ハイサイ、RIN(凛)です
先週の5月12日(火曜)に台風6号が沖縄本島に接近し、
バナナ園ではたいした被害はなかったのですが、
台風前から、立枯れ寸前の哀れなバナナが、ついに立ち枯れてしまいました。
そのバナナは半年前に開花して、房を出し、貧弱ながらも
何とか収穫期を迎えようと頑張っていたので、
毎日気になって、
「もう少しだから頑張ってね」
と声をかけていたのです。
台風6号では、その不憫(ふびん)バナナは、
倒壊こそ免れましたが、精根尽き果てたのか、ついに立枯れし始めてしまいました。
バナナは、沖縄では、地面に子株が出始めてから、
房が完熟するまでは約1年半かかるのですが、
房が完熟すると、電信柱のような仮茎(偽茎)は一気に立ち枯れ、
その栄華盛衰自体が哀れさを感じさせるものです。
今日収獲したバナナは、生育過程で、すでに弱りつつあり、
立ち枯れながらも、最後の力を振り絞って、房を黄色くさせようと頑張っていたので、
よけいに不憫(ふびん)さを感じてしまいました。
「側隠之心 (そくいんのこころ)」というのは、
性善説を唱えた孟子の「公孫丑・上」に書かれていて、
「側隠」は「哀れんでかわいそうに思うこと」、
「側隠の心」とは、「 不幸に同情していたわしく思う」という意味とされています。
明治時代に、新渡戸稲造(にとべいなぞう)が英文で出版した「武士道」では、
「側隠の心」について、
「武士道の美徳を敗者への共感、劣者への同情、弱者への愛情」
と書かれています。
現在の市場経済の成果主義、弱肉強食の世界では、
「側隠の心 」は、忘れられつつある、日本の大切な心だと思うのです。
さて、今日収獲したバナナの品種は
「小笠原種島バナナ」
です。
織田信長が産まれた1534年は群雄割拠の時代で、
戦国時代の幕開けのあたりですが、
ちょうどそのころ、沖縄では、1532年の尚清王統の時代で、
「芭蕉(ばしょう)」が栽培されていたとされています。
「芭蕉」は繊維を作り出す、バナナっぽいけど食用ではないので、
「バナナ」とは、違います。
この話は、また長くなるので、後日に回しますが、
1532年の尚清王統の時代の「芭蕉」が、
現在の、繊維や紙にする「芭蕉」なのか、あるいは食用の「バナナ」なのか
はっきりとしていませんが、
信長が「おぎゃあ」と母・土田御前(どたごぜん)から産まれた1534年に、
冊封使(さっぽうし、琉球国王に中国皇帝の勅書や王冠を授けるための使者)
として、琉球に来流した陳侃(ちんかん)という冊封正使の
冊封記録である「使琉球録」の中に、
「琉球の果村」として「芭蕉」の記載があるくらいですから、
それ以前には、「バナナ」が
中国や東南アジアとの交易で、
琉球にバナナが導入されていた可能性はあるのです。
沖縄の島バナナに「小笠原種」と付くのは、
1888年(明治21年)に、当時の国頭郡長・朝武士干城によって、
パイナップル、レモン等と一緒にバナナが導入されたのが始まり、
といわれていて、
その導入先の「小笠原」を尊重した、
いわば、日本舞踊や茶道の流派みたいなものなのです。
「小笠原種」バナナといっても、小笠原が原産ではなくて、
バナナはそもそもジャワあたりが原産ですが、
マレー半島を中心とした東南アジアの湿潤地帯で栽培化されたといわれ、
小笠原には、マレーからの直行ルートではなく、
ハワイあたりから1830年(天保元年)以降に導入された、という説もあります。
1830年は、フランスでは、海外に追放された皇帝ナポレオンに代わって
復活したブルボン王政が、民衆の言論の自由を奪い、
自由主義者たちを弾圧しようとしたため、
パリの民衆たちが蜂起し、ブルボン朝は終焉した「7月革命」があった年、
日本では江戸後期、11代目将軍家斉(いえなり)の時代で、
・1828年 シーボルト事件(オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国時に
禁制の日本地図を所持)
・1833年 歌川広重による「東海道五十三次」ができる
・1833~1839年 天保の大飢饉(ききん)
・1837年 大塩平八郎の乱 - 天保の大飢饉の影響により大塩平八郎が反乱
・1840年 遠山景元(遠山の金さん)が江戸北町奉行となる
アメリカの捕鯨の最盛期は1820~1860年で、
ハワイを捕鯨基地にして、太平洋一帯でマッコウクジラなどを捕獲していました。
