起床し、18時に夜ご飯を食べ、19時には現場で作業をする。

赤く光る誘導灯に、真っ赤な作業服。椅子に座ったり、立って誘導。車が来るのは1時間に一台来るか来ないか。

天気なんて関係ない。雪が降り、大雨に濡れ、空港の風がそのまま肌にあたり、寒さと心細さが毎日襲い掛かってくる。

そんな環境の中でも人間は慣れて、適応する。おもしろい。

 

誰もいないショッピングモールの横を通り、かじかむ手を擦りながら、仕事が終わる。揺られる電車の中はいつもと違ってみんなが仕事行ってる時に帰っているのは何か不思議な嬉しいような気持ちだった。改札に向かって早歩きしてくるのを横目に、ゆっくりぼーっと逆方向に歩く。

いつも家に帰るのは朝の7時半過ぎだった。

気づけば約二か月、初めて関西で衣食住をした。

 

ただ苦しかったわけではない。少しずつ楽しみに目を向ける余裕が生まれてきた頃、とある2人とのあいさつが日課になっていった。毎日必ず同じ時間、同じ場所で会い、一言会話してくれる夫婦。健康のために朝からの散歩をもう何十年も続けているそう。朝から生き生きした声と表情で「今日もご苦労さん!昨日の夜は寒かったねぇ」が決まり文句。もうすぐ仕事が終わるというのに、逆に元気が出てきたりもした。一方で、雇われつつも、雇う側の立場も同時に学んだ。

シフトの組み立て、給料の管理、現場指導、休憩所の清掃、備品調達、日程管理、不規則な対応。シフトに入る方は、開始時間の数分前には着いて準備して終わったら帰ればいいが、管理する方はそういうわけにはいかない。

仕事が成り立つ仕組みや上に立っている人から見る角度、時間やお金の使い方。その土地に住んでみないと見えてこないものもある。今となっては今年のいいスタートだと思える。

 

振り返りは一瞬でできるが、かかった2か月という時間には、体力だけじゃなく、場所も限定されれば、好きな時に好きな場所には行けない。矛盾しているようだが、徐々にやりたいことより、やりたくないことが洗い出されてきた。

 

一番は「時間の対価=お金」がはっきりと見えた。時間をかけて位を上げ、ある程度の暮らしをする頃には、知らない土地に触れる好奇心や、いろんなことに興味を持つことはなく、ドブにお金を捨てるようなこと、安定や休息を求めている大人になりたくないと思った。考えることをしなくても生きていける仕組みがあるからこそ。

 

雇われるのは楽だけど、もっと先の面白いことに挑戦してみたい。

 

サッカーのピッチ内とスタンドから見る景色が全く違うのと同じで、国境を越えてから観る日本はやはり誇らしい。海外に行く度に素晴らしい国だと実感する。

 

言語、環境、大学、人々。僕が困った顔をすると、年配の方は日本語で答えてくれる。そんな歴史的背景と、実際に足を運ぶことでしか見えてこない事もたくさんあった。

 

携帯一つで完結してしまうからこそ、一旦横に置いて、自分で自分を遠くへ導いてあげる必要がある。

 

お金の使い方、作り方、働くことも住む場所も、全て自分で決めることができるから人生は面白い。

 

百聞は一見にしかず。

この文章を見たところで何も変わらないが、いつもとは違う一歩を踏み出してこそ、発信している意味があると僕は思う。



#台湾

#中山大学


 

 

お弁当を買えば、肉は端っこの余りの方。
青菜とエビの炒め物。エビを食べたいのに最後に一つ二つしか入れてくれない。炒り卵を指さして頼んでも、目玉焼きが出てきたり…
言葉が通じないだけで、こんなにも目に見える形で差別される。日本を出ないとなかなか出来ない経験の一つ。

1日3回の食事の時間。せっかくなら何か学んでやろうと、マップなど見ず、歩いて良さそうな店を散策する。

"焼肉飯"がすぐ目に入って、中国語だし、自分が思ってる焼肉飯じゃないだろうけど、焼肉飯なら美味しいと思って入ってみた。店員さんにGoogle翻訳で、焼肉飯を出した。理解されなかったけどニコッと笑った。
何か一言、二言、話を聞いて、英語でカード使える?って聞いてみた。26ドルと言われて、全然会話が成り立っていない。けどお互い会話しようとしてたのが伝わったのか、お客さんもにも何か伝わったのかほんわかな空気になった。

