ハイサイ、RIN(凛)です
「6月23日は慰霊の日」
といっても、本土の人たちにとっては、意味がよく判らないはず。
終戦記念日は8月15日だし、6月中旬なんて、なんだか中途半端な日ですよね。
この日は、沖縄では、臨時休業にする店があったり、
警察でも有給休暇を取る警官も多く、
観光客は
「今日はいったいどうしちゃったの?」
「平日なのに、なんで店が休みなのさ、怠慢じゃないの?」
と戸惑うことも多いはず。
予備知識を持たないで沖縄に移住した私が、そうだったから。
「慰霊の日」は、1945年6月23日に、
沖縄戦の組織的戦闘が終結したことにちなみ、
琉球政府及び沖縄県が定めた記念日で、
1991年に沖縄県が休日条例で
「慰霊の日を休日」
と定め、
この日は沖縄県だけ国の機関以外の役所・学校等は休みになるのです。
1945年(昭和20年)の沖縄戦では、住民を巻き込んだ激しい地上戦の末
20万人以上の尊い命だけでなく、沖縄の文化財、自然がことごとく奪われました。
沖縄戦は、太平洋戦争で唯一、
日本国内の一般住民が地上戦に巻き込まれた悲惨な戦いになったのです。
2015年の今年は、戦後70年目を迎えます。
沖縄戦における20万人を越す戦死者のうち、
約半数の9万4000人余りの戦死者は兵隊以外の一般県民や子供です。
この数字は、
・住民戦没者 94,000人
・日本軍戦没者 94,136人
・米軍戦没者 12,520人
・合計戦没者 200,656人
1976年(昭和51年)3月、沖縄県援護課発表のものですが、
この中で「住民戦没者 94,000人」となっていますよね。
これは「推定」であって、正確な人数ではないのです。
糸満市摩文仁(まぶに)の岸線を眺望できる台地に平和記念公園があり、
戦没者慰霊碑がズラッと並び、戦没者の氏名が刻まれています。
ここに行かれた方も多いと思いますが、
公益財団法人沖縄県平和祈念財のHPでは、
「沖縄戦においては、軍民合わせて18万余の尊い命が失われました。」
と、具体的な数字は発表していません。
戦後70年も経つのに、
いまだに戦没者の追加、氏名刻印が行われているのが現状なのです。
終戦の前年、1944年(昭和19年)2月当時の沖縄県の人口は491,912人、
沖縄県の統計では、
・一般住民戦没者 94,490人
・県出身軍人・軍属戦没者 28,228人
・沖縄県人の総戦没者合計 122,718人
となり、戦没者の割合は24.95%=約25%、
沖縄戦では、実に「4名に1人」の沖縄県人が亡くなったことになるのです。
ただし、この数字も「推定」で正確ではなく、
「一般住民の戦没者数は9万4千人どころではなく、約15万人のはず」
という研究者もいて、
そうなると、沖縄県人の総戦没者合計は178,228人になり、
戦没者の割合は36.23%=約36%、
沖縄人の「3人に1人」が亡くなったことになるのです。
戦争に動員されたウチナーンチュ(沖縄県人)たちは、
・少年団
・義勇隊
・学徒看護隊
・鉄血勤皇隊
・防衛隊
・補助看護婦
・農兵隊
・護郷隊
というように、いろいろな形で、戦場にかり出されています。
沖縄本島中南部では、海上は米海軍の戦艦が沖が見えないほどぐるりと取り囲んで、
艦砲射撃を絶え間なく、着弾跡は蜂の巣状になるほど撃ち込み、
米軍が読谷(よみたん)村から上陸してきたので、
ウチナーンチュは逃げ場がなく、戦死者が激増しました。
米海軍の艦砲弾発射数のうち、4月2日~6月24日は513,650発の砲弾を撃ち込みました。
その84日間での1日平均は6115発、1時間あたり255発、1分間に換算すると4.2発、
本島中南部では、14~15秒に1発の艦砲射撃を受けていたことになるのです。
この時期は異常な大雨が続いたようで、南部のジャーカル(クチャ)という
粘土質土壌は泥田のようになっていたこともあって、艦砲弾の一部は不発弾になり、
本島南部ではいまだにあちこちで不発弾撤去を行っているのです。
陸上自衛隊の特殊部隊、第101不発弾処理隊は、
沖縄県内だけで年間300回以上も不発弾を回収・処理を行っています。
沖縄戦で米軍に投下された爆弾や砲弾の重量は約20万トン、
ハガキ1枚の土地に1個の爆弾が落された計算になるのだそうです。
不発弾と推定されるのは約1万トン、5%が不発弾になっている計算ですね。
昭和47年以降、101部隊が回収したのは約3万発で、
