はじめに
ふと、こんな思いが心に浮かびました。
私たちは、過去の決断に迷いや後悔を抱えることがあります。
でも――
その選択が、結果としてうまくいかなかったとしても、
その選択によって、自分の「本質」に立ち戻ることができたなら、
それはきっと、まちがいではなかった。
そんなことを感じながら、詩を書きました。
詩:まちがいだったとしても、私は羽ばたける
ひとつの決断が
まちがいだったと気づくときがあります
その気づきには
痛みという代償が伴うこともある
「あのとき、なぜ……」
その問いが何度も胸をよぎる
でも その痛みの先で
私は 本来の自分に立ち戻っていく
選びたかった気持ち
聞こえなかった声
見えていなかった想いに
ようやく触れはじめる
あの選択がなければ
たどり着けなかった場所
ふと気づく
遠くで起きた出来事が
自分のなかにも 同じかたちであったことに
世界の迷いは
わたしの迷いと どこか響きあっている
それは 成功ではないかもしれない
けれど
自分に戻れたという確信が
新しい道を照らしはじめる
その道がどこへ続くかは
まだわからない
けれど もう私は知っている
今の私は
本当の私の足で 歩き出している
おわりに(解説)
「あれは間違いだった」――
そう気づくことは、ときに痛みを伴います。
でも、その痛みの奥には、
自分自身の本質に立ち戻るための通路が隠れています。
私たちは、社会という大きな流れのなかで、
ときに時代全体が、間違った選択をしてしまったと感じることがあります。
たとえば、一人のリーダーを選んだという集団の決断――
それもまた、後から見れば「どうしてあんな選択を?」と思えることがあるでしょう。
でも、そんなマクロの出来事も、
実は私たち一人ひとりの中で、
日々くり返されているミクロの選択の延長線上にあります。
自分の小さな決断を見つめ直すこと――
それは世界を見つめ直すこととつながっています。
そしてそのことに気づいたとき、
私たちはもう、「失敗」ではなく「目覚めの入り口」に立っているのかもしれません。
本当の自分に戻ることは、個人の癒しであると同時に、
世界全体を癒していく静かな光にもなりうるのです。
たとえシニア世代になっても、
気づきの喜びは、いつだって新しく訪れます。
それは人生の終わりではなく、
今ここから始まる「これから深まっていく人生」への、静かな鐘の音なのかもしれません。
そして――
それはまるで、長い静けさのなかで変容を遂げたさなぎが、
ある朝、そっと羽をひらく瞬間のよう。