鯨油やローソクは欧米を明るくし、灯台を点し、
産業革命では機械の潤滑油として利用されました。
当時、鯨製品は現在の石油やプラスチックの役割を果たし、文明文化に貢献したのです。
1827年、イギリス軍艦ブロッサム号が小笠原の父島に来航。
館長ビーチは新島発見と思い違いして国に報告したり、
捕鯨ジャパングランドの有望な補給基地として琉球と小笠原を挙げていますから、
小笠原には当時、欧米の捕鯨船が寄港していたのです。
1841年(天保12年)には、14歳の中濱(なかはま)萬次郎(ジョン万次郎)が、
土佐国から漁の手伝いに出て嵐に遭い、伊豆諸島の無人島鳥島に漂着し、
そこで米捕鯨船に救助されています。
なので、
「小笠原にバナナがハワイあたりから1830年(天保元年)以降に導入された」
というのは、捕鯨船によるものだと推察できるのです。
スーパーや果物店で売られているフィリピンバナナは
「ジャイアント・キャベンディッシュ」ですが、
沖縄の小笠原種島バナナは、「草丈が高く、長幹種の一種」と定義されていますが、
これは、通称「モンキーバナナ」のセニョリータ種を指していることでもあり、
沖縄の一般的な「島バナナ」は、このタイプにあたります。
皮が薄く、甘さがあり、酸味もあり、そのバランスが絶妙なので
日本一美味しいバナナなのです。
三尺バナナも栽培していますが、こっちは甘いだけで酸味がなく、
1本目は甘くて美味しいけど、2本目は「いいや」となってしまうんですよ。
バナナは、甘みは大事だけど、酸味がなければ美味しさを感じないのです。
そういう意味では、甘さと酸味の最高のバランスが「小笠原種島バナナ」なのです。
小笠原から沖縄にバナナが導入されたのが1888年ということは、
今年2015年では127年目になります。
100年くらい経たないと、在来種の仲間入りはなかなかできない、ということですよね。
仲良しのポーさんから「島バナナを買いたい」と言われていますが、
この不憫(ふびん)バナナは、生育不良だったし、
収穫時には、もう黄色くなり始めていたので、これは不良品。
なので、これではちょっと送れないさ~ね~。
出来が良いのを送りますから、もう少しお待ちくださいね!

先週の5月12日(火曜)に台風6号が沖縄本島に接近し、
バナナ園ではたいした被害はなかったのですが、
台風前から、立枯れ寸前の哀れなバナナが、ついに立ち枯れてしまいました。
そのバナナは半年前に開花して、房を出し、貧弱ながらも
何とか収穫期を迎えようと頑張っていたので、
毎日気になって、
「もう少しだから頑張ってね」
と声をかけていたのです。
台風6号では、その不憫(ふびん)バナナは、
倒壊こそ免れましたが、精根尽き果てたのか、ついに立枯れし始めてしまいました。
バナナは、沖縄では、地面に子株が出始めてから、
房が完熟するまでは約1年半かかるのですが、
房が完熟すると、電信柱のような仮茎(偽茎)は一気に立ち枯れ、
その栄華盛衰自体が哀れさを感じさせるものです。
今日収獲したバナナは、生育過程で、すでに弱りつつあり、
立ち枯れながらも、最後の力を振り絞って、房を黄色くさせようと頑張っていたので、
よけいに不憫(ふびん)さを感じてしまいました。
「側隠之心 (そくいんのこころ)」というのは、
性善説を唱えた孟子の「公孫丑・上」に書かれていて、
「側隠」は「哀れんでかわいそうに思うこと」、
「側隠の心」とは、「 不幸に同情していたわしく思う」という意味とされています。
明治時代に、新渡戸稲造(にとべいなぞう)が英文で出版した「武士道」では、
「側隠の心」について、
「武士道の美徳を敗者への共感、劣者への同情、弱者への愛情」
と書かれています。
現在の市場経済の成果主義、弱肉強食の世界では、
「側隠の心 」は、忘れられつつある、日本の大切な心だと思うのです。
さて、今日収獲したバナナの品種は
「小笠原種島バナナ」
です。
織田信長が産まれた1534年は群雄割拠の時代で、
戦国時代の幕開けのあたりですが、
ちょうどそのころ、沖縄では、1532年の尚清王統の時代で、
「芭蕉(ばしょう)」が栽培されていたとされています。
「芭蕉」は繊維を作り出す、バナナっぽいけど食用ではないので、
「バナナ」とは、違います。
この話は、また長くなるので、後日に回しますが、
1532年の尚清王統の時代の「芭蕉」が、
現在の、繊維や紙にする「芭蕉」なのか、あるいは食用の「バナナ」なのか
