ハイサイ、RIN(凛)ですニコニコ


【散水シャワーを浴びて、気持ち良さそうにウットリ顔のオキナワキノボリトカゲ】



沖縄気象台が「沖縄地方の梅雨明け」を発表したのは6月11日(木曜)、

それから数日は、連日にわか雨や雷雨がありましたが、昨日からは快晴で暑い。

雨が降れば、湿気が気になり、洗濯物も乾かず、

晴天が続けば、地面が乾燥して散水しないといけない。

「雨よ降れ」

とか

「雨よ止んでくれ」

とか思いがち…、実に身勝手なものですね。


【散水シャワーを出すと、逃げるどころか、いつもシャワーに近づいて、お友達になりました】



では、雨が降ったり、晴れたりとかが、

「どのくらいの間隔が理想なのか?」

というと、地域によっても農産物によっても違うだろうし、

農業的に正しいかどうかは別にして、

約2000年前の、中国(後漢)の王充(おうじゅう)による

「五風十雨(ごふうじゅうう)」

が、ひとつの目安として思い当たります。

これは、

「五日に一度風が吹き、十日に一度雨が降る」

それが、農作物の豊作が期待できるような、順風満帆な天候であること、

すなわち世の中が平穏無事なことを意味した四字熟語なのです。

ところが、

「十風五雨(じっぷうごう)」

「十日に一度風が吹き、五日に一度雨が降る」

という、五と十を入れ替えた、

やはり豊作になるような順調な天候を表す熟語もあり、

「言うは易(やす)く、行うは難(かた)し」

「口で言うことは簡単だけど、実行することは難しい」

昔の子供が靴を飛ばして天気を占ったように、天気は神頼み。

神様のご機嫌しだいってことさ~ね~。


【私が捕獲オーラがゼロと見抜いているので、まったく無警戒のキノボリトカゲ君】



話は戻りますが「五風十雨」の王充は、イエス・キリストと同時代人。

日本でいえば、吉野ヶ里の遺跡の遺跡が大きくなるころ、すなわち、弥生時代。

孔子や老子は、この500年も前なんだから、日本は遅れているよね~。

当時の世界は、夢や迷信で充満した時代ですが、

それが当たり前の社会的ルールの時代において、

王充は自然現象に対して、徹底的に科学的な見方をした偉人なのです。


【生まれながらのハンターRIN(凛)君は捕獲オーラ一杯なので、バーバートカゲが必死の逃亡】



三国志が始まるきっかけは、184年にに突如勃発した黄巾の乱。

それまで約400年も中国を支配してきた漢王朝も、後期に入ると、

腐敗した政官、民衆へ課せられる重税、干ばつや疫病、凶作、天変地異が重なり、

民衆は苦しみのどん底をさまよっていました。

なんか、今の日本みたいですよね。

政(まつりごと)が腐敗して、重税、干ばつ、疫病、凶作、天変地異となると、

反乱や一揆など暴徒化した歴史が繰り返されていますが、

大人しい日本人も、いつまで持つかな。

この三国志の、約100年前の後漢後期の思想家が王充。

王充が書いた、

「論衡(ろんこう)」

という全30巻85篇の思想書の17篇、是応(ぜおう)篇に、

「太平之世、五日一風、十日一雨,風不鳴條,雨不破塊」

が出てきます。

「風不鳴條,雨不破塊」

は、

「吹く風、條(えだ)を鳴らさず、雨塊(つちくれ)を破らず」

これは、

「雨が静かに降り、土を壊すことなくしみこむ」

という意味ですが、

この「五風十雨」以外にも、この長編論文には、いろいろ書かれています。


【メジロの巣とアシダカグモの抜け殻、メジロも繁殖が終わり巣立ったようですね】



例えば、雨についての考察。

山に霧が上がっていく有様を王充が観察して、

「雲は霧と同じものであり、水が蒸発して霧や雲をつくりだし、雨が降ってくる」

「決して天から落ちてくるのではない」

と。地球上の表面で起きている出来事だと結論づけたのです。

また、雷の考察もあります。

雷が羊の群れの中に落ちたという話を聞きつけて、

王充がその様子を見に行くと、死んだ羊は焼け焦げていました。

