本編は下差しから

 

【第六章 白い石造りに潜む影】

 

銃声の余韻がまだ耳の奥で反響していた。

グレイスは馬車の座席に身を沈め、荒い息を整えようとしたが、胸の鼓動は収まらない。

「グレイス殿、大丈夫か?」

手綱を握る清之介が、横目で彼女を見た。

「……ええ、なんとか」

声は震えていた。

だが、目だけは鋭く前を見据えている。

彼女の手には、陸軍省で奪った一枚の伝票。武器弾薬の補給記録――襲撃計画の証拠だ。

しかし、それだけでは足りない。

(なぜ、彼らは宿泊先を知っていた?)

その疑問が、頭の奥で冷たい刃のように突き刺さっていた。

馬車は夜明け前のワシントンの街を駆け抜ける。霧が低く垂れ込め、ガス灯の光がぼんやりと滲んでいた。

「次は国務省に行くわ」

グレイスは短く告げた。

清之介は眉をひそめる。

「危険だぞ。奴らの手は、そこにも伸びているかもしれない」

「分かってるわ。でも、照会記録を確認しなければ、使節団を守れない」

彼女の声には、恐怖よりも決意が宿っていた。

馬車が国務省の前で止まった。

霧の中、朝日が淡く差し込み、石造りの建物が黄金色に染まっていく。

グレイスは懐の書類を握りしめ、深く息を吸った。

「ここからは、私一人で行くわ」

清之介が手綱を引き、彼女を見つめる。

「危険だ。拙者も――」

「だめよ」

彼女は首を振り、静かに微笑んだ。

「あなたがここにいたら、余計に目立つ。戻って、使節団を守るためにも」

その声は、冷たい決意の奥に、わずかな震えを含んでいた。

清之介はしばし黙ったまま、彼女の瞳を見つめた。

朝の光がその瞳に映り込み、琥珀色に輝いている。

「……必ず戻ってこい」

低く、絞り出すような声。

グレイスは微笑み、彼の手にそっと触れた。

「約束するわ」

その瞬間、彼女の指先が彼の手の甲をかすめ、二人の間に言葉にならない熱が走った。

ほんの一瞬――だが、永遠にも思える沈黙。

「行って」

彼女は囁き、馬車から降りる。

清之介は手綱を鳴らし、馬車がゆっくりと動き出す。

振り返った彼女の視線と、彼の視線が最後に絡み合う。

霧の中、車輪の音が遠ざかる。

グレイスは胸に手を当て、深く息を吸った。

(必ず……証拠を)

そして、彼女は国務省の重い扉を押し開けた。

国務省の白い石造りの建物に足を踏み入れた瞬間、グレイスは空気の違いを感じた。

陸軍省の硬質な緊張とは異なり、ここには静けさと秩序が漂っている。

だが、その静けさこそが、何かを覆い隠しているように思えた。

彼女は受付を通り、外交部局の廊下を進む。

壁には各国との条約締結を記念する額縁が並び、その中には日本との通商条約草案に関する文書もあった。

扉の前で身分証と通行証を提示すると、職員は一瞬だけ眉をひそめたが、無言で鍵を差し出した。

「十五分以内にお願いします。記録の持ち出しは禁止です」

「承知しています」

扉が開くと、冷たい空気が頬を撫でた。

窓のない部屋。棚に並ぶ分厚いファイル。

外交照会、議会報告、使節団関連の文書——

そのすべてが、整然と並びながらも、何かを語ろうとしているようだった。

グレイスは慎重にファイルをめくる。

使節団の訪問予定、議会との面会日程、陸軍省との連携記録。

どれも正規の手続きに見える。だが、ある照会文書に見慣れない部隊名が記されていた。

「1860年3月12日 議会提出用外交日程照会

「照会元:陸軍省 第12師団  第52連隊 兵站中隊 照会目的:警備体制確認のため」

彼女の眉がわずかに動いた。

(第12師団……?)

使節団の警備は、確か第1騎兵師団から派遣されている。

それは父から聞いていた公式な情報であり、議会にも報告されているはずだった。

(なぜ外交日程を? しかも、関係のない師団から?)

さらに目を凝らすと、照会文書の受領印は外交部局の職員ではなく、別の部署——

「戦略調整室」の名が記されていた。

(戦略調整室……父の管轄外。そして、この照会文書の承認欄にある名前……)

グレイスは目を細めた。

そこに記されていたのは、戦略調整室の次官——エドワード・ラングフォード

(……戦略調整室次官が外交部の書類に承認印を押す権限なんて、あるはずがない)

彼女の胸に、冷たい疑念が走った。

この文書は、正式なルートを通っていない。

グレイスはファイルをそっと閉じた。

(これは、ただの照会じゃない。陰謀の痕跡だ)

この文書を父に見せなければならない。

そして、国務省の奥深くに潜む影を、暴かなければならない。

戦略調整室次官の承認印が、なぜこの文書に記されているのか。

しかも、使節団の動向に関する照会が、正規の警護部隊ではなく、第12師団から発せられている。

(E. Langford……この人が、すべてを動かしていた.....)