まだ地中には2500トンの不発弾が残り、
すべて回収するには、「まだ80年以上かかる」といわれているのです。
戦艦からの艦砲射撃は、上陸した米軍海兵隊には撃ち込まず、
包囲網を狭めて糸満市南部に住民を追いやられるのですから、
逃げ場を失うウチナーンチュにとっては阿鼻叫喚の地獄だったに違いありません。
戦争に動員されていった人たちが、どこで、何人がどうやって亡くなったのかは
いまだに調べられていません。
「学徒看護隊」と「鉄血勤皇隊」等は、学校から動員され、
軍隊に配属されていたので、生徒の名簿によって戦没者数が分かっていますが、
その他の団体員は、時、場所、任務等の都合で動員されていたので、
県内全体の市町村の調査がなければ、その全体の数を把握するのは不可能ですが、
国も県も市町村も(一部の市町村だけが調査を行いました)
調査を放棄したのが現状なのです。
「防衛隊」の戦没率については、
・南風原町 510人動員され323人が戦没(戦没率約63%)。
・知念村 約350人動員され182人が戦没(戦没率約52%)
激戦の本島南部の犠牲者が圧倒的に多いのです。
食糧を探しに畑や森で、井戸や池、泉に水を汲みに行って
艦砲弾の犠牲になった人も大勢いたそうです。
米軍は、ガマ(壕)に隠れている住民や日本兵が投降に応じなければ、
容赦なく爆弾やガス弾投下、火焔放射、ガソリン放火をしました。
ウージ(サトウキビ)畑やアダン林を焼き払い、機銃掃射もしました。
ガマ(壕)の中では、日本軍による住民虐殺もあり、
また傷病者の放置死もありました。
また、墓に隠れて、砲弾や火焔放射によって亡くなったり、舟での戦没もありました。
漁をしたり、避難したりする最中に、米軍の機銃攻撃で亡くなっています。
もちろん、疎開の途中や徴用のために離島への往復の時、船舶が攻撃されたり、
撃沈されたりして亡くなった人たちも大勢いました。
米軍に保護された後、収容所の中でも多くの人たちが
栄養失調死や餓死、病気などで亡くなっています。
沖縄戦における家屋については、
糸満市では、6,800戸のうち、6,664戸が全焼・全壊となり、約98%の家屋が消失。
残った家屋は字糸満で71戸、字兼城で18戸、字阿波根で10戸。
浦添市では、 1,954戸のうち、約99%の1,939戸が全焼・全壊。
全焼・全壊を免れたのは、伊祖3戸、屋富祖2戸、宮城3戸、仲西1戸、小湾2戸、
沢岻1戸、前田1戸、西原1戸、当山1戸。
南風原町では、1,681戸の内1,651戸(約98%)が全焼・全壊。
全焼・全壊を免れたのは、兼城(半壊1)、津嘉山(6)、与那覇(7)、大名(1)、
山川(3)、神里(3)、宮平(5)、喜屋武(4)。
豊見城村では、1,886うち94%の1,773戸が焼失・破壊。
小さな島全体が戦場になったことが、
場所を選ばせない戦没場所となってしまいました。
沖縄は、島全体が「慰霊の島」なのです。
最近、見込みがなくなったから静かになりましたが、
数年前までは、南部の政治家が、
「政治生命をかけて、南部にカジノを呼び込む」
と騒いでいました。
お寺の境内で、丁半博打をしようというのと同じことさ~ね~。
本土からやってきた無知の移住者が言い出すならまだしも、
南部出身のウチナーンチュの発想だなんて、とても信じられんさ。
この沖縄戦で、沖縄防衛第三十二軍司令官牛島満中将と同参謀長の長勇中将が
糸満の摩文仁で自決した日が昭和20年6月23日の未明とされていて、
この日を
「日本軍の組織的戦闘が終結した日」
としてとらえ、沖縄慰霊の日が制定されているのです。
この牛島中将は、沖縄戦の前に、三十二軍の指揮官として将校たちの訓示で
「スパイには注意しろ」
と言いました。
「沖縄県人総スパイ」という見方をしていたのです。
友軍に守ってもらえると期待し、献身的に協力しているウチナーンチュに対して、
感謝するどころか、外地に来ている気分で
ウチナーンチュはスパイ視していたわけですから、
食料の強奪や壕から追い出す、方言を使ったらスパイだと銃殺にするとか、
おじぃやおばぁが
「アメリカ軍も怖かったけど、友軍の方がもっと怖かったさ」
と聞くと、情けなくなりますよね。
「友軍に守ってもらえる」
という期待は、今の日米安保や、新安保法案に似ている。
アメリカ様の忠犬になったら、アメリカ様は日本を本当に守ってくれるの?