王充は、「雷は大きな熱のようなものだ」と判断します。

そして、それは

「溶鉱炉に急に水をかけると、大きな音と光を出して大爆発が起きるようなもの」

で、自然現象のひとつだと説いています。

私が小さい頃は、祖父母や両親から

「雷様におへそを取られる」

「雷が鳴ったらおへそを隠せ」

といわれたものです。

一般の人々の間には、長く「雷は雷神が引き起こしている」と思われていたのですが、

2000年近くも昔の王充は、すべてのことを、一度徹底的に疑い、

本当はどうなのかを、実際にいろいろと自分で調べて、追及しているのです。


【ウッドデッキでカエルを探すガラスヒバァ(無毒ヘビ)、彼も友達なので逃げません】



また、日食や、月食の原理も知っていたようです。

当時の天文学では、観測研究で

「日食は41,42カ月ごとに定期的に起きる」

と判っていて、予測することが可能でした。

その後、倭国の女王・卑弥呼が魏(後漢後)の国と交流して、

日食の原理と日食の予測日を教えてもらったといいます。

卑弥呼の後は魏との交流がなくなり、

神がかりな日食の予言も出来なくなって、

倭の王室の権威は低下してしまいました。

中国古代では、

「人間の行為や政事(人事)と自然現象(天事)との間には相互に密接な関係がある」

という天人相関説(てんじんそうかんせつ)が信じられた時代ですが、

王充はそれを否定したのです。

善政を施していた後漢三代皇帝の章帝(しょうてい)のときに、日食が起きました。

多くの人が、天が皇帝をけん責しているといいましたが、

王充はそれは誤っていると、皇帝を擁護しています。

(当時の儒学を否定する異端思想として、王充はその後後々まで攻撃されています)


【我が家近くの「鳥獣保護区(環境省)」の看板】



また、潮の満ち引きと月の関係の考察も。

杭州にある銭糖江(せんとうこう、大逆流で有名な川)が定期的に逆流するのは、

春秋時代末期の呉の国、孫武(そんぶ、孫子の兵法の孫子)と伍子胥(ごししょ)が

軍師の時に、呉の夫差(ふさ)王が、父を殺した敵・越との闘いをいさめたことで、

伍子胥(ごししょ)に自害を命じ、遺体を銭糖江(せんとうこう)に捨てた、

その怨みで逆流が起こると信じられていたのに、

王充は「月との関係による単なる潮の満ち引きで起こる」と懇切丁寧に説明しています。また、地球や太陽系の成り立ちについても、現在の星雲説に近い説明をしていたり、

ガラスとレンズの原理、ガラスのレンズが太陽の光を集めることについて、

世界で初めて解説しています。

また、太陽の黒点についての記述もあり、

「太陽にある黒い点は、カラスが太陽にいるわけではない」

と。王充は当時、太陽の黒点の観測もしていた、ということです。




【涼しい夕方散歩でご機嫌のRIN(凛)君、もういいかげんイタズラは卒業してほしいさ~!】



王充はお金に恵まれなかったようで、

本屋で立ち読みして、そのすべてを記憶して勉強した」

と書かれているのですが、

世界で初めて「本屋」について書いたのも王充なんですよ。

キリストと同世代の王充の後漢の時代は、

道教の学者や技術者によって科学技術が大いに発展しました。

磁石と、それを活用した羅針盤の発明も、本格的な紙の発明も、この後漢時代です。

こういった科学技術の発展が、

王充のような唯物論的思想の原動力になったといえそうです。

王充の研究を基に、後輩の張衡(ちょうこう)が、

世界で初めて水力で動く天球儀(天文観測機器)や

候風地動儀(地震計)を発明しました。

ちなみに、ガリレオ・ガリレイが「それでも地球は動く」と言った地動説裁判は1633年。今からわずか400年ほど前のことです。

王充は今から2000年も前。

王充は、もっと注目されていい偉人なんですが、なぜか知名度が低い。

王充没100年後に始まる三国志が派手だからかもね。


【6月16日(火曜日)19時頃の夕焼け空。なんか不気味ですね~】