですよね。
農産物がみんなこうだったらいいけどね~。
ということで、野生トマトの菜園移植は、また後日お知らせします、
それが期待通りになったのか、無残に終わったのかも。
今日は、そのズルい発想(予告)のお知らせなのです。
トマトといえばイタリアが思い浮かびます。
国旗の赤、緑、白は、
「赤がトマトで、緑はバジル」
と思うくらい、
(本当の意味は、赤は愛国への熱血、緑は国土、白はアルプスの白い雪、正義と平和)
トマトソースはイタリア料理の象徴のように思えます。
もともと中世以前のヨーロッパに、トマトやジャガイモは存在しない。
しかし現在では、イタリア料理にはトマト,
ドイツ料理にはジャガイモが欠かせないし、
スイスといえば、美味しいチョコレート、
2000年前の、ローマ時代のユリウス・カエサルはタバコが吸えないのに
アメリカのタバコ「Marlboro」には、カエサルの言葉がある…。
これらはアメリカ大陸原産です。
ネイティヴ・アメリカン(インディアン)というと、
馬に乗って白人の幌馬車や鉄道を襲う場面を映画で観たりしますが、
もともとネイティヴ・アメリカンは馬に乗る乗馬文化はありませんでした。
乗馬術はヨーロッパ人が伝えたのです。
大航海時代にアメリカ先住民の人口が激減しました。
また、もともとアメリカ大陸の風土病であった梅毒が,
その後世界規模で広がりました。
なぜならヨーロッパ人たちが天然痘や麻疹(はしか),インフルエンザなどの伝染病を
アメリカ大陸へ持ち込み,梅毒をヨーロッパへ持ち帰ったからです。
家畜では、ウシ、ニワトリ、ヤギ、ウマ、ブタ、ネコ、ウサギ、ヒツジ…、
植物では、コショウ、バナナ、オオムギ、コムギ、キャベツ、綿(エジプト種)、
ジャガイモ、サツマイモ、トマト、パパイヤ、パイナップル、イチゴ、カボチャ、
トウモロコシ、トウガラシ、コカ、ナンキンマメ、ニンニク、レタス、タマネギ、
モモ、コメ、ライムギ、サトウキビ、カブ、コムギ、ニンジン、コーヒー、柑橘類…、
感染症では、コレラ、インフルエンザ、マラリア、麻疹(はしか)、
ペスト、天然痘、結核、腸チフス…、
といった、良いものも悪いものも含めて、今では身近なものが、
もともとアメリカやアフリカなどの新大陸にあったものなのです。
新世界と旧世界(ヨーロッパ)との間で行われた生態系の交流のことを
「Columbian Exchange(コロンブス交換)」
というのだそうです。
異なる文化の交流は,必ずしも良い結果だけではなく、
ヨーロッパ人によるアメリカ先住民の征服・一掃や、
未開拓地の植民地化につながってしまいました。
先週の記事、
「【家庭菜園】ペルー原産のトウモロコシを、コロンブスに感謝しつつ食べる」
に書いたように、
コロンブスがトウモロコシをスペインに持ち帰り、
以降、世界の食糧事情がその後、劇的に好転しました。
コロンブス以降、大勢のスペイン人が続々と新大陸に押し寄せ、
その戦利品のひとつとしてトマトも持ち帰ったのです。
最初にトマトに出会ったヨーロッパ人は、
コロンブスの新大陸発見(1492年)の、わずか29年後、
1521年にアステカ文明を征服したスペイン人のエルナン・コルテス説が有力ですが、
ヨーロッパでトマトを食べるようになったのは18世紀になってからのこと。
トマトがヨーロッパに持ち込まれてからの200年は、
トマトの強烈な匂いや、鮮やか過ぎる赤い色への抵抗感、
さらにマンドラゴラ、タバコなど、ナス科の植物には
麻酔作用や幻覚作用のある植物が多かったことから、
「トマトは有毒植物だと信じられていた」
という説もあります。
ヨーロッパでトマトを初めて栽培し、食用としたイタリア人は、
16世紀にイタリアの飢餓に苦しむ民衆が、
「飢饉のため、やむなくトマトを食べた」
といわれています。
16世紀のヨーロッパの飢饉は、
・1518年 ヴェネツィアで飢饉
・1528年 フランスのラングドックで飢饉
・1540年 スペインで飢饉
・1555年 イングランドで飢饉
・1586年 イングランドで、救貧法の切っ掛けとなる飢饉
・1590年代 ヨーロッパで飢饉
14世紀から19世紀後半にかけて、寒冷な気候(小氷期)が局地的にあったようで、
当時のヨーロッパは、いんぱんに飢饉が起こり、
農業生産の減少、栄養状態の悪化、伝染病(ペスト、天然痘)の流行、人口の減少など
悪循環に苦しんでいたようです。
18世紀初頭から発行された「ヴィルモラン・アンドリュー」という植物年鑑に
トマトがはじめて登場するのは、1760年版。
ここでは野菜として分類されているものの、
まだ観賞用植物という定義で紹介されていました。
1767年に出版されたフランスのディドロの「百科全書」では、
トマトが食用野菜として大衆に広がりつつある様子が記され、
1755年から発行されている園芸雑誌「ル・ボン・ジャルディニエ」の1785年版には、
「トマトでソースを作ることができる」
と紹介されました。
イギリスでは1733年に、ジョン・ケイの「飛び杼(ひ)」という布の織り機が
機械化の最初といわれていますから、産業革命の初期の頃のことです。
ヨーロッパの中でも、早くからトマトが受け入れられたのは、
最初にトマトが入って来たスペインとイタリア。
地中海諸国がトマト栽培に適した気候風土だったことや、
度々の飢饉で、食べ方が工夫されて、
「トマトはソースにすると美味しい」
という意識が広く普及していたのかもしれません。
・1784年 ワット、万能蒸気機関の特許を取得
・1807年 ロンドンにガス燈が施設
・1814年 スチーヴンソン、 蒸気機関車を製作
・1815年 ナポレオン、ワーテルローで敗走
・1830年 工業都市マンチェスターと港町リヴァプール間に鉄道開通
・1851年 英国で第1回万国博覧会開催
こういった産業革命の中、
1874年、スペインの植物学者クェールは「スペインの植物群」で
「古い時代の書物、とりわけ北国の人々はトマトの効用について納得しておらず、
むしろ薬用というよりは毒のある植物として扱うべきだと主張している」
と、トマトが誤解されていることを記し、
「スペイン人はトマトを煮込み料理だけでなく、サラダにしたり、
少量の塩で生のまま食べたりする」
「トマトは無害で、貧しい人も金持ちも、そのどちらの健康にも
少しも害を及ぼすことのない健康食だ」
と書かれていることから、
この時代のスペインでは、貧富の差に関係なく、
トマトが人々の食卓に欠かせない野菜として扱われていることが判るのです。
1786年9月、ゲーテは40歳を前に、北イタリアの諸都市からローマ、ナポリ、シチリアと
1年10ヶ月に及ぶ長いイタリア旅行をして、ドイツに帰国後、実りの時代に入ります。
アルプスのブレナン峠を越えた時、
「明るい光りが降り注ぐ歴史と古典の国に入った」
と感動した内容からして、
ゲーテにとってイタリアは憧れの地で、期するところがあったのだと推察できます。
ゲーテは「イタリア紀行」で、ナポリのパスタについて
「1789年5月2日、ナポリにて。(中略)(パスタは)いたるところで手に入る。
大抵は茹でてチーズの粉をまぶして食べる」
と書き、 ゲーテの旅行時代は、
真っ赤なトマトソースがかかったパスタはまだ登場はしていなかったようです。
当時のパスタは、チーズと黒胡椒、ラードとニンニク、シナモンと砂糖など、
香りや風味付けの味付けだったようです。
トマトソースが初めてパスタ料理に使われたのは、
ゲーテがイタリアを旅行してから半世紀ほど後の1830年代頃という説が有力。
なので、まだ200年も経っていない、わりと最近のことですよね。
ナポリにはトマトソースとパスタの伝説があります。
ナポリ近郊のポジリポに住む主婦がパスタをうっかり茹ですぎてしまい、
パスタは鍋底にくっついてしまった。
せっかくのパスタがもったいないと思った彼女は、
パスタの上にトマトソースをかけてみたところ、想像以上に美味しかった。
そのレシピを近所に自慢して、主婦たちの口コミで、
たちどころにナポリ中にトマトソースのパスタが広まった
という伝説。
ホントかどうかは判らないけどね。
1839年発行の「調理の理論と実践」という料理書に
「トマトソースのヴァルミチェッリ」
と記されたのが、文献上では、初のトマトソースの登場らしい。
ナポリで誕生?した、パスタとトマトの革命的な組み合わせは、
その後数ヶ月あまりでイタリア全土に広がったという。
それが、フランスを初め近隣諸国に広がり、
いまや世界中でスパゲッティやマカロニというイタリア語を知らない人はいない。
イタリアのパスタ文化はトマトの存在なしにはあり得なかった。
「たかがトマト、されどトマト」
日本にトマトが伝わったのは17世紀なかば。
徳川四代将軍・家綱のお抱え絵師・狩野探幽が
「唐なすび」と呼び、1668年にスケッチしています。
文献で最も古いのは、江戸前期の儒学者・貝原益軒の「大和本草」(1709年)で、
ここでは「唐ガキ」と紹介されています。
江戸期ではヨーロッパ同様、観賞用として珍重されていたようです。
食用になったのは明治以降。
キャベツやタマネギ、アスパラガス、ニンジンなどの西洋野菜と共に
ヨーロッパやアメリカから導入されたのでした。
アメリカのフィリップ・モリス社が製造する「Marlboro」というタバコには、
上部のマークに「VENI・VEDI・VICI」と、小さく文字が書かれてます。
これはラテン語で
「我来たり・我見たり・我勝てり」
と言う意味だそうです。
この言葉はカエサル(ジュリアス・シーザー)がローマ元老院に
勝利の報告をした時の言葉です。
「Marlboro」は、一説によると
Men Always Remembers Love Because Of Romance Only
(男は本当の愛を見つけるために常に恋をしている)
という言葉の略だと。
だとすれば、「Marlboro」のマークの背後の白い三角は
ピラミッドに見えないことはない。
ということは、カエサルがエジプト女王クレオパトラに骨抜きにされたことを
暗示しているタバコなのかな?
私とRIN(凛)君はタバコは吸わないけどね。