修行僧の愛 (修行僧4部作3/4)
道ならぬ恋をしました。
愛ともいえぬ、恋です。
愛というには成熟の足らぬ青い果実のような恋です。
貴女はそう言っていた。
お同期さまの才媛の見目麗しい人。
その男装の麗人みたいな彼女。
ベルサイユのバラみたい。
尼僧さんなんてもったいない。
あなただったら良いお嫁さんになれるわよ。
でも、素敵なカリスマ庵主さんになれるんだったら、それも良いじゃない。
そんな方でした。
女性の私でも惚れ惚れするような・・・
でも、彼女としたことが、人を好きになってしまったのですね。
そう、在家のお方に心を奪われて、修行に身が入らなくなってしまいました。
彼とはあの世で一緒になるのよ
心中するわけでもないのでしょうが、根がロマンチストなのでしょう。
この世では一緒になれないの
悲壮感に浸り切る、悲恋に酔う、道に迷う。
これが恋の醍醐味ですね。こんなことがあるのが人生ですね。
私はひとり娘で、お寺の家業を継がなくてはいけません
もう何度も別れようと思いました
在家の彼とは道がありません
道がないというのは先がないということかな。
先がないのが人生じゃないですか。
あの世で一緒になるということ、これは死を意味するのではない。
これは共にご来迎に相成り、お浄土で行動を共にするということを意味しますね。
時期が別であっても良い。
僧侶が天界へ旅立つということは、仏教界では2度目の出家を意味しますね。
僧侶になる時に1度、涅槃に旅立つ時に2度目を。
死ぬということは生きるということなのです。
生きるということは生き直すということなのです。
そして、生きる即ち生き直すということには、1つの要素に過ぎませんが、「愛を知る」ということが包括されます。
1度であってもその人の心の中で、「愛を知る」ことができたならば、その人生は本望であり、幸せが感じられるものだったと、いえるのではないでしょうか。
例えそれがいかなる形であったとしても、生きる上でも生き直す上でも、世間にどのような目で見られたとしても・・・
本人の心の中でそれが真実ならば、それは愛といわざるを得ません。
そして、それを幸せと思うのならば、その思いは本物ではないでしょうか。
ふと、彼女の生き様を見ていて、考えさせられるものがありました。
幸せというものは、人が決めるものではなく、自分の心が決めるものですね。
既に得られている幸せに気付けないこともありますね。
彼女のお話は、一般的に見ましてもハッピーエンドといえるものになっています。
在家の彼は、修行を経て僧侶となり、入り婿さんとなり、幸せなマスオさん次期住職となっています。
これもひとえに仏縁の成せる業でしょう。
この仏縁のお導きの幸せにあやかり、シングルのお方にも幸福を摑んでいただきたいものだと常々願っています。