ハイサイ、RIN(凛)です
国の天然記念物ヤンバルクイナの生息地にある我が家から,
最寄りの信号やコンビニまでは、山を越えて東シナ海側まで、
車で片道30分も走らないといけません。
そんな大自然の宝庫・山原(やんばる)に住むということは、
家庭菜園が好きとか、安全な農産物にこだわるとか、
もうそういう好き嫌いや、こだわりなどの理屈は超越して、
ある意味、理屈抜きに、生きるために自給自足を目指さざるを得ないのです。
都会では、自分が欲しい、便利そうなサービスを選ぶ、
つまり「サービスをお金で買う」のが都会での生き方になりますが、
過疎地では、サービスをお金で買えない分、
そこに住む人たちが、自ら必要なものを作り出さないといけないのです。
なので、都会ではお金があれば、
ある意味「幸せが買える」といえるのかもしれませんね。
教育や医療、食事、趣味などもお金があるほど優位に立てますから。
周りの人も、お金を持っているというだけで、
寄生虫のようにまとわりついてきて、
あたかも米つきバッタのようにふるまい、おこぼれを頂戴しようとする。
お金がなくなったら、こういうたぐいは
雲散霧消(うんさんむしょう)のごとく
例外なく、さっさと消え去るのが常。
「農業でいう害虫が、都会にも棲息しているさ~」
ということですね。
そういえば、我が家の近郊で、自動販売機も見たことがない。
町では、そこいら中にある目ざわりな自販機、
こんな今どき見慣れたものでも、
我が家からは、車で5、6分の共同売店に行くまでは1台も見当たりません。
なので、過疎地域では、必然的に
「必要なものは自分で作り出す」
必要があり、そこに楽しさを見つければ、
都会では味わえない、人間らしい営みが出来るのです。
山原(やんばる)は「ぬちぐすいの森」。
「ぬちぐすい」とは
「心から癒される」という意味です。
農業は、高度成長期以降、
「きつい、きたない、カッコ悪い」
の3Kに、最近では、さらに
「くさい、稼げない、結婚できない」
が加わった6K。
現在でも専業農家は少なく、専業だけでは食べていけない。
そのため後継希望は激減の一途。
農家の子供が、安心して農業を継げない現状に、
さらなる追い打ちをかけるようなTPP参加。
「じっちゃんの名にかけて」
と、強権をふるう総理のじっちゃんは、たしか、
第二次大戦の開戦時、東条内閣で商工大臣を務め、
当然のことながら開戦に賛同し、敗戦後、東京裁判でA級戦犯になりながら
なぜか不起訴になり、戦後の日本復興に深く関わり
その後の政官利権の巣窟を築いた人じゃなかったかな。
ふつうは、恥ずべきじっちゃんのはずが、
なんと、その孫が、恥ずべきじっちゃんの夢を追い求めるとは、いやはや…。
平和安全法制という、実態は戦争法案を、もし成立させたら、
日本は米国の従属国として米国のしでかす戦争に参加することになるのですが、
法案に賛成した政治家は、派兵される部隊に自ら毎回参加するんですよね?
妻子を従軍慰安婦として差し出すんですよね?
「やってみせ、いって聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人は動かじ」
と、山本五十六元帥が名言を残しているんですから。
まさか、勝手に法案を決めて「血を流すのは国民だ」なんて
そんなことにならないですよね?
