ハイサイ、RIN(凛)です
梅雨になり 雨の日が多くなると、うっとうしく感じてしまいます。
それでいて晴天が続くと、「たまには雨が降ってほしい」と願い、
雨が降るなら、いっそのこと、出来れば夜中に降ってほしい…。
ついつい、身勝手な考えをしてしまうものです。
雨は大地を潤して草木を生育させるために必要不可欠ですし、
私たち人間にとっても、貴重な飲み水の供給源にもなっているのに。
沖縄県企業局によると、沖縄本島では、1994年3月以降、21年にわたり
ダムの水不足による断水はないのですが、
貯水率が50%を割り込むような、水不足への注意喚起、
節水の呼びかけは数年に一度はありますし、
本島に近い離島・座間味(ざまみ)村では、
毎年のように水不足による断水が行われています。
旧暦6月は「水無月(みなづき)」。
梅雨なのに「水の無い月」というのはおかしい、「水有月」ならわかるけど…。
中学生の頃までは、そんな疑問がありました。
「無」は、「無い」ではなくて、
旧暦10月の神無月(かんなづき)の「な」と同じ意味の
「の」にあたる連体助詞「な」で、「水の月」という意味なんだよね。
沖縄の、
「てぃんさぐぬ花」が「てぃんさぐの花(=ホウセンカの花)」、
「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」が「命こそ宝」、
こういったのと同じような感じですね。
沖縄の梅雨入りは5月20日ですが、それに合わせたように、
自宅周辺の日当たりの良い場所に自生する「野牡丹(のぼたん)」が咲き出しました。
沖縄の台風シーズンに咲く花ですから、
毎月10月下旬くらいまで花期が続き、長く癒してくれるのです。
野牡丹の花は紫色ですが、よく町で髪の一部を紫色に染めたおばぁを見かけますよね。
正直で勇気のある友人がいないのか、風水に凝ってるのかわからないけど、
敏いとうとハッピー&ブルー のヒット曲「わたし祈ってます」じゃないけど
「わたし変わってます」みたいな。
そういう違和感ある異様で下品な紫色じゃなくて、
緑の植生に、清楚で、気高く上品な、淡い紫色の花は、
とても目立って美しく、ついつい思わず見とれてしまうのです。
野牡丹はノボタン科ノボタン属、沖縄方言では「ハンキタブ」
原産地は、小笠原諸島から南西諸島、台湾、中国南部、
フィリピンに広く分布していますが、
園芸種として本土で流通しているノボタンは、
南米原種の「紫紺野牡丹(シコンノボタン)」です。
野牡丹を見ていると、思わずダ・カーポの歌った
「野に咲く花のように」という曲を口ずさんでしまいます。
「野に咲く花のように風に吹かれて
野に咲く花のように人を爽(さわ)やかにして
そんな風にぼく達も いきてゆけたらすばらしい
時には暗い人生も トンネルぬければ夏の海
そんな時こそ野の花の けなげな心を知るのです」
「野に咲く花のように」は、画家・山下清を主人公にしたTVドラマ
「裸の大将放浪記」(芦屋雁之助主演)の主題歌だったから、
知っている方も多いはず。
牡丹(ボタン)の語源は、牡丹の「牡」はオス、
雄しべや雌しべが花弁に変わり、種子が出来ていく、
「丹」は赤、ボタンは赤が基本とされていたことに由来しているのだそうです。
ギリシャ語で「Botane」の音訳といった説もあるようです。
中国では「牡丹」は国花のように扱われ、高価で流通し、
楊貴妃にも例えられる花ですが、、
野牡丹は、咲く花が野生の牡丹のように美しいので名づけられた、といわれています。
梅雨で雨降りが多い、ということは、
晴れの日には味わえない風情を味わうことができる。
そのひとつが、雨の音。
「おじさんのかさ」(佐野洋子・作、講談社)という絵本を
名護市立図書館で読んだことがあります。
雨の日に、おじさんが出会った素敵な出来事の話で、
子供の感性って、すごいなと思える内容なのです。
立派なかさを持ったひとりのおじさんがいます。
そのおじさんは、でかけるときにはいつもかさを持ってでかけます。
備えあれば憂いなし…いいえ違います。
おじさんはちょっとの雨ならぬれたまま歩きます。
それより雨が降ってきたら、雨宿りします。
雨がやまないときは、見知らぬ人でも、その人のかさに入れてもらいます。
もっと大降りの雨のときは出かけないで家にいます。
それはすべて、かさがぬれないようにするためです。
そんなある日、おじさんがいつものようにかさを持って、
