「知白守黒」

 

 一枚の紙のまん中に、大きな花瓶の絵が白黒の二色で描かれています。有名な絵ですよね。ご覧になったことがありまか?


書道研究 墨游会  http://bokuyu.com/-花瓶

注視するのはその花瓶ではなく、その左右の線によって区切られた二つの空間です。

するとその空間はなんと人の顔が互いに向き合った形ではないですか

 

 この模様を作り出している一本の曲線がもし文字であるならば、「書」はこうした文字の造形によって、ある種の空間を作り上げているのです。

書道とは文字を素材として「紙」(白)と「墨」(黒)という基本的な用具が織りなす芸術であるが、その「紙」というものを単に用具の「紙」として見るのではなく、「白」つまり「空間」として捉えるべきです。

「黒」だけでなく「白」も意識した美的造形感覚を養っていかなければなりません。

そのうえで「黒」つまり「文字」を書かなければなりません。でなければ「お習字」的になってしまいます。




≪引用≫

 字画の疏なる処は以て馬を走らす可く、密なる処は風をも透さ使めず。常に白を計りて以て黒を当つれば、奇趣乃ち出ず。(包世臣『芸舟双楫』所収の鄧石如の言葉)

 


=これは清の鄧石如が、包世臣に直接会って語り伝えたという書作の極意に関する言葉である。

筆に墨をつけて文字を書くということは、点画を紙上に置いてゆくことであると同時に、その一刻ごとに、形をともなう余白を作り上げていくことでもある。

常に余白への配慮のもとに点画を置いてゆくことこそ、すぐれた書の表現を生むための条件であるという。=



「白」を見るという感覚はなかなかつかみづらいものであるが、是非とも気にかけてほしいと思います。


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「字が上手になるには」







多くの人は「字が上手になりたい」と入門してくる。


この書技向上を目指すには先ず「目」を養うことが肝要。



つまり感性(センス)を高めながらの練習ということになる。


右手は自分の脳の指令でしか動かないからだ


「ここを長く、ここを短く」といったことだけを教わるのではおぼつかない。


もちろん初歩的な造形法を教わってからのことであるが、その先が大切。



文字本来の持つ「機能美」そして「造形美」を、「作品」として完成させる課程で芸術的感性を磨くことにある。


つまり「課題の練習」だけに終わらず、「作品制作」というものを通して練習することで、その成果として気づけば上達しているものである。


(私は制作しているときは、それを努力しているとも全然思わない。本能的にただ良いものを創ろうと夢中で制作してるだけ。)


美しいものに敏感にならなければ!…ということ。




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「書道は自己表現」



自己表現の方法は・・・。


たとえば音楽家であれば自分の思想を歌詞にして作曲して自分の歌声で相手に伝えることができます。


画家は自分の感性をキャンパスに。


造形作家は想像するものをどの素材でどう表現するか。


試合やレース参戦はより上位を狙って自分らしいプレーを。


日常の仕事ぶりでもオシャレでも、自分らしさは表現できます…。

 

いろいろと自己表現の方法はありますが「書道」は生活に密着したその方法の一つですね。


書道には書道にしかない良さがあります。


例えば、なかなか人前では物申せなくても、作品が飾られている間は自分がそこにいなくても常に多くの人に見てもらえます。


文字や文章によって、作品は自分の分身となり主張し続けてくれます。


いかがですか?書道してみま専科?