日米安保には、そんな約束がされていないさ。
であるなら、アメリカ様にひれ伏したい政官は、アメリカに亡命し、
海兵隊に入隊して、最前線に志願すればいいのさ。
アクアラングを付けて海にドボンして、機雷の信管の1つでも取ってきてから、
立派なことを言ってほしいものです。
戦争ごっこをしたいなら、家で戦争ゲームでもしてたらいいのさ。
牛島司令官は、自決前の4日前、6月19日に
「全将兵ノ三ヶ月ニワタル勇敢戦闘ニヨリ
遺憾ナク軍ノ任務ヲ遂行シ得タルハ同慶ノ至リナリ。
然レドモ、今ヤ刀折レ矢尽キ、軍ノ命旦夕ニ迫ル。
既ニ部隊間ノ連絡杜絶セントシ、軍司令官ノ指揮困難トナレリ。
爾後(じご)各部隊ハ各局地ニオケル生存者ノ上級者コレヲ指揮シ
最後マデ敢闘シ悠久ノ大義ニ生クベシ。」
いう最終命令を出し、6月23日に自らは無責任に命を絶ちました。
その日を「慰霊の日」って、誰の慰霊なの?と思うわけさ。
一般住民や学徒動員された青少年たちは米軍に包囲され、
艦砲射撃で無差別に砲撃され逃げまどい、
残存将兵による斬り込み攻撃や、やんばるの山岳地帯でゲリラ戦が続き、
沖縄戦が正式に終結するのは、
日米両軍の代表が嘉手納基地内で降伏調印を行う9月7日、
日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した8月15日よりも
23日も後のことなのです。
そういえば、ポツダム宣言を「読んでない」人がいたよね。
自ら「戦後レジームからの脱却」を主張しているのだから、
「ポツダム宣言」で日本が国際社会に対して、何を約束したのか、
十分に把握して理解していなければいけないはずだよね。
私は毎年「慰霊の日」を迎えるたびに、
「牛島司令官が自決した6月23日は日本軍兵士の英霊に対する慰霊であり、
本当の慰霊の日は9月7日であるべきじゃないのかな?」
思うのです。
アメリカの忠犬を気取る政官は富国強兵の憲法に変えたいのでしょうけど、
戦後70年が経っても、沖縄は今でも遺骨や不発弾がザクザク出てくる現実や、
嘉手納基地からベトナムを空爆するB52戦略爆撃機が
枯葉剤を積み込んで出発したこと、
その枯葉剤は三井東圧化学大牟田工業所で製造していたこと、
米軍がベトナム戦争で大量に散布した枯葉剤の中にダイオキシンが含まれていて
甚大な健康被害をもたらすことが判明したら使用禁止にして、
日本製の枯葉剤の在庫を買い取った林野庁が、あわてて埋めたり撒いたりして、
猿や植物の奇形とか起きていたことを知らないんだと思うけどさ。
「人民の 人民による 人民のための政治」
の「人民」を「一部の人」に勝手に置き換えたような暴走は
いいかげん止めてほしいのさ~。

「6月23日は慰霊の日」
といっても、本土の人たちにとっては、意味がよく判らないはず。
終戦記念日は8月15日だし、6月中旬なんて、なんだか中途半端な日ですよね。
この日は、沖縄では、臨時休業にする店があったり、
警察でも有給休暇を取る警官も多く、
観光客は
「今日はいったいどうしちゃったの?」
「平日なのに、なんで店が休みなのさ、怠慢じゃないの?」
と戸惑うことも多いはず。
予備知識を持たないで沖縄に移住した私が、そうだったから。
「慰霊の日」は、1945年6月23日に、
沖縄戦の組織的戦闘が終結したことにちなみ、
琉球政府及び沖縄県が定めた記念日で、
1991年に沖縄県が休日条例で
「慰霊の日を休日」
と定め、
この日は沖縄県だけ国の機関以外の役所・学校等は休みになるのです。
1945年(昭和20年)の沖縄戦では、住民を巻き込んだ激しい地上戦の末
20万人以上の尊い命だけでなく、沖縄の文化財、自然がことごとく奪われました。
沖縄戦は、太平洋戦争で唯一、
日本国内の一般住民が地上戦に巻き込まれた悲惨な戦いになったのです。