公園で休んでいると、雨が降ってきました。
そこに小さな男と子が走ってきて、かさを持っているおじさんに
「いっしょに入れてってよ」と言います。
でも、おじさんは知らんぷりして、聞こえなかったふりをします。
すると、男の子の友だちの女の子がやってきて、歌を歌いながら帰っていきました。
「あめがふったらポンポロロン。あめがふったらピッチャンチャン」
おじさんは子どもたちが歌っていた歌が妙に気になります。
「ほんとかなあ」と。
そして、ついにおじさんはかさを開きます。
雨がかさに当たると確かにポンポロロンと音がします。
うれしくなったおじさんは、今度はそのまま街の方へ歩いて行きました。
すると、長靴を履いて歩く音がピッチャンチャン。
「ほんとだあ~」…元気よく家に帰ったおじさんは、しっかりぬれたかさを見て、
ぬれたかさもいいものだと思います。
…こういうお話です。
ほのぼのとした童話ですが、考えさせられるところもありますよね。
モノには「役割」というものがあり、その「役割」を果たした時が、
もっともそのモノらしいはず。
かさは雨が降った時にさすもので、ぬれたかさこそ、もっともかさらしいわけです。
かさは使ってこそ価値があるもので、コレクションするものではない。
モノは使ってこそ最大限の価値を発揮する。
身の回りにあるモノ、なんか気になりますよね。
最大限に使っているのかどうか。
よく、人間も
「役割や使命があって生まれてくる」
といいますよね。
いわば「Mission: Impossible」、自分が「スパイ大作戦」の主人公で、
人生で、その使命を果たす任務を与えられた、というわけです。
だけど、肝心な「使命」や「役割」は、具体的に何も示されない。
言い換えれば、私たちは
「人生という舞台に突然投げ出された主役の俳優」
で、台本もシナリオも何もないまま、
即興で演技をし続けなければならないのです。
エンディングがハッピーエンドのはずが、
演技、構成、STORYが自由なだけに、
思わぬ脱線、間違いといった展開で、予期せぬエンディングになることも…。
星の王子様でも、童話でも絵本でも、
なかなか考えさせられるところがありますよね。

梅雨になり 雨の日が多くなると、うっとうしく感じてしまいます。
それでいて晴天が続くと、「たまには雨が降ってほしい」と願い、
雨が降るなら、いっそのこと、出来れば夜中に降ってほしい…。
ついつい、身勝手な考えをしてしまうものです。
雨は大地を潤して草木を生育させるために必要不可欠ですし、
私たち人間にとっても、貴重な飲み水の供給源にもなっているのに。
沖縄県企業局によると、沖縄本島では、1994年3月以降、21年にわたり
ダムの水不足による断水はないのですが、
貯水率が50%を割り込むような、水不足への注意喚起、
節水の呼びかけは数年に一度はありますし、
本島に近い離島・座間味(ざまみ)村では、
毎年のように水不足による断水が行われています。
旧暦6月は「水無月(みなづき)」。
梅雨なのに「水の無い月」というのはおかしい、「水有月」ならわかるけど…。
中学生の頃までは、そんな疑問がありました。
「無」は、「無い」ではなくて、
旧暦10月の神無月(かんなづき)の「な」と同じ意味の
「の」にあたる連体助詞「な」で、「水の月」という意味なんだよね。
沖縄の、
「てぃんさぐぬ花」が「てぃんさぐの花(=ホウセンカの花)」、
「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」が「命こそ宝」、
こういったのと同じような感じですね。
沖縄の梅雨入りは5月20日ですが、それに合わせたように、
自宅周辺の日当たりの良い場所に自生する「野牡丹(のぼたん)」が咲き出しました。
沖縄の台風シーズンに咲く花ですから、
毎月10月下旬くらいまで花期が続き、長く癒してくれるのです。
野牡丹の花は紫色ですが、よく町で髪の一部を紫色に染めたおばぁを見かけますよね。
正直で勇気のある友人がいないのか、風水に凝ってるのかわからないけど、
敏いとうとハッピー&ブルー のヒット曲「わたし祈ってます」じゃないけど
「わたし変わってます」みたいな。
そういう違和感ある異様で下品な紫色じゃなくて、
緑の植生に、清楚で、気高く上品な、淡い紫色の花は、
とても目立って美しく、ついつい思わず見とれてしまうのです。