ちょっと簡単にはいきませんが…、

当然作品には自分を映す思想なり感性の匂いがしなければなりません。


どうすれば美しく見せられるだろうかなどの効果的な工夫がなければなりません。


やはり稚拙な作品では誰もみてはくれないので、平素から書技・感性を磨いていかなければならないということになりますね。





「書」は人に見られて上達をするものです。


よってただ練習しているだけではその成果を感じることがなかなかできません。


できれば何かの競書会や展覧会に出品し切磋琢磨することをお勧めします。


多くの人に見てもらうというプレッシャーから自然と練習量もふえたりします。


そして何よりも様々な評価や今後のアドバイスを聞くことができます。


その時々に答えが出てきます。自分の成長を見ることができます。


いいと思いますよ。


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「作品はオーケストラ」


指揮者は指揮棒の振り方でいろいろな楽器・曲調といった全体を束ねる。


ここでバイオリン、ここでシンバル、ここで…それを微妙な振りでイメージを奏者に伝達している。


まさしく「作品はオーケストラ」のよう。


作者は筆という指揮棒でいろいろな造形と線質を表現し、作品を奏でている。


そこには潤喝・細太・強弱・疎密そして緩急遅速といった作品には必要不可欠な要素を一本の筆で以って操り表現しているのである。


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 学書において楽しいことはあまりない。


辛抱しなければならない・道具を洗わなければならない…。

「書いているときが一番楽しい」とはなかなかいかない。

苗木に水をやるときのように、芽が出てくるまで・花をつけるまで、それを楽しみにコツコツと毎日水をやらなければならない。

自分の才能が伸びる期待感が実感できたら幸いである。

 

 ちょっと嫌気がさすと「やめたい」と漏らす。

大人でさえも苦しいときには後ずさりするものである。

ましてや子供はしかり。

「書の重要性」を説いて聞かせるといったご父兄の指導力に期待をよせる。

 

 添削で並んでいるときのことである。

数人前の同じ学年(課題)の人が直されるのを見て並んでいる列から出て書きなおそうとする生徒がいた。

それと対照的は、長蛇の列では私語に交じって、甚だしきは「早くしてよ~」と言葉を漏らす生徒がいる。

なってない。

前者の生徒と後者の生徒では意識がまるで違う。


意識の違いを教えなければ先に進まない。



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「上手な作品」が必ずしも「魅力のある作品」とはいえない。

締め切り間近に上手に書こうと、緊張したり力んだりといった作品は大抵駄作になりがちである。

確かにそれまでの練習は次回の貯金になっているので無駄にはならないが…。

手首が堅くなると線質も造形も魅力がなくなるからである。

女性の顔にしても、マネキンさんの顔は確かに整っていて奇麗だが魅力はない。

それよりちょっと目がたれているけどねぇ…といったところでかわいらしいこともある。

では「魅力のある作品」とは何であろうか?

もちろん未だ明確な答えは出せないが、一種某かの「瞬間的な」「偶然性」が造り出す線質と造り手の感性が具現化した「表情」のある作品ではないかと常々感じている。

だからただ「書かされている」ようではダメである。

私はよく子供などの写真撮影に例えて説明するが、「記念写真」ではない、ましてや「証明写真」ではない、その一瞬の「表情」をとらえることが出来るか…だと思う。

露出などの難しいことはプロに任せておけばいいとして、子供(の撮影)は自然な流れを追うことができる、飽きるまでのわずかな時間が勝負。

笑顔が「パパ~、まだ~?」と膨れっ面に変わってからでは気をとり直させてもダメである。

だから半ば偶然「撮れてしまった」という方が正解かもしれない。

その微妙な「表情」が大切だと思う。

私の作品制作においては必ずといっていいほど酒を飲みながらとなる。

単に好きだからではあるが、酒の助けも馬鹿にはできない。

余計な雑念を捨てられる。

作品は、その瞬間に頭に浮かぶ造形や線質を、いかに雑念(緊張や心配事、見栄など)に邪魔されずストレートに表現出来るかにかかっているのではないか。



つまり、脳ミソからの純度の高い瞬時の念写力が必要とされるように思う。

byメモ玄象

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「漢字」という、意味を持つ文字のなんとも言えない造形美に魅了され、更にはその美をなんとかもっと昇華させたいと筆、墨、紙を使う。

それによって単なる「意思を伝達する道具」としての文字がイキイキとしてくる。

活字のときはちょっと窮屈な感じが、筆で書かれたその文字は、なんだか大あくびをして背伸びをしているようだ。

やっと箱の中から出してもらえたと喜んでいるようだ。とそう思う。

筆という筆記具は文字を美しく表現するのに最適である。よって筆の「妙」を存分に発揮させたい。

滲み、かすれ、太い、細い…そこには文字というより一種の模様を作り上げる。

書作品の見方、ありようを高村光太郎はこう語っている。

ご紹介します。
ちなみにアラベスクとはアラビア風の模様のこと。


『書は一種の抽象芸術でありながら、肉体性がつよく、文字の持つ意味と純粋造型の芸術性とが複雑にからみ合って不可分のやうにも見え、又全然相関関係がないやうにも見え、不即不離の微妙な味を感じさせる。

書を見れば誰でもその書かれた文字の意味を知らうとするが、それと同時にいみなどはどうでもよい書のアラベスクの美に心をひかれる。

しかもそのアラベスクがただの機械的・図様的のものでなくて、それを書いた人間の肉体、ひいてはその精神の力なり、性質なり、高さ低さ清さ卑しさまで明らかにこちらに伝播してくるのである。』

高村光太郎(1883~1956)
『書の深淵』より。


まさしく!いかがですか!?

byメモ玄象http://bokuyu.com/
作品に於いて、私は文字を書いている感覚があまりない。

もちろん文字に対する研究をして文字は書いているのだが、墨の黒と紙の白、特に白を描いている感覚。
つまり白(空間)を作っているのである。

『知白守黒』という言葉がある。「白を知りて黒を守る。」と読む。

この言葉に出会った時には嬉しかった。まさしく私の思い描いていて言葉にならなかった事柄を具現化してくれた感じだ。

作品は、まず白を意識しなければならないということ。ただ白い空間を広くとればいいわけではない。感覚的なことなので、とても難しいが、白い空間を黒で割っていく作業である。

文字を書くが、そして線質を求めるが、そこには白い空間または白い造形が出来上がる。そこを見ているのである。

白は単なる紙の色ではなく空間であるから、黒だけを見ている人は「お習字」になりがちである。

書作品はまず美しくなければならない。そのためにはこの『白』と『黒』をどう操るかが至難の技である。

メモ玄象
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あるところで、ある人から「書道は面白くない」なんて声を聞いた。

その方は悪気で言った訳でなく、率直に世間の代弁をされたみたいだ。


確かに書道は平面的で、テレビのように「動くもの」でもないので、つまらないと感じるのも無理はない。

これは例えると、「活字だけの本」と同じようなもので、見た目には平面かつ動きはない。だから一見(タイトルは見ないものとする)して面白いと思える人はいないはず。


しかし、読み進めるうちに、その内容の理解が進むか、またはストーリーに入り込んで、だんだん面白くなってくるものである。


書道もウワベだけパッと一見するだけでは感動はないかもしれない(?)。


まして見る人の感受性の問題もあるし、見る側にもそれなりの知識・経験がなければならないから。


書作品は、まず白と黒の二色の美、特に「白」を感じることができるか?

文字・内容が理解(これは勉強が必要)できるか?

そして作者を知ることができるか?である。


三者を申し上げるのはちょっと複雑であるが…。

というのも人間の見る目の不確かさで、「有名な人」の書いたものと「聞かされ」たらそれで納得してしまうのが残念で、作品本来を見ることが出来なくなってしまうから。


少々難しくなってしまったが、
どの分野でもいえることだが、少なくとも、じっくり鑑賞しようといった「作品に向き合う姿勢」は必要であろう。
メモ玄象

自分の伝えたい言葉を自分なりの表現で相手に伝える。これは書作の根源である。

文字は自分の意思を伝達する道具。そしてただ伝えるのなら活字のままでもいいが、肉筆でなければ、作者の顔までは伝わらない。

作品を一見して、作者の書いているその瞬間が想像できるような…、作者の姿が表出してくるような、そんな作品でないといけない。

稚拙な作品では誰も見てはくれない。そこで平素から、書技・感性を磨いてゆかなければならない。単なる道具としての「文字」に「美」を付加することが我々の願いである。

自分の伝えたい言葉を、自分なりの表現で相手に伝える…、書作品をもって「自己主張」しようではありませんか♪
メモ玄象