TPPだって、本当はもうとっくに決まっているのに、
さも日本の農業を守るがごとく交渉を演出しているのは、
選挙の時の農協票を意識しているから。
身勝手な政官のために、日本は悪くなっていく一方。
かつて、クラーク博士が
「Boys be ambitious!(少年よ、大志を抱け!)」
という名言を残しましたが、
日本は、今や少年が夢を持てない時代に成り果てました。
そんな生きにくい時代であるからこそ、
不便だけど、人間らしい生活が出来る過疎は、なかなか魅力的なのです。
かといって、
「人間らしい生き方をしたい人は、過疎へ行くべき」
と主張したいところですが、
過疎は、受け入れ態勢がなっていないところが実に多い。
私の住む国頭(くにがみ)村なんか、その代表格といってもいい。
外部からの受け入れ態勢はゼロ、その対策すらしていません。
過疎地の行政マンは、
黒澤明監督、志村喬(たかし)主演の「生きる」という白黒映画を見て、
少しだけ奮起してくれればいいのですが…。
さて、前置きが長すぎてごめんなさい。
私は自給自足化を目指して、家庭菜園の域ですが、
多くの野菜作りをしています。
国頭(くにがみ)マージという酸性土壌が、私の畑の土で、
地力がない、つまり「痩せた土壌」という、困った土なんですよ。
故・福岡正信さんに感化して自然農法に取り組んだり、
微生物農法の薄上(うすがみ)秀男さんに感化したり、と
いきなり理想を高いところに求めたために、
ずいぶん失敗をして、回り道をしました。
なので、
「こうやったら、こうなっちゃうよ」
という失敗事例のレパートリーは、
自慢にはならないけど、かなり幅広いのです。
最近は、私は自然農法からランクを落として有機農法に。
完熟豚糞は、養豚農家のご厚意でタダで頂けますし、
山に柴刈りに行って倒木などを拾い集めて、
燃やした草木灰と、海岸のコーラルを混ぜて、土にすきこむと、
私なりに上出来な野菜が出来るようになりました。
都会のスーパーでは、野菜を買う時の基準は、
価格、産地、農法などを加味して
「見栄え、外観」を重視するはずですよね。
私が気にするのは、もちろん値段もそうですが、
「どうやって作ったのか?」
なんですよ。
外観なんかどうでもいいし、
「誰々さんが作りました」
なんて、
ニヤけたキモいおっさんの写真なんか、どうでもいいわけですよ。
「この野菜は、どうやって作りました」
という、具体的な作り方、どんな肥料を、いつ、どのくらいあげたのか、
除草剤や農薬、化成肥料を使ったのか、
産地も大事だけど、それよりも
「どうやって作ったか?」
という、一番大切なところが、販売店では
なんとなくぼかされているのが現実です。
「顔の見える農業」
というと、決まってキモいおっさんの写真。
そんなキモ顔なんか見せつけられたら、夜に思い出して
うなされるだけさ~。
「顔の見える農業」
とは、
「どうやって作ったのか」
を、消費者に知らせることなのに、
販売側は、農業をしたことがない、売り上げを伸ばしたいだけなので、
そういう本質が判ってないから、農家のキモ顔のおっさんを見せつけるだけ。
私は、そういったスーパーとかに行くたびに、
キモ顔をチラ見しては、農家のおっさんも販売側も
「バカじゃないの?」
と軽べつしているのさ~。
というわけで、私は今は完熟豚糞堆肥を使った有機農法で
家庭菜園をしているのです。
有機農法の問題点は、
「堆肥=栄養成分」
だと思い込み、良かれと思って堆肥を入れ過ぎるところにあります。
そんな有機農法の野菜を食べて、硝酸性窒素を取り過ぎると
体内で、亜硝酸と二級アミンが反応して、
「ニトロソアミン」という最強の発ガン性物質が出来てしまうことが
近年問題視されているのです。
なので、
「有機農法=安心」
とはいえるけど、
「有機農法=安全」
でもなく、
「堆肥を、いつ、どれだけ施肥したのか?」
というのが問題になるわけです。
スーパーで売られている有機栽培野菜には、
「JAS認証」シールが貼られているだけで、
これだけでは、本当は情報不足なんですよ。
ニヤけたキモいおっさんの顔写真は、もう論外!
黒い油性マジックインキを持って行って、
キモ顔の目線を黒く引いてあげればいいのさ~。
「Wanted 10000$」と書いてもいいかもね。
とは言いながら、私がうっかり失敗してしまったのは、
「ほうれん草の後に、キュウリを栽培した」
ということ。
ホームセンターに行くと、いろいろな野菜のタネや苗が売られていますが、
「コンパニオンプランツ」
といって、農産物同士の相性があるんですよ。
人間だって、コンビを組もうとした時に、
同性か異性か、年齢、性格、境遇などいろいろな相性の条件がありますよね。
野菜作りでいえば、例えば、
・トマトの後作に、キャベツやブロッコリー、ネギはいいけど
ナス、キュウリ、ピーマンはダメ
・ナスの後作に、かぼちゃやトウモロコシはいいけど、
トマト、ピーマン、唐辛子はダメ
・キュウリの後作で、トウモロコシ、ほうれん草はいいけど、
大根、かぼちゃ、ニンジンはダメ
・ニンジンの後作で、白菜やキャベツはいいけど、
トマトやキュウリはダメ
とかいうものが、理屈抜きにあるんですよ。
私の祖母から、そういったこと何度も聞かされて私は育ってきたので、
ある程度のコンパニオン・プランツの相性は知っていながら、
栽培する作物名を書いた札を単純に立て忘れたために、
「ここ、ちょうど空いてるから、キュウリでも植えとくかね~」
という凡ミスをしてしまったのです。
まあ、2歩進んで3歩戻ることも、たまにはあるさ~ね~!

