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本とカメラとカメラと本と…

加藤究之介の趣味ブログ。方針:頑張らない(汗

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mixiの日記より(一部改編)。


 憲法問題が色々と言われるので、前々から考えてたことをちょっとここで表明しておきたい。基本的に私は護憲派です。ただ、これは何でもかんでも「護憲!護憲!」と叫びたくて言うのではなく、「結果的護憲」とでも言いましょうか、「別に何もいじる必要は感じられないからそのままでよい」という程度の発想による護憲派です。
 戦後日本は様々な問題に対して憲法解釈でどうにかして来たわけです。だから、今後も憲法解釈でどうにかすればよいと考えます。そもそも「ルールで世界を規定する」ということに無理がある。「名実を一致させる」ということこそが法家の目標であろうが、そんなことが可能であろうはずがない。だから、一本(憲法という)クシを通しておいて、その中で七転八倒して問題を解釈すればよろしかろうとそう考えています。
 こう言うと「クシが現憲法でなきゃいけないということはなかろう。七転八倒して問題に対処するのは不経済であるから、スンナリいくものに変えて何が悪い」と言われるのも片方では無理ないことと思われる。しかし、「不経済であることが悪い」と言うのなら、日本という国の「民主主義」の在り方こそ「不経済」そのものではないか?スンナリいくのが良いことだと言うなら独裁にでもしたらよろしかろう。そもそも「民主主義」なんていう「不経済な(スンナリいかない)システム」によって国を成り立たせているのだから、そこに通すクシは同様に一筋縄ではいかない「難物」を通すに如くはない。さもなければ本来的な「民主主義」の本領は発揮できぬであろう。

 よって、私は結局戦争に日本が進むようなことがあっても、それは良いと思う。勿論、できることならそんなことはない方がよい。しかし、時の趨勢がそれを選ぶなら仕方がないことだ。まさに「民主的に」それが選択されたなら…。

 だから、護憲派の人たちよ。ただ「戦争が嫌だ」は通用しない。もう一歩も二歩も議論を深めて護憲することを心掛けられたがよろしかろう。


 さて、閑話休題。本題はこれから語ることだ。改憲派の諸君。諸君がよく改憲の後ろ盾として持ち出す議論にこのようなものがあるね。「中国やらに財産を奪われてもいいのか?」と言うものだ。こう言われると普通の人たちは「それは…」と言って言いよどんでしまうだろうが、よくよく考えてもらいたい。私たちは例外なく財産を奪われる身の上だ。誰に?それは「死」によってだ。いかな大富豪であっても、あの世には一銭のゼニも一坪の土地も持って行けないのである。ならばそれが「中国やら」にされるか「死」によってされるかの差しかない。ならば、今それらを諦めておけば奪われようが悔しくも何ともないではないか?ああそうだ。この国には「地震」と言う略奪者もいたね。

 なに?「地震」や「死」によって奪われるのと。「中国やら」に奪われるのはわけが違う?なるほど、確かにそうだ。「地震や死」によって財産を奪われても誰も「地震や死」に対して文句は言わないだろうが、「中国やら」がそれを行えば「酷い!」と誹ることになるだろう。そうだ。「中国やら」には「人としての倫理」が求められるのだ。「悪いこと」をすれば当然のように「悪人」の汚名を着せられるのである。勿論戦争状態では倫理もへったくれもないだろう。しかし、200年前ならいざ知らず、現代では彼らの行動は逐一何らかの形で報道されることとなる。観客は何億人もいるのだ。果たしてこのような状況すら彼ら「中国やら」は理解できていないのだろうか?多分そんなことはあるまい。自分たちが行動を起こせば何億と言う観客がディスプレイの向こうで見ていることを知っている。そして、観客たちの機嫌を損ねることが、どれくらい自分のためにならないかもよく知っているはずだ。

 だから、我々も観客にアピールしなければならない。我々は例えば「黄巾賊に襲撃され無抵抗に殺される農民」なのですよと。例えば「呂布軍に徐州城を追われた劉備軍」なのですよと。そして、こうしたアピールに成功していれば、おいそれとは私たちに手出し出来ないと思われるし、仮に手出しされた後にも「観客」を味方につける事ができるだろう。これが外交努力だと私は考えるし、こうした思想に立つ防衛政策の方が我が国には合っているように思われる。なぜこうした方法の方が良いと考えられるかについては、戦時下に「物資調達」が国内でどの程度できるかを想定すれば、自ずと答えは出るように思う。

 最後に更に考えを一歩進めてみよう。現在の日本国の状況を考えよう。私の眼にはこの「国」は亡国に見える。この国がこの国であるということに対して私は何ら意味が見いだせないのだ。そんな死に体の「国」を欲しがる酔狂なモノがいるとはどうしても思われない。だから、「中国やら」が欲しがっているのは「国」ではなく、「土地」や「人」や「物資」なのだろう。そうであるならば明日どうにか働く場所があり、食うものがあれば、別に「国」が日本だろうが中国だろうがアメリカだろうが構ったことではないのだ。どこにいてもそこで人間は兎にも角にも生きている。死ぬまで生きている。そして死んだらサヨウナラなのだから。ならば「ココ」で暮らして死なせてくれるなら「国」がどうあろうと知ったことかということになる。勿論、その国その国の制度があるから、その制度に最低限のお付き合いはする。しかし、国との付き合いなどはその程度の物ではないか?所詮「国」とは実体のない「幽霊」のような存在だ。ご先祖様をお祀りするのと大した差はない。それでもなお改憲を叫ぶ人がいるならば、それはどうしても「国」を守りたい人なのだ。この死に体の「国」を…。多くの人たちの鼻に臭ってくる改憲派連中のウサン臭さ。このウサン臭さの原因が実はこの点に存するのではないかと私は考えている。


 さて、蛇足ながらあと一点。先ほど私は「中国やら」にも「倫理が求められる」と言った。これは本質的には「幽霊」でも、実質的には「人格」として考えられ得る存在だからだ。私が一番厄介だと考えている問題は「テロ」である。これは本質的にも実質的にも「幽霊」なのだ。テロリストは何をしても「酷い!」と罵られない。いや、罵られるが実体のない彼らを罵ることに意味がないのだ。だから、彼らに「倫理」は求められない。私はこの点を最も恐れている。