色々な条件による差別する、される問題がよく注目されている昨今。
結論から言うと、私の感想では、差別も区別も必然(される人が生活や食うに困るのは別、ということにしたい)だと感じます。私自身、なんなら差別してくれという意識、認識。タトゥーがあるし、男性だけどおへそにピアスをしている野郎。タトゥーにしても様々な記号のみを入れるというこだわりっぷり。服を脱げば、なんだ君は?と思われているであろう。だっふんだ。
差別によって存在する文化が沢山あった。そしてそれで裕福になる人も沢山いたし、そうでない人もいた。時代も国も違っても、上手くやる人、そうでない人がいた。全ての差別がなくなったとしよう。それまで様々な立場、角度で利益を得てきた人達はそれ以来継続不可能になる。だってみんな平等になるんだから。あれを言ってはいけない、これを言ってはいけないということに。頑張っていた人も頑張らない人も同じ。つまりはなにか?やはり結局は一つの同じ考えや思想の元に対等でいよう、という話をしてるんすよね?気持ちはわかるけど俺は嫌だ。
だって人間だもの、と言った人もいるし、これでいいのだ、と言った人もいて、それではいけない人ももちろんいる。
色んな国のあり方が全て同じになるだろうか。自分自身すら完璧な理想には近付けないというのに、複数の人間が集まってどの国も同じあり方でいられるだろうか。これだけ自由にやれる時代にあって世の中がどうだというのか。もっと厳しい時代にあって事を成し遂げた少数派と認識された人から学ぶことができないものか。そもそも少数派という認識とは何事か。それぞれ勝手にやりゃあいいものを。誰が何しようがしゃあねえじゃねえか。何だかんだ、自分らの思想、宗教、習慣に染めたがるのが人間の習性のようなもんだったり。何だかんだ権力の奪い合い。ファッションとか音楽とかの流行にしてもそう、少数派だったものが主流になった時、いずれ逆の立場になって悪だったものが正義になり正義だったことが悪に変わる。ニーチェもだいぶ昔だ。反復と差異が反復する。
おそらく、世の中、という漠然としたものが悪かったことは一度も無く、残酷だったとされる第二次大戦があったからこそ私は生まれ生かされ、山へ行けば熊なんかに喰われるだろうし、海へ行けば鮫に喰われるだろうし、自然界は人間に侵されっぱなしだし、今この瞬間も生きるのがやっとの人もいる。私も楽ではないし。あちこちで爆発とか起きている。それもまた芸術だというのか。だからある意味、芸術とは残酷だとも思える。美しさとは残酷だともとれる。この世が美しく素晴らしいのは残酷だからともとれる。この世なんかやってらんないともとれる。
さっき、私は牛の肉を食べた。野菜も食べた。美味しかった。牛としては私に食べられる気なんてさらさら無かった。本気で牛と戦ったら負けることもあるだろう。
様々な被害妄想に侵された時代だった、ような気がした。好きなようにやれない理由をこじつけた時代だった。ほとんど不況だった。ごまかした数字の上に成り立っていた、ということじゃないのか。なんていうか、地球を形成している要素からは逃れられないんだろう。おそらく地球上では時空は曲げらんないだろうし、4次元上では曲げられるんどけど。
重力は平等に働いてた気がします。死も平等に訪れる気がします。この100年か幾らかの幻に感謝。まだ見ぬ誰かにこの思い、届いても届かなくても良し。今これが1000年前だろうが、知るかって。色んな人に、こんにちは。