2015年の今年は、戦後70年目を迎えます。
沖縄戦における20万人を越す戦死者のうち、
約半数の9万4000人余りの戦死者は兵隊以外の一般県民や子供です。
この数字は、
・住民戦没者 94,000人
・日本軍戦没者 94,136人
・米軍戦没者 12,520人
・合計戦没者 200,656人
1976年(昭和51年)3月、沖縄県援護課発表のものですが、
この中で「住民戦没者 94,000人」となっていますよね。
これは「推定」であって、正確な人数ではないのです。
糸満市摩文仁(まぶに)の岸線を眺望できる台地に平和記念公園があり、
戦没者慰霊碑がズラッと並び、戦没者の氏名が刻まれています。
ここに行かれた方も多いと思いますが、
公益財団法人沖縄県平和祈念財のHPでは、
「沖縄戦においては、軍民合わせて18万余の尊い命が失われました。」
と、具体的な数字は発表していません。
戦後70年も経つのに、
いまだに戦没者の追加、氏名刻印が行われているのが現状なのです。
終戦の前年、1944年(昭和19年)2月当時の沖縄県の人口は491,912人、
沖縄県の統計では、
・一般住民戦没者 94,490人
・県出身軍人・軍属戦没者 28,228人
・沖縄県人の総戦没者合計 122,718人
となり、戦没者の割合は24.95%=約25%、
沖縄戦では、実に「4名に1人」の沖縄県人が亡くなったことになるのです。
ただし、この数字も「推定」で正確ではなく、
「一般住民の戦没者数は9万4千人どころではなく、約15万人のはず」
という研究者もいて、
そうなると、沖縄県人の総戦没者合計は178,228人になり、
戦没者の割合は36.23%=約36%、
沖縄人の「3人に1人」が亡くなったことになるのです。
戦争に動員されたウチナーンチュ(沖縄県人)たちは、
・少年団
・義勇隊
・学徒看護隊
・鉄血勤皇隊
・防衛隊
・補助看護婦
・農兵隊
・護郷隊
というように、いろいろな形で、戦場にかり出されています。
沖縄本島中南部では、海上は米海軍の戦艦が沖が見えないほどぐるりと取り囲んで、
艦砲射撃を絶え間なく、着弾跡は蜂の巣状になるほど撃ち込み、
米軍が読谷(よみたん)村から上陸してきたので、
ウチナーンチュは逃げ場がなく、戦死者が激増しました。
米海軍の艦砲弾発射数のうち、4月2日~6月24日は513,650発の砲弾を撃ち込みました。
その84日間での1日平均は6115発、1時間あたり255発、1分間に換算すると4.2発、
本島中南部では、14~15秒に1発の艦砲射撃を受けていたことになるのです。
この時期は異常な大雨が続いたようで、南部のジャーカル(クチャ)という
粘土質土壌は泥田のようになっていたこともあって、艦砲弾の一部は不発弾になり、
本島南部ではいまだにあちこちで不発弾撤去を行っているのです。
陸上自衛隊の特殊部隊、第101不発弾処理隊は、
沖縄県内だけで年間300回以上も不発弾を回収・処理を行っています。
沖縄戦で米軍に投下された爆弾や砲弾の重量は約20万トン、
ハガキ1枚の土地に1個の爆弾が落された計算になるのだそうです。
不発弾と推定されるのは約1万トン、5%が不発弾になっている計算ですね。
昭和47年以降、101部隊が回収したのは約3万発で、
まだ地中には2500トンの不発弾が残り、
すべて回収するには、「まだ80年以上かかる」といわれているのです。
戦艦からの艦砲射撃は、上陸した米軍海兵隊には撃ち込まず、
包囲網を狭めて糸満市南部に住民を追いやられるのですから、
逃げ場を失うウチナーンチュにとっては阿鼻叫喚の地獄だったに違いありません。
戦争に動員されていった人たちが、どこで、何人がどうやって亡くなったのかは
いまだに調べられていません。
「学徒看護隊」と「鉄血勤皇隊」等は、学校から動員され、
