やっと巡れた 山梨県編 その2 | ヒポポのてきとう気まぐれ日記

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気まぐれに登山やハイキングの事を書いてます。
日々のつまらない事を書いてます。

河口浅間神社

 

「 人皇第五十六代清和天皇の御宇、
貞観(じょうがん)六年(八六四年)五月に富士山大噴火の
火の事あり、富士山北面に在った大湖、
剗ノ海(現:青木ヶ原流域)埋没す。
この様な大噴火の為、時の住民は甚大な被害を被く。
此の事、甲斐の国司、橘ノ末茂公より朝廷に奏上、翌貞観七年
十二月月九日丙辰の勅命により、富士山の神、浅間明神を
弧の地に奉斎、擬の大領-無位伴直真貞公を祝に、同郡の人伴
秋吉公を禰宜に任じ、富士山噴火の鎮祭を行う。」

これ当神社の御創祀である。
延喜の制により名神大社に列せられる。

平成二十五年六月二十六日、
富士山世界遺産の構成資産となる。(国指定史跡)

 

浅間神社は富士山をご神体として、小高い丘の上から霊峰・富士を遥拝する信仰から生まれました。古くは「浅間」を「せんげん」ではなく、「あさま」と読んだことに由来します。
富士と人との係りは、遙拝、修験、登拝と続きます。
当神社は、遙拝、修験、登拝を有する唯一の神社です。

 

 

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河口浅間神社

 

 

冨士御室浅間神社

文武天皇3年(699年)に藤原義忠によって霊山富士二合目に奉斉されたと伝えられる。
その後708(和銅1)年に祭場の形を造り、720(養老4)、807(大同2)年に雨屋、社殿を創建された。
富士噴火のため焼失したが、その後、しばしば再興、増設された。社名の「御室」は、かつて祭祀を石柱をめぐらせた中で執り行っていたことによるものである。 天徳2年(958年)には、村上天皇により、氏子の祭祀の利便のため河口湖の南岸に里宮が創建された。中世には修験道、近世には富士講と結びついて発展した。特に戦国時代には甲斐武田家三代に渡り崇敬を受け、武田信玄公直筆の安産祈願文を始め、多数の古文書が今も保管されている。現在の本殿は、慶長17年(1612年)に徳川家の家臣の鳥居成次によって建てられたものである。その後4回の大改修を経て、昭和48年(1973年)に富士山二合目から里宮に移築された。構造は、一間社母屋造り、向拝唐破風造りで、屋根は檜皮茸形銅板茸きであり、桃山時代の特徴をもっている。国の重要文化財に指定されている。
平成23年2月、二合目本宮境内地、並びに里宮境内地が『史跡富士山』に指定される

 

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冨士御室浅間神社

 

更に本日調べていたらニコニコ

この他にも山梨県側に6社あることが判明しました汗

 

冨士山下宮小室浅間神社

忍野八海浅間神社

北東本宮小室浅間神社(大明見小室浅間神社)

山中浅間神社

無戸室浅間神社(船津胎内樹型)

浅間日月神社

 

まだあるのかもしれませんが汗

次回行く時は山梨県側の10社ニコニコ

静岡県側の6+4社←4社新たに発見あせる

それぞれ1日ずつ廻る様にしないとねあせる

 

ここまで見て頂いてありがとうございますニコニコ

次回は静岡編ですニコニコ

 

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