はっきりとしていませんが、
信長が「おぎゃあ」と母・土田御前(どたごぜん)から産まれた1534年に、
冊封使(さっぽうし、琉球国王に中国皇帝の勅書や王冠を授けるための使者)
として、琉球に来流した陳侃(ちんかん)という冊封正使の
冊封記録である「使琉球録」の中に、
「琉球の果村」として「芭蕉」の記載があるくらいですから、
それ以前には、「バナナ」が
中国や東南アジアとの交易で、
琉球にバナナが導入されていた可能性はあるのです。
沖縄の島バナナに「小笠原種」と付くのは、
1888年(明治21年)に、当時の国頭郡長・朝武士干城によって、
パイナップル、レモン等と一緒にバナナが導入されたのが始まり、
といわれていて、
その導入先の「小笠原」を尊重した、
いわば、日本舞踊や茶道の流派みたいなものなのです。
「小笠原種」バナナといっても、小笠原が原産ではなくて、
バナナはそもそもジャワあたりが原産ですが、
マレー半島を中心とした東南アジアの湿潤地帯で栽培化されたといわれ、
小笠原には、マレーからの直行ルートではなく、
ハワイあたりから1830年(天保元年)以降に導入された、という説もあります。
1830年は、フランスでは、海外に追放された皇帝ナポレオンに代わって
復活したブルボン王政が、民衆の言論の自由を奪い、
自由主義者たちを弾圧しようとしたため、
パリの民衆たちが蜂起し、ブルボン朝は終焉した「7月革命」があった年、
日本では江戸後期、11代目将軍家斉(いえなり)の時代で、
・1828年 シーボルト事件(オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国時に
禁制の日本地図を所持)
・1833年 歌川広重による「東海道五十三次」ができる
・1833~1839年 天保の大飢饉(ききん)
・1837年 大塩平八郎の乱 - 天保の大飢饉の影響により大塩平八郎が反乱
・1840年 遠山景元(遠山の金さん)が江戸北町奉行となる
アメリカの捕鯨の最盛期は1820~1860年で、
ハワイを捕鯨基地にして、太平洋一帯でマッコウクジラなどを捕獲していました。
鯨油やローソクは欧米を明るくし、灯台を点し、
産業革命では機械の潤滑油として利用されました。
当時、鯨製品は現在の石油やプラスチックの役割を果たし、文明文化に貢献したのです。
1827年、イギリス軍艦ブロッサム号が小笠原の父島に来航。
館長ビーチは新島発見と思い違いして国に報告したり、
捕鯨ジャパングランドの有望な補給基地として琉球と小笠原を挙げていますから、
小笠原には当時、欧米の捕鯨船が寄港していたのです。
1841年(天保12年)には、14歳の中濱(なかはま)萬次郎(ジョン万次郎)が、
土佐国から漁の手伝いに出て嵐に遭い、伊豆諸島の無人島鳥島に漂着し、
そこで米捕鯨船に救助されています。
なので、
「小笠原にバナナがハワイあたりから1830年(天保元年)以降に導入された」
というのは、捕鯨船によるものだと推察できるのです。
スーパーや果物店で売られているフィリピンバナナは
「ジャイアント・キャベンディッシュ」ですが、
沖縄の小笠原種島バナナは、「草丈が高く、長幹種の一種」と定義されていますが、
これは、通称「モンキーバナナ」のセニョリータ種を指していることでもあり、
沖縄の一般的な「島バナナ」は、このタイプにあたります。
皮が薄く、甘さがあり、酸味もあり、そのバランスが絶妙なので
日本一美味しいバナナなのです。
三尺バナナも栽培していますが、こっちは甘いだけで酸味がなく、
1本目は甘くて美味しいけど、2本目は「いいや」となってしまうんですよ。
バナナは、甘みは大事だけど、酸味がなければ美味しさを感じないのです。
そういう意味では、甘さと酸味の最高のバランスが「小笠原種島バナナ」なのです。
小笠原から沖縄にバナナが導入されたのが1888年ということは、
今年2015年では127年目になります。
100年くらい経たないと、在来種の仲間入りはなかなかできない、ということですよね。
仲良しのポーさんから「島バナナを買いたい」と言われていますが、
この不憫(ふびん)バナナは、生育不良だったし、
収穫時には、もう黄色くなり始めていたので、これは不良品。
なので、これではちょっと送れないさ~ね~。
出来が良いのを送りますから、もう少しお待ちくださいね!