国の天然記念物ヤンバルクイナの生息地にある我が家から,
最寄りの信号やコンビニまでは、山を越えて東シナ海側まで、
車で片道30分も走らないといけません。
そんな大自然の宝庫・山原(やんばる)に住むということは、
家庭菜園が好きとか、安全な農産物にこだわるとか、
もうそういう好き嫌いや、こだわりなどの理屈は超越して、
ある意味、理屈抜きに、生きるために自給自足を目指さざるを得ないのです。
都会では、自分が欲しい、便利そうなサービスを選ぶ、
つまり「サービスをお金で買う」のが都会での生き方になりますが、
過疎地では、サービスをお金で買えない分、
そこに住む人たちが、自ら必要なものを作り出さないといけないのです。
なので、都会ではお金があれば、
ある意味「幸せが買える」といえるのかもしれませんね。
教育や医療、食事、趣味などもお金があるほど優位に立てますから。
周りの人も、お金を持っているというだけで、
寄生虫のようにまとわりついてきて、
あたかも米つきバッタのようにふるまい、おこぼれを頂戴しようとする。
お金がなくなったら、こういうたぐいは
雲散霧消(うんさんむしょう)のごとく
例外なく、さっさと消え去るのが常。
「農業でいう害虫が、都会にも棲息しているさ~」
ということですね。
そういえば、我が家の近郊で、自動販売機も見たことがない。
町では、そこいら中にある目ざわりな自販機、
こんな今どき見慣れたものでも、
我が家からは、車で5、6分の共同売店に行くまでは1台も見当たりません。
なので、過疎地域では、必然的に
「必要なものは自分で作り出す」
必要があり、そこに楽しさを見つければ、
都会では味わえない、人間らしい営みが出来るのです。
山原(やんばる)は「ぬちぐすいの森」。
「ぬちぐすい」とは
「心から癒される」という意味です。
農業は、高度成長期以降、
「きつい、きたない、カッコ悪い」
の3Kに、最近では、さらに
「くさい、稼げない、結婚できない」
が加わった6K。
現在でも専業農家は少なく、専業だけでは食べていけない。
そのため後継希望は激減の一途。
農家の子供が、安心して農業を継げない現状に、
さらなる追い打ちをかけるようなTPP参加。
「じっちゃんの名にかけて」
と、強権をふるう総理のじっちゃんは、たしか、
第二次大戦の開戦時、東条内閣で商工大臣を務め、
当然のことながら開戦に賛同し、敗戦後、東京裁判でA級戦犯になりながら
なぜか不起訴になり、戦後の日本復興に深く関わり
その後の政官利権の巣窟を築いた人じゃなかったかな。
ふつうは、恥ずべきじっちゃんのはずが、
なんと、その孫が、恥ずべきじっちゃんの夢を追い求めるとは、いやはや…。
平和安全法制という、実態は戦争法案を、もし成立させたら、
日本は米国の従属国として米国のしでかす戦争に参加することになるのですが、
法案に賛成した政治家は、派兵される部隊に自ら毎回参加するんですよね?
妻子を従軍慰安婦として差し出すんですよね?
「やってみせ、いって聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人は動かじ」
と、山本五十六元帥が名言を残しているんですから。
まさか、勝手に法案を決めて「血を流すのは国民だ」なんて
そんなことにならないですよね?
