ハイサイ、RIN(凛)です
我が家に一番近い隣家でも、直線距離で500mも離れている秘境ですから、
近くには海や山もあれば、谷や川、池だってあるし、
私が「グランドキャニオン」と、勝手に名付けた近くの渓谷っぽいところもあり、
RIN(凛)君の散歩コースのレパートリーに今日からここが加わりました。
今朝は野良犬軍団が遠出しているようで姿が見えないので、
RIN(凛)君も、こっちの「グランドキャニオン」山岳コースを選択して、
恐る恐るやって来たのです。
6年前に、山原(やんばる)に引っ越してきた時には、
まだRIU(琉)君が、元気に歩けたので、散歩も楽だったのですが、
RIU(琉)君が、この「グランドキャニオン」を初めて見た時も、
そういえば、5分くらい固まって見とれていたなあ。
「呆気(あっけ)にとられていた」
というのではなく、
「見とれていた」
と思える理由は、
その後、RIU(琉)君のお気に入りの散歩コースになったからです。
気に入らなかったら、行くわけないですよね。
RIU(琉)君は、それまで町の中で、
いろいろな制限や制約がある窮屈な暮らしをしていたので、
雄大な自然の中で生活できることが嬉しかったのだと思います。
「グランドキャニオン」は、ふだんは野良犬軍団の住処(すみか)となっていて、
いわば山賊集団のような感じで、渓谷を不法占拠しているので、
「君子、危きは近寄らず」
と、RIN(凛)君も今朝、初めてここに来れたのですが、
前のRIU(琉)君同様に、RIN(凛)君も
圧倒的な非日常的光景に心が奪われていたに相違ありません。
グランドキャニオンに見入っているRIN(凛)君を見ていると、
デカルトの「われ思う、故に我あり」という有名な言葉を思い出しました。
RIN(凛)君が、「われ思う」のは、いったい何を考えているのかなって。
この世で「最も確かなこと」とは、何だろう?
この世で「全く疑う余地のないこと」とは、何だろう?
たとえば、目の前にある世界は、はたして本物だろうか?
いやいや、これは幻なのかもしれない。夢なのかもしれないさ。
だって、夢を見ているとき、これが夢だとは気がつかないよね。
そう考えたら、今、見ているものは、実際には存在しないのかもしれない。
これが夢や幻じゃないと、どうやって証明できるだろう。
そんなことは、原理的に決してできやしないよね。
じゃあ、数学は?学問は?論理は?
いやいや、それが正しいと思うのは、思い込みかもしれないさ。
だって、夢をみているときって、論理的におかしなことが起きても、
それをちっともおかしいと感じないのだから。
だとすると、「絶対的に正しい」と宣言できるものは 何もないのかな?
デカルトは、全てを疑い、疑って、疑って、疑い続けて、
それでも正しいといえるものは何かを根気強く考え続けた結果、
ある日、天啓のような考えがひらめいた。
「我々が認識するものは、すべて嘘かもしれない。
でも、それを疑い続けているものがいるということだけは真」
であると。
たとえ、
「疑っている」ということを疑ったとしても、
やっぱり「何かを疑っている」こと自体は真なのだ、と。
たとえ、すべてが夢であっても、その夢を見て、
夢じゃないかと疑っている自分が存在することは決して疑えない。
この世のすべてが、信じられないものであろうとも、
それを「疑っている何者かが存在すること」は、絶対的な真実なのだ、と。
これが「我思う、ゆえに我在り」という言葉の本質的な意味で、
デカルトは、この言葉を「決して疑えない確かな真実」として、
哲学の第一原理にすえたのですが、
「グランドキャニオン」に見とれて「われ思う」RIN(凛)君も、
そんな哲学的なことを考えていたのかな?
RIN(凛)君の故郷は、沖縄本島南部の与那原(よなばる)町。
山原(やんばる)からは車で片道3時間はかかる遥か遠い故郷。
「誰(たれ)か故郷を思わざる」
的な心境で、
「お父さんやお母さんは、どうしているかな?」
「兄弟たちは元気で暮らしているかな?」
とセンチメンタリズムに浸っていたのかな?
