はいさい、RINです
今どき、
「山に柴刈りに行く」なんていうと、
「昔話に出てくるおじいさんみたいだね」とか
「山に芝なんかあるの?」と思われる人が多いと思います。
「柴刈り」というのは、ゴルフ場や庭の「芝刈り」のことではありません。
山には「芝生」はないですから。
「柴」とは、里山などに生えている細い雑木などのことです。
昔はこれを刈ったり、倒木を拾ったりして
炊事などの焚きつけ用の燃料、
つまり焚き木として、生活の必須アイテムだったのです。
電気も水道もない昔、
もちろん炊飯器も洗濯機も携帯電話もない昔。
おばあさんは川に洗濯に行き、ついでに飲料水も桶に汲み上げ、
おじいさんは山に焚き木拾いに行って、かまどで焚く準備をするのが
日常の生活スタイルだったわけです。
我が家の前は林道なので、車で5分も山に上がれば、
軽トラの荷台に、落ち葉や枯れ木、倒木などの焚き木が
わんさか取れます。
数日晴天が続いて木が乾燥した頃を見計らって、
月に3,4回「山に柴刈りに」行けば十分な量が確保できるのです。
この焚き木を、時計ストーブで燃やして、
毎日、土鍋でご飯を炊いたり、肉や魚を焼いたり煮たり、
お湯を沸かしたりといった調理に利用しています。
いわば、毎日庭でバーベQをするようなものです。
燃えカスの灰は、有益な肥料として使うので、
時計ストーブは屋根のある納戸の隣に設置し、
夏の酷暑でも雨天時でも、台風時でも休みなく通年使用しています。
ストーブは沖縄では無縁で、
もちろんホームセンターでも扱っていませんし、
沖縄ではストーブを見たことがない人がほとんどですから、
時計ストーブは、新潟県のホンマ製作所から取り寄せました。
「ステンレス 時計1型薪ストーブセット ASS-60」
10500円と、安価ですが高性能で、お買い得でした。
昔は当たり前のことでも、
効率重視で、便利で過ごしやすい現代社会で、
今どき、昔の文化遺産のような「焚き木拾い」なんか
珍しいというより奇異に思われるかもしれませんが、
これこそ、スローライフでありロハスライフの象徴だと思うのです。
「最寄りのコンビニまで車で30分」
だから不便、とは確かに言えますが、
「人と自然がやさしく共生できる、人間らしい暮らし」
は、都会では味わえないと思うと、
贅沢にも思えてくるのです。
「山に柴刈りに行く」
ことは、
森の香り(フィトンチッド)が体に良く、山ををきれいにし、
畑で良い作物を作り、さらにガス代が節約できて、調理が美味しくなる」
という一石五鳥になっています。
しかも、自然の火力では、ご飯も炊飯器より断然美味しいです。
「面白そうだけど、ちょっと面倒そう」
と思われるでしょうけど、
これが、慣れるとウキウキするくらい楽しいのです。
かつて、海や川に近い森の端に人が住み、
海で貝類や海藻、魚を獲り、山では木の実を採った…、
そんな時代を彷彿させるような暮らしが、私は楽しく快適で
居心地が良いのです。
「垣根の 垣根の曲がり角 焚き火だ 焚き火だ 落ち葉焚き…」
という出だしで始まる童謡「焚き火」。
古き良き昭和の時代では、
公園や道端で街路樹の落ち葉をかき集めたり
木造の新築とか建築工事現場では、
早朝や夕方に棟梁が職人を集めて、
掃除したついでに焚き火を囲みながら
打ち合わせや段取りの指示をしているのを
よく見かけたものです。
それが、1970年を超えたあたりから、
徐々町で焚き火の光景を見なくなり、
公園法が出来て公園で焚き火禁止とか河川敷でもダメだとか、
平成12年にはダイオキシンの発生原因になるというので
廃棄物の処理及び清掃に関する法律が出来て、
家庭ゴミの自宅焼却も原則禁止になり、
いつしか
「焚き火をしない、焚き火してはいけない」
という雰囲気になってしまい、
「季節の風物詩でもあった焚き火を見かけないなんて、
なんだか風情のない、窮屈で寂しい世の中になったなあ」
と思うのです。
時計ストーブを焚いていると、
昔の焚き火の暖かさや、
焚き火で焼くヤキイモの美味しさ、
意外な人が焚き木の達人だったり…、
いろいろなことが懐かしく思い出されます。
落ち葉は、コーヒー苗木ポットにも山盛りに置いたり、
畑でもあちこち撒いたり、私は多用しています。
落ち葉は微生物が分解して腐葉土になり、
自然の肥料として、とても重宝しています。
また、落ち葉にはミミズや小さい虫が多く、
必ずヤンバルクイナが集まってきて落ち葉を突いていますね。
草木灰も、自然の有益な肥料です。
「花咲か爺さん」というより、私は「花咲か婆さん」で、
「山ガール」というより、山姥(ヤマンバ)ですけど。

今どき、
「山に柴刈りに行く」なんていうと、
「昔話に出てくるおじいさんみたいだね」とか
「山に芝なんかあるの?」と思われる人が多いと思います。
「柴刈り」というのは、ゴルフ場や庭の「芝刈り」のことではありません。
山には「芝生」はないですから。
「柴」とは、里山などに生えている細い雑木などのことです。
昔はこれを刈ったり、倒木を拾ったりして
炊事などの焚きつけ用の燃料、
つまり焚き木として、生活の必須アイテムだったのです。
電気も水道もない昔、
もちろん炊飯器も洗濯機も携帯電話もない昔。
おばあさんは川に洗濯に行き、ついでに飲料水も桶に汲み上げ、
おじいさんは山に焚き木拾いに行って、かまどで焚く準備をするのが
日常の生活スタイルだったわけです。
我が家の前は林道なので、車で5分も山に上がれば、
軽トラの荷台に、落ち葉や枯れ木、倒木などの焚き木が
わんさか取れます。
数日晴天が続いて木が乾燥した頃を見計らって、
月に3,4回「山に柴刈りに」行けば十分な量が確保できるのです。
この焚き木を、時計ストーブで燃やして、
毎日、土鍋でご飯を炊いたり、肉や魚を焼いたり煮たり、
お湯を沸かしたりといった調理に利用しています。
いわば、毎日庭でバーベQをするようなものです。
燃えカスの灰は、有益な肥料として使うので、
時計ストーブは屋根のある納戸の隣に設置し、
夏の酷暑でも雨天時でも、台風時でも休みなく通年使用しています。
ストーブは沖縄では無縁で、
もちろんホームセンターでも扱っていませんし、
沖縄ではストーブを見たことがない人がほとんどですから、
時計ストーブは、新潟県のホンマ製作所から取り寄せました。
「ステンレス 時計1型薪ストーブセット ASS-60」
10500円と、安価ですが高性能で、お買い得でした。
昔は当たり前のことでも、
効率重視で、便利で過ごしやすい現代社会で、
今どき、昔の文化遺産のような「焚き木拾い」なんか
珍しいというより奇異に思われるかもしれませんが、
これこそ、スローライフでありロハスライフの象徴だと思うのです。
「最寄りのコンビニまで車で30分」
だから不便、とは確かに言えますが、
「人と自然がやさしく共生できる、人間らしい暮らし」
は、都会では味わえないと思うと、
贅沢にも思えてくるのです。
「山に柴刈りに行く」
ことは、
森の香り(フィトンチッド)が体に良く、山ををきれいにし、
畑で良い作物を作り、さらにガス代が節約できて、調理が美味しくなる」
という一石五鳥になっています。
しかも、自然の火力では、ご飯も炊飯器より断然美味しいです。
「面白そうだけど、ちょっと面倒そう」
と思われるでしょうけど、
これが、慣れるとウキウキするくらい楽しいのです。
かつて、海や川に近い森の端に人が住み、
海で貝類や海藻、魚を獲り、山では木の実を採った…、
そんな時代を彷彿させるような暮らしが、私は楽しく快適で
居心地が良いのです。
「垣根の 垣根の曲がり角 焚き火だ 焚き火だ 落ち葉焚き…」
という出だしで始まる童謡「焚き火」。
古き良き昭和の時代では、
公園や道端で街路樹の落ち葉をかき集めたり
木造の新築とか建築工事現場では、
早朝や夕方に棟梁が職人を集めて、
掃除したついでに焚き火を囲みながら
打ち合わせや段取りの指示をしているのを
よく見かけたものです。
それが、1970年を超えたあたりから、
徐々町で焚き火の光景を見なくなり、
公園法が出来て公園で焚き火禁止とか河川敷でもダメだとか、
平成12年にはダイオキシンの発生原因になるというので
廃棄物の処理及び清掃に関する法律が出来て、
家庭ゴミの自宅焼却も原則禁止になり、
いつしか
「焚き火をしない、焚き火してはいけない」
という雰囲気になってしまい、
「季節の風物詩でもあった焚き火を見かけないなんて、
なんだか風情のない、窮屈で寂しい世の中になったなあ」
と思うのです。
時計ストーブを焚いていると、
昔の焚き火の暖かさや、
焚き火で焼くヤキイモの美味しさ、
意外な人が焚き木の達人だったり…、
いろいろなことが懐かしく思い出されます。
落ち葉は、コーヒー苗木ポットにも山盛りに置いたり、
畑でもあちこち撒いたり、私は多用しています。
落ち葉は微生物が分解して腐葉土になり、
自然の肥料として、とても重宝しています。
また、落ち葉にはミミズや小さい虫が多く、
必ずヤンバルクイナが集まってきて落ち葉を突いていますね。
草木灰も、自然の有益な肥料です。
「花咲か爺さん」というより、私は「花咲か婆さん」で、
「山ガール」というより、山姥(ヤマンバ)ですけど。