軍隊に配属されていたので、生徒の名簿によって戦没者数が分かっていますが、
その他の団体員は、時、場所、任務等の都合で動員されていたので、
県内全体の市町村の調査がなければ、その全体の数を把握するのは不可能ですが、
国も県も市町村も(一部の市町村だけが調査を行いました)
調査を放棄したのが現状なのです。
「防衛隊」の戦没率については、
・南風原町 510人動員され323人が戦没(戦没率約63%)。
・知念村 約350人動員され182人が戦没(戦没率約52%)
激戦の本島南部の犠牲者が圧倒的に多いのです。
食糧を探しに畑や森で、井戸や池、泉に水を汲みに行って
艦砲弾の犠牲になった人も大勢いたそうです。
米軍は、ガマ(壕)に隠れている住民や日本兵が投降に応じなければ、
容赦なく爆弾やガス弾投下、火焔放射、ガソリン放火をしました。
ウージ(サトウキビ)畑やアダン林を焼き払い、機銃掃射もしました。
ガマ(壕)の中では、日本軍による住民虐殺もあり、
また傷病者の放置死もありました。
また、墓に隠れて、砲弾や火焔放射によって亡くなったり、舟での戦没もありました。
漁をしたり、避難したりする最中に、米軍の機銃攻撃で亡くなっています。
もちろん、疎開の途中や徴用のために離島への往復の時、船舶が攻撃されたり、
撃沈されたりして亡くなった人たちも大勢いました。
米軍に保護された後、収容所の中でも多くの人たちが
栄養失調死や餓死、病気などで亡くなっています。
沖縄戦における家屋については、
糸満市では、6,800戸のうち、6,664戸が全焼・全壊となり、約98%の家屋が消失。
残った家屋は字糸満で71戸、字兼城で18戸、字阿波根で10戸。
浦添市では、 1,954戸のうち、約99%の1,939戸が全焼・全壊。
全焼・全壊を免れたのは、伊祖3戸、屋富祖2戸、宮城3戸、仲西1戸、小湾2戸、
沢岻1戸、前田1戸、西原1戸、当山1戸。
南風原町では、1,681戸の内1,651戸(約98%)が全焼・全壊。
全焼・全壊を免れたのは、兼城(半壊1)、津嘉山(6)、与那覇(7)、大名(1)、
山川(3)、神里(3)、宮平(5)、喜屋武(4)。
豊見城村では、1,886うち94%の1,773戸が焼失・破壊。
小さな島全体が戦場になったことが、
場所を選ばせない戦没場所となってしまいました。
沖縄は、島全体が「慰霊の島」なのです。
最近、見込みがなくなったから静かになりましたが、
数年前までは、南部の政治家が、
「政治生命をかけて、南部にカジノを呼び込む」
と騒いでいました。
お寺の境内で、丁半博打をしようというのと同じことさ~ね~。
本土からやってきた無知の移住者が言い出すならまだしも、
南部出身のウチナーンチュの発想だなんて、とても信じられんさ。
この沖縄戦で、沖縄防衛第三十二軍司令官牛島満中将と同参謀長の長勇中将が
糸満の摩文仁で自決した日が昭和20年6月23日の未明とされていて、
この日を
「日本軍の組織的戦闘が終結した日」
としてとらえ、沖縄慰霊の日が制定されているのです。
この牛島中将は、沖縄戦の前に、三十二軍の指揮官として将校たちの訓示で
「スパイには注意しろ」
と言いました。
「沖縄県人総スパイ」という見方をしていたのです。
友軍に守ってもらえると期待し、献身的に協力しているウチナーンチュに対して、
感謝するどころか、外地に来ている気分で
ウチナーンチュはスパイ視していたわけですから、
食料の強奪や壕から追い出す、方言を使ったらスパイだと銃殺にするとか、
おじぃやおばぁが
「アメリカ軍も怖かったけど、友軍の方がもっと怖かったさ」
と聞くと、情けなくなりますよね。
「友軍に守ってもらえる」
という期待は、今の日米安保や、新安保法案に似ている。
アメリカ様の忠犬になったら、アメリカ様は日本を本当に守ってくれるの?