「思えば遠くへ来たもんだ」
武田鉄矢さんが作詞した歌の歌詞には
思えば遠くへ来たもんだ 故郷離れて6年目
思えば遠くへ来たもんだ この先どこまでゆくのやら
思えば遠くへ来たもんだ 振り向くたびに故郷は
思えば遠くへ来たもんだ 遠くなるような気がします
思えば遠くへ来たもんだ ここまで一人で来たけれど
思えば遠くへ来たもんだ この先どこまでゆくのやら
というのがありましたね。
RIN(凛)君は、故郷を離れてまだ2か月ですけど。
でも、いつか、RIN(凛)君ご両親や兄弟たちに再会させてあげたい。
けど、RIN(凛)君の故郷は、今住んでいる山原(やんばる)で、
生まれた実家は、心の故郷だから、
みなしごハッチみたいに、
生き別れになった母親を探しに行かないでよ

我が家に一番近い隣家でも、直線距離で500mも離れている秘境ですから、
近くには海や山もあれば、谷や川、池だってあるし、
私が「グランドキャニオン」と、勝手に名付けた近くの渓谷っぽいところもあり、
RIN(凛)君の散歩コースのレパートリーに今日からここが加わりました。
今朝は野良犬軍団が遠出しているようで姿が見えないので、
RIN(凛)君も、こっちの「グランドキャニオン」山岳コースを選択して、
恐る恐るやって来たのです。
6年前に、山原(やんばる)に引っ越してきた時には、
まだRIU(琉)君が、元気に歩けたので、散歩も楽だったのですが、
RIU(琉)君が、この「グランドキャニオン」を初めて見た時も、
そういえば、5分くらい固まって見とれていたなあ。
「呆気(あっけ)にとられていた」
というのではなく、
「見とれていた」
と思える理由は、
その後、RIU(琉)君のお気に入りの散歩コースになったからです。
気に入らなかったら、行くわけないですよね。
RIU(琉)君は、それまで町の中で、
いろいろな制限や制約がある窮屈な暮らしをしていたので、
雄大な自然の中で生活できることが嬉しかったのだと思います。
「グランドキャニオン」は、ふだんは野良犬軍団の住処(すみか)となっていて、
いわば山賊集団のような感じで、渓谷を不法占拠しているので、
「君子、危きは近寄らず」
と、RIN(凛)君も今朝、初めてここに来れたのですが、
前のRIU(琉)君同様に、RIN(凛)君も
圧倒的な非日常的光景に心が奪われていたに相違ありません。
グランドキャニオンに見入っているRIN(凛)君を見ていると、
デカルトの「われ思う、故に我あり」という有名な言葉を思い出しました。
RIN(凛)君が、「われ思う」のは、いったい何を考えているのかなって。
この世で「最も確かなこと」とは、何だろう?
この世で「全く疑う余地のないこと」とは、何だろう?
たとえば、目の前にある世界は、はたして本物だろうか?
いやいや、これは幻なのかもしれない。夢なのかもしれないさ。
だって、夢を見ているとき、これが夢だとは気がつかないよね。
そう考えたら、今、見ているものは、実際には存在しないのかもしれない。
これが夢や幻じゃないと、どうやって証明できるだろう。
そんなことは、原理的に決してできやしないよね。
じゃあ、数学は?学問は?論理は?
いやいや、それが正しいと思うのは、思い込みかもしれないさ。
だって、夢をみているときって、論理的におかしなことが起きても、
それをちっともおかしいと感じないのだから。
だとすると、「絶対的に正しい」と宣言できるものは 何もないのかな?
デカルトは、全てを疑い、疑って、疑って、疑い続けて、
それでも正しいといえるものは何かを根気強く考え続けた結果、
ある日、天啓のような考えがひらめいた。
「我々が認識するものは、すべて嘘かもしれない。
でも、それを疑い続けているものがいるということだけは真」
であると。
たとえ、
「疑っている」ということを疑ったとしても、
やっぱり「何かを疑っている」こと自体は真なのだ、と。
たとえ、すべてが夢であっても、その夢を見て、
夢じゃないかと疑っている自分が存在することは決して疑えない。
この世のすべてが、信じられないものであろうとも、
それを「疑っている何者かが存在すること」は、絶対的な真実なのだ、と。
これが「我思う、ゆえに我在り」という言葉の本質的な意味で、
デカルトは、この言葉を「決して疑えない確かな真実」として、
哲学の第一原理にすえたのですが、
「グランドキャニオン」に見とれて「われ思う」RIN(凛)君も、
そんな哲学的なことを考えていたのかな?
RIN(凛)君の故郷は、沖縄本島南部の与那原(よなばる)町。
山原(やんばる)からは車で片道3時間はかかる遥か遠い故郷。
「誰(たれ)か故郷を思わざる」
的な心境で、
「お父さんやお母さんは、どうしているかな?」
「兄弟たちは元気で暮らしているかな?」
とセンチメンタリズムに浸っていたのかな?
「思えば遠くへ来たもんだ」
武田鉄矢さんが作詞した歌の歌詞には
思えば遠くへ来たもんだ 故郷離れて6年目
思えば遠くへ来たもんだ この先どこまでゆくのやら
思えば遠くへ来たもんだ 振り向くたびに故郷は
思えば遠くへ来たもんだ 遠くなるような気がします
思えば遠くへ来たもんだ ここまで一人で来たけれど
思えば遠くへ来たもんだ この先どこまでゆくのやら
というのがありましたね。
RIN(凛)君は、故郷を離れてまだ2か月ですけど。
でも、いつか、RIN(凛)君ご両親や兄弟たちに再会させてあげたい。
けど、RIN(凛)君の故郷は、今住んでいる山原(やんばる)で、
生まれた実家は、心の故郷だから、
みなしごハッチみたいに、
生き別れになった母親を探しに行かないでよ