TPPだって、本当はもうとっくに決まっているのに、
さも日本の農業を守るがごとく交渉を演出しているのは、
選挙の時の農協票を意識しているから。
身勝手な政官のために、日本は悪くなっていく一方。
かつて、クラーク博士が
「Boys be ambitious!(少年よ、大志を抱け!)」
という名言を残しましたが、
日本は、今や少年が夢を持てない時代に成り果てました。
そんな生きにくい時代であるからこそ、
不便だけど、人間らしい生活が出来る過疎は、なかなか魅力的なのです。
かといって、
「人間らしい生き方をしたい人は、過疎へ行くべき」
と主張したいところですが、
過疎は、受け入れ態勢がなっていないところが実に多い。
私の住む国頭(くにがみ)村なんか、その代表格といってもいい。
外部からの受け入れ態勢はゼロ、その対策すらしていません。
過疎地の行政マンは、
黒澤明監督、志村喬(たかし)主演の「生きる」という白黒映画を見て、
少しだけ奮起してくれればいいのですが…。
さて、前置きが長すぎてごめんなさい。
私は自給自足化を目指して、家庭菜園の域ですが、
多くの野菜作りをしています。
国頭(くにがみ)マージという酸性土壌が、私の畑の土で、
地力がない、つまり「痩せた土壌」という、困った土なんですよ。
故・福岡正信さんに感化して自然農法に取り組んだり、
微生物農法の薄上(うすがみ)秀男さんに感化したり、と
いきなり理想を高いところに求めたために、
ずいぶん失敗をして、回り道をしました。
なので、
「こうやったら、こうなっちゃうよ」
という失敗事例のレパートリーは、
自慢にはならないけど、かなり幅広いのです。
最近は、私は自然農法からランクを落として有機農法に。
完熟豚糞は、養豚農家のご厚意でタダで頂けますし、
山に柴刈りに行って倒木などを拾い集めて、
燃やした草木灰と、海岸のコーラルを混ぜて、土にすきこむと、
私なりに上出来な野菜が出来るようになりました。
都会のスーパーでは、野菜を買う時の基準は、
価格、産地、農法などを加味して
「見栄え、外観」を重視するはずですよね。
私が気にするのは、もちろん値段もそうですが、
「どうやって作ったのか?」
なんですよ。
外観なんかどうでもいいし、
「誰々さんが作りました」
なんて、
ニヤけたキモいおっさんの写真なんか、どうでもいいわけですよ。
「この野菜は、どうやって作りました」
という、具体的な作り方、どんな肥料を、いつ、どのくらいあげたのか、
除草剤や農薬、化成肥料を使ったのか、
産地も大事だけど、それよりも
「どうやって作ったか?」
という、一番大切なところが、販売店では
なんとなくぼかされているのが現実です。
「顔の見える農業」
というと、決まってキモいおっさんの写真。
そんなキモ顔なんか見せつけられたら、夜に思い出して
うなされるだけさ~。
「顔の見える農業」
とは、
「どうやって作ったのか」
を、消費者に知らせることなのに、
販売側は、農業をしたことがない、売り上げを伸ばしたいだけなので、
そういう本質が判ってないから、農家のキモ顔のおっさんを見せつけるだけ。
私は、そういったスーパーとかに行くたびに、
キモ顔をチラ見しては、農家のおっさんも販売側も
「バカじゃないの?」
と軽べつしているのさ~。
というわけで、私は今は完熟豚糞堆肥を使った有機農法で
家庭菜園をしているのです。
有機農法の問題点は、
「堆肥=栄養成分」
だと思い込み、良かれと思って堆肥を入れ過ぎるところにあります。
そんな有機農法の野菜を食べて、硝酸性窒素を取り過ぎると
体内で、亜硝酸と二級アミンが反応して、
「ニトロソアミン」という最強の発ガン性物質が出来てしまうことが
近年問題視されているのです。
なので、
「有機農法=安心」
とはいえるけど、
「有機農法=安全」
でもなく、
「堆肥を、いつ、どれだけ施肥したのか?」
というのが問題になるわけです。
スーパーで売られている有機栽培野菜には、
「JAS認証」シールが貼られているだけで、
これだけでは、本当は情報不足なんですよ。
ニヤけたキモいおっさんの顔写真は、もう論外!
黒い油性マジックインキを持って行って、
キモ顔の目線を黒く引いてあげればいいのさ~。
「Wanted 10000$」と書いてもいいかもね。
とは言いながら、私がうっかり失敗してしまったのは、
「ほうれん草の後に、キュウリを栽培した」
ということ。
ホームセンターに行くと、いろいろな野菜のタネや苗が売られていますが、
「コンパニオンプランツ」
といって、農産物同士の相性があるんですよ。
人間だって、コンビを組もうとした時に、
同性か異性か、年齢、性格、境遇などいろいろな相性の条件がありますよね。
野菜作りでいえば、例えば、
・トマトの後作に、キャベツやブロッコリー、ネギはいいけど
ナス、キュウリ、ピーマンはダメ
・ナスの後作に、かぼちゃやトウモロコシはいいけど、
トマト、ピーマン、唐辛子はダメ
・キュウリの後作で、トウモロコシ、ほうれん草はいいけど、
大根、かぼちゃ、ニンジンはダメ
・ニンジンの後作で、白菜やキャベツはいいけど、
トマトやキュウリはダメ
とかいうものが、理屈抜きにあるんですよ。
私の祖母から、そういったこと何度も聞かされて私は育ってきたので、
ある程度のコンパニオン・プランツの相性は知っていながら、
栽培する作物名を書いた札を単純に立て忘れたために、
「ここ、ちょうど空いてるから、キュウリでも植えとくかね~」
という凡ミスをしてしまったのです。

まあ、2歩進んで3歩戻ることも、たまにはあるさ~ね~!