日米安保には、そんな約束がされていないさ。
であるなら、アメリカ様にひれ伏したい政官は、アメリカに亡命し、
海兵隊に入隊して、最前線に志願すればいいのさ。
アクアラングを付けて海にドボンして、機雷の信管の1つでも取ってきてから、
立派なことを言ってほしいものです。
戦争ごっこをしたいなら、家で戦争ゲームでもしてたらいいのさ。
牛島司令官は、自決前の4日前、6月19日に
「全将兵ノ三ヶ月ニワタル勇敢戦闘ニヨリ
遺憾ナク軍ノ任務ヲ遂行シ得タルハ同慶ノ至リナリ。
然レドモ、今ヤ刀折レ矢尽キ、軍ノ命旦夕ニ迫ル。
既ニ部隊間ノ連絡杜絶セントシ、軍司令官ノ指揮困難トナレリ。
爾後(じご)各部隊ハ各局地ニオケル生存者ノ上級者コレヲ指揮シ
最後マデ敢闘シ悠久ノ大義ニ生クベシ。」
いう最終命令を出し、6月23日に自らは無責任に命を絶ちました。
その日を「慰霊の日」って、誰の慰霊なの?と思うわけさ。
一般住民や学徒動員された青少年たちは米軍に包囲され、
艦砲射撃で無差別に砲撃され逃げまどい、
残存将兵による斬り込み攻撃や、やんばるの山岳地帯でゲリラ戦が続き、
沖縄戦が正式に終結するのは、
日米両軍の代表が嘉手納基地内で降伏調印を行う9月7日、
日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した8月15日よりも
23日も後のことなのです。
そういえば、ポツダム宣言を「読んでない」人がいたよね。
自ら「戦後レジームからの脱却」を主張しているのだから、
「ポツダム宣言」で日本が国際社会に対して、何を約束したのか、
十分に把握して理解していなければいけないはずだよね。
私は毎年「慰霊の日」を迎えるたびに、
「牛島司令官が自決した6月23日は日本軍兵士の英霊に対する慰霊であり、
本当の慰霊の日は9月7日であるべきじゃないのかな?」
思うのです。
アメリカの忠犬を気取る政官は富国強兵の憲法に変えたいのでしょうけど、
戦後70年が経っても、沖縄は今でも遺骨や不発弾がザクザク出てくる現実や、
嘉手納基地からベトナムを空爆するB52戦略爆撃機が
枯葉剤を積み込んで出発したこと、
その枯葉剤は三井東圧化学大牟田工業所で製造していたこと、
米軍がベトナム戦争で大量に散布した枯葉剤の中にダイオキシンが含まれていて
甚大な健康被害をもたらすことが判明したら使用禁止にして、
日本製の枯葉剤の在庫を買い取った林野庁が、あわてて埋めたり撒いたりして、
猿や植物の奇形とか起きていたことを知らないんだと思うけどさ。
「人民の 人民による 人民のための政治」
の「人民」を「一部の人」に勝手に置き換えたような暴走は
いいかげん止めてほしいのさ~。