野牡丹はノボタン科ノボタン属、沖縄方言では「ハンキタブ」
原産地は、小笠原諸島から南西諸島、台湾、中国南部、
フィリピンに広く分布していますが、
園芸種として本土で流通しているノボタンは、
南米原種の「紫紺野牡丹(シコンノボタン)」です。
野牡丹を見ていると、思わずダ・カーポの歌った
「野に咲く花のように」という曲を口ずさんでしまいます。
「野に咲く花のように風に吹かれて
野に咲く花のように人を爽(さわ)やかにして
そんな風にぼく達も いきてゆけたらすばらしい
時には暗い人生も トンネルぬければ夏の海
そんな時こそ野の花の けなげな心を知るのです」
「野に咲く花のように」は、画家・山下清を主人公にしたTVドラマ
「裸の大将放浪記」(芦屋雁之助主演)の主題歌だったから、
知っている方も多いはず。
牡丹(ボタン)の語源は、牡丹の「牡」はオス、
雄しべや雌しべが花弁に変わり、種子が出来ていく、
「丹」は赤、ボタンは赤が基本とされていたことに由来しているのだそうです。
ギリシャ語で「Botane」の音訳といった説もあるようです。
中国では「牡丹」は国花のように扱われ、高価で流通し、
楊貴妃にも例えられる花ですが、、
野牡丹は、咲く花が野生の牡丹のように美しいので名づけられた、といわれています。
梅雨で雨降りが多い、ということは、
晴れの日には味わえない風情を味わうことができる。
そのひとつが、雨の音。
「おじさんのかさ」(佐野洋子・作、講談社)という絵本を
名護市立図書館で読んだことがあります。
雨の日に、おじさんが出会った素敵な出来事の話で、
子供の感性って、すごいなと思える内容なのです。
立派なかさを持ったひとりのおじさんがいます。
そのおじさんは、でかけるときにはいつもかさを持ってでかけます。
備えあれば憂いなし…いいえ違います。
おじさんはちょっとの雨ならぬれたまま歩きます。
それより雨が降ってきたら、雨宿りします。
雨がやまないときは、見知らぬ人でも、その人のかさに入れてもらいます。
もっと大降りの雨のときは出かけないで家にいます。
それはすべて、かさがぬれないようにするためです。
そんなある日、おじさんがいつものようにかさを持って、
公園で休んでいると、雨が降ってきました。
そこに小さな男と子が走ってきて、かさを持っているおじさんに
「いっしょに入れてってよ」と言います。
でも、おじさんは知らんぷりして、聞こえなかったふりをします。
すると、男の子の友だちの女の子がやってきて、歌を歌いながら帰っていきました。
「あめがふったらポンポロロン。あめがふったらピッチャンチャン」
おじさんは子どもたちが歌っていた歌が妙に気になります。
「ほんとかなあ」と。
そして、ついにおじさんはかさを開きます。
雨がかさに当たると確かにポンポロロンと音がします。
うれしくなったおじさんは、今度はそのまま街の方へ歩いて行きました。
すると、長靴を履いて歩く音がピッチャンチャン。
「ほんとだあ~」…元気よく家に帰ったおじさんは、しっかりぬれたかさを見て、
ぬれたかさもいいものだと思います。
…こういうお話です。
ほのぼのとした童話ですが、考えさせられるところもありますよね。
モノには「役割」というものがあり、その「役割」を果たした時が、
もっともそのモノらしいはず。
かさは雨が降った時にさすもので、ぬれたかさこそ、もっともかさらしいわけです。
かさは使ってこそ価値があるもので、コレクションするものではない。
モノは使ってこそ最大限の価値を発揮する。
身の回りにあるモノ、なんか気になりますよね。
最大限に使っているのかどうか。
よく、人間も
「役割や使命があって生まれてくる」
といいますよね。
いわば「Mission: Impossible」、自分が「スパイ大作戦」の主人公で、
人生で、その使命を果たす任務を与えられた、というわけです。
だけど、肝心な「使命」や「役割」は、具体的に何も示されない。
言い換えれば、私たちは
「人生という舞台に突然投げ出された主役の俳優」
で、台本もシナリオも何もないまま、
即興で演技をし続けなければならないのです。
エンディングがハッピーエンドのはずが、
演技、構成、STORYが自由なだけに、
思わぬ脱線、間違いといった展開で、予期せぬエンディングになることも…。
星の王子様でも、童話でも絵本でも、
なかなか考えさせられるところがありますよね。