それは、使節団襲撃の準備が、国務省内部から始まっていたことを示す証拠だった。

彼女は文書をそっと懐に忍ばせた。陸軍省で手に入れた伝票と合わせて二つ。

この二つが揃えば、陰謀の輪郭ははっきりと浮かび上がる。

だが、真実に近づくほど、危険もまた濃くなる。

グレイスは深く息を吸い、記録室の扉へと向かった。

ちょうどその時、記録室の扉が静かに開いた。

「時間です、補佐官」

受付の男が無表情で立っていた。

だが、その目は鋭く、彼女の動きを一瞬たりとも見逃していない。

「ご協力、感謝します」

グレイスは微笑みを浮かべながら、歩を進めた。

「何か、見つかりましたか?」

その問いは、ただの挨拶ではなかった。

声の調子がわずかに低く、探るような響きがあった。

「ええ、議会報告に必要な日程確認を。外交部局の記録は整っていて助かりました」

「そうですか……」

男は一歩、彼女の進路に寄るように立った。

「ところで、先ほどの棚は通常、照会が必要な区画です。どなたの許可で?」

グレイスは一瞬だけ沈黙し、父の名を口にした。

「ジョン・W・グレイ次官補です。」

だが、疑念は完全には晴れない。

「……なるほど。では、記録の持ち出しはありませんね?」

「もちろんです」

グレイスは微笑みを保ったまま、懐の文書に手を添えた。

その紙の感触が、彼女の決意を支えていた。

男はしばらく沈黙し、やがて小さく頷いた。

「お気をつけて、補佐官」

「ありがとう」

グレイスはその場を離れた。

彼女はいっさい振り返らない。

今、彼女の胸には——真実の断片が二つ、確かに揃っていた。

国務省の政治部次官執務室。

重厚な扉をノックすると、父の低い声が返ってきた。

「入っていいぞ、グレイス」

グレイスは扉を開け、静かに部屋へ入った。

机の上には議会報告書と外交照会文書が積まれている。

父は眼鏡越しに娘を見つめ、眉をわずかに動かした。

「陸軍省で何か見つけたのか?」

グレイスは懐から二枚の書類を取り出し、机の上に並べた。

一枚は陸軍省補給課の伝票。

もう一枚は外交部局の記録室で見つけた照会文書。

「この伝票、襲撃の前日に第3倉庫へ武器弾薬が搬入されています。訓練用とされていますが、搬入ルー
トが通常と違います。そしてこちら——外交日程の照会が、なぜか第12師団兵站中隊から出されているんです」

父は書類に目を通し、顔をしかめた。

「第12師団? 使節団の警備は第1騎兵師団のはずだ。これは……筋が通らん」

グレイスはさらに声を落とした。

「しかも、照会文書の承認欄に——エドワード・ラングフォードの名前があるんです。戦略調整室次官がなぜ外交部の照会文書に署名を?」

父の手が止まった。

彼の目が鋭くなり、机の上の書類をじっと見つめた。

「……彼には承認印を押す権限はない。これは、誰かが彼の名を使って動かしているか、あるいは——本人が非公式に関与しているかだ」

グレイスは息を呑んだ。

父の声には、怒りと恐れが混じっていた。

「この二枚の書類が示しているのは、軍と外交の両方から情報が漏れていたということ。そして、それを動かしていたのが……」

「エドワード・ラングフォードもしくは彼の名を騙る人物の影です」

父は椅子にもたれ、深く息を吐いた。

「グレイス、これ以上は危険だ。だが……君がここまで掴んだ以上、我々は動かねばならない」

「戦略調整室を調べます。そこに、彼の影が残っているはずです」

父は頷きかけたが、ふと表情を引き締めた。

「……それと、外交部が使節団のホテル焼き討ちの件とお前の陸軍省での銃撃戦の件だが、報道規制を敷くようだ。陸軍省も痛い腹を探られたくないみたいだし、今のところ国務省へのクレームはきていない。表向きは、『たばこの不始末』と『訓練中の事故』で片付けられるだろう」

グレイスは唇を噛み、静かにうなずいた。

「分かっています。真実は、私たちが掴むしかない。清之介たちが命を懸けて守ったものを、私が見過ごすわけにはいきません」
 

【本日の挿絵】

(AIに描いてもらいました)