しばらくすると、運ばれてきた。
本当に美味しそう。目を閉じて両手をしっかり合わせた。

プラスあとからスープ。
シンプルかつ、何であんなにうまいんだ。
これまでの色々が経験がさらにこの一皿を美味しくした。Googleマップに載ってるかも知らないけどうまい。一口一口が美味しいし、向かいに座った人は口にご飯粒つけてるの気づかないくらい、携帯と食事に夢中で、人の目なんか気にしてなくて…

よし、また色んなものを吸収するぞ!!
エネルギーチャージ完了!

僕のマカオのおすすめご飯は 焼肉飯







好きなことをしていると時間があっという間に過ぎる。好きな人といるとき、好きなものを選ぶとき、好きな話をしているとき。最近は、気づいたら1冊読み終わっている本もある。
 
小さい頃から学校には色んな教科があった。僕が好きだったのは体育。体を動かして授業が終わるなんて、1日全部体育でいいと思っていた。
次の日の準備をするときも、その授業一つで学校に行くことが楽しみになったり、汗かいた後の給食が揚げパンだった時など。当時は気づくはずもなかったけど、好きなことがあって、それができるってことは、ものすごく恵まれていることなんだなと気付く。
 
いつの間にか”消費が娯楽”、”消費が豊かさ”みたいな歳重ねるごとにそんな機会が増えて、ずっと違和感を感じていた。
 
これはフランス人の友人が言っていた話。
”人間って、生まれながらに無数の扉が開いていて、本人が自由に選べるはずなのに、年を重ねるごとに大人の都合や自分の常識などという理由で勝手に可能性を閉じているんじゃないかな”
 
生き方に、正解もゴールもないはずが、この国では、年齢ごとにライフスタイルが決まっているような空気と、そのモデルケースから外れたとたんに、マイノリティー(少数派)の札を貼る。子供のころの大人への見方は、はてなばかり。自分が間違っているのか?もやもやしている中、ごくわずかだけど、受け入れてくれる人がいた。この話を聞いたとき、ものすごく腑に落ちる表現と言葉選びだった。
 


(フランス・セルジーにて)

 
お金を使わない幸せの方法を知っていて、それは彼らにとって特別ではなく”日常”であり、現地で生活することで気づかせてくれました。なんか、自分で自分の機嫌の取り方を知っているというか…。
 
国語、算数、社会、理科、図工、音楽、この時以上に僕たちは開いている扉を知っているはず。その上で、上に立つ人の役割があるとするならば、どうやったらその扉をくぐれるのか正しい方向へ導き、見守ることかもしれない。
 
全員が道半ばだからこそ、"未完成"に惹かれるのかもしれない。


今の情報社会において、良し悪しや評判(目に見えるもの)や自分が取り入れるものがそのまま思考になり行動になる。

朝、下に降りるとリビングのテレビがついていた。布団を出たくなかった気持ちとぼーっとした時間が過ぎる。起きてすぐ”熊の出没には注意しましょう”と言われても音としか入ってこない。自分とは遠い話だからだ。

いつもと違うことをすると気づきが多い。


バルセロナには、有名な画家の作品や建造物が多くある。
確かに芸術の街と言われるだけあってどこ歩いても僕はそれらしい建物に見えた。
自分はサッカー以外のことを、一切知らないという恥ずかしさと、今まででは考えもしなかった視点を学んだ。
 
知識がないと、恥ずかしい思いをしたり、自信なくしたり、選択肢も生まれない。
生きる上では問題ないかもしれないが、大きな事故は防げる。
”勉強”が自分事になるだけで大きな一歩だと思う。
 
大人になるにつれて、知らないことに対する判断材料がこれまでの経験や、触れてきたことからしかアドバイスできない。いくら経験がある人でも無数の学びには敵わない。
 
学びは一生続くと受け入れて、自分がいいと思ったモノやコトを自分基準で満足できたらそれでいい。

あと、隣の芝生を優しく受け